★字 あざ
土地の小名(こな)、市町村の行政区分。大字(おおあざ)と小字(こあざ)があり、複数の大字によって市町村が構成され、大字は複数の小字からなる。名称は山林や田畑などの自然地名や、寺院名などに由来する。小字を一般に字という。



★有栖川宮熾仁親王 ありすがわのみや・たるひと・しんのう
幕末・明治時代の皇族、政治家、軍人。1835年(天保6年)生まれ。王政復古後に新政府の総裁となり、戊辰戦争で東征大総督として官軍を率いた。兵部卿、福岡県知事、元老院議長を歴任。西南戦争には征討総督として出征。陸軍大将となり、日清戦争で参謀総長を務めた。



★行宮 あんぐう
天皇の諸国巡幸のときに設けられる仮の御所。



★伊賀同心衆 いが・どうしんしゅう
江戸幕府の諜報活動や警察業務・雑役に従事した伊賀出身の下級役人。大奥の警護なども行った。伊賀組、伊賀衆ともいう。戦国時代より忍者として斥候・間諜に従事した。



★石川啄木 いしかわ・たくぼく
明治期の歌人・詩人。本名は一(はじめ)。岩手県に生まれ、雑誌「明星」に短歌を発表した。明治41年(1908年)4月、上京して本郷菊坂町・森川町・本郷弓町に下宿。東京朝日新聞の校正係をしながら創作を続け、明治45年(1912年)4月13日、小石川久堅町にて肺結核のため死去した。享年26歳。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」などを遺した。



★稲垣摂津守 いながき・せっつのかみ
志摩鳥羽藩の稲垣家藩主。摂津守は稲垣長以、稲垣長明、稲垣長行の3人がいる。鳥羽藩は志摩国にあった藩で、戦国時代は九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆が志摩国一円を支配。関ヶ原の戦い後、嘉隆の子・守隆が初代藩主になった。享保10年(1725)、下野鳥山藩主・稲垣昭賢が鳥羽藩に移封。幕末まで稲垣家が藩主を務めた。



★稲荷神社 いなり・じんじゃ
稲荷社ともいい、稲荷伸を祀る神社。独立した神社のほか、境内社、合祀社が30,000社あるといわれ、屋敷社などを含めると全国に膨大な数の稲荷神社がある。



★稲荷神 いなりのかみ、いなりしん
五穀を司る穀物の神、宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)のこと。稲生(いななり)の音韻が変化したといわれる。宇賀御魂命の別称、御饌津神(みけつかみ)と三狐神が結び付いて、狐が稲荷伸の使いとなった。油揚げが狐の好物とされたことから、稲荷伸の供物とするようになった。稲荷、稲荷明神ともいう。



★磐城平藩安藤家 いわきたいらはん・あんどうけ
1756年(宝暦6年)、美濃加納藩第3代藩主・安藤信成が転封し、陸奥磐城平(福島県浜通り南部)の藩主となった。5万石。5代藩主・安藤信正は、1860年(安政7年)老中となるが、坂下門外の変により、1862年(文久2年)4月老中を罷免された。1843年(天保14年)より長門守。お茶の水女子大学敷地に安藤家下屋敷があり、1857年(安政4年)の絵図には、安藤長門守と記載されている。



★岩槻藩大岡家 いわつきはん・おおおかけ
三河国の戦国武将・大岡忠勝を初代当主とする大岡家の分家で、宗家第3代当主・大岡忠世の甥・忠房が始祖。第4代当主・大岡忠光が第9代将軍・徳川家重に小姓・側近として仕え、宝暦元年(1751)、1万石に加増されて上総勝浦藩の大名となり、宝暦6年(1756)、武蔵岩槻藩2万石に移封。第9代当主・忠固の時に2万3千石に加増された。



★倉稲魂命 うかのみたまのみこと
記紀に登場する神で、稲の霊魂が神格化されたもの。穀物神で多くは女神とされる。『古事記』では宇迦之御魂神と表記。



★宇和島藩伊達家 うわじまはん・だてけ
1614年(慶長19年)陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の長男・秀宗遠江守が伊予国宇和島(愛媛県宇和島市)に10万石で入封し、藩主となった。以後、明治まで伊達家が治めた。幕末領主は伊達宗徳遠江守。上屋敷は、六本木の国立新美術館。



★永青文庫 えいせい・ぶんこ
1950年(昭和25年)に設立された日本・東洋の古美術品を中心とした美術館。熊本藩細川家伝来の美術工芸品・歴史資料・書籍などの文化財を収蔵、展示している。建物は昭和初期に細川侯爵家の事務所として建てられたもの。



★江戸砂子 えど・すなご
江戸時代中期の江戸の地誌。『江戸砂子温故名跡誌』などの別名がある。享保17年(1732)刊、菊岡沾涼著。江戸を中心に名所、旧跡などを解説。享保20年(1735)補遺版『続江戸砂子』、明和9年(1772)丹治恒足軒校正『再校江戸砂子』などが出版された。



★江戸名所図会 えど・めいしょ・ずえ
江戸時代後期の江戸の地誌。天保5年(1834)1-3巻、天保7年(1836)4-7巻を刊行、著者は斎藤長秋・莞斎・月岑。名所、旧跡、寺社などを解説、当時の景観や風俗を描いた長谷川雪旦の精緻な挿絵が貴重な史料となっている。



★奥州街道 おうしゅう・かいどう
江戸時代の五街道の一つで、奥羽街道ともいう。江戸日本橋から、千住、草加、宇都宮、白河、二本松、仙台、花巻を経て青森に至る。日本橋から宇都宮までは日光街道と重複。狭義には宇都宮以北をいう。



★大岡主膳正 おおおか・しゅぜんのかみ
武蔵国岩槻藩の大岡家藩主。主膳正は大岡忠正、大岡忠固、大岡忠貫の3人がいる。宝暦6年(1756)、上総勝浦藩主・大岡忠光が岩槻藩に入封し、幕末まで大岡家が藩主を務めた。



★大岡忠相 おおおか・ただすけ
江戸時代中期の幕臣・大名。延宝5年(1677)生まれ。江戸南町奉行として町火消創設、小石川養生所開設等、享保の改革を行った。官位から大岡越前守として知られる。寺社奉行となり、寛延元年(1748)、1万石に加増されて三河国西大平藩の初代藩主となった。



★大久保長門守 おおくぼ・ながとのかみ
大久保長門守教寛を初代とする駿河松長藩の藩主。相模小田原藩主・大久保忠朝の次男。1698年(元禄11年)に兄・忠増から駿河・相模国内で6000石を与えられる。1706年(宝永3年)加増により11000石で駿河松長(沼津市松長)に立藩。第5代藩主・大久保長門守教翅の時、藩庁を荻野山中(厚木市中荻野)に移し、荻野山中藩となる。幕末藩主は第7代・大久保長門守教義。



★太田道灌 おおた・どうかん
室町時代の武将。道灌は法名で、名は資長。扇谷上杉定正の家臣で、長禄1年(1457)、江戸城を築いて居城とした。文明8年(1476)、山内上杉氏の内乱を平定したが、山内上杉氏の策略により、文明18年(1486)、主君定正に謀殺された。兵法に長じ、学問や歌人としても優れた。



★大田南畝 おおた・なんぼ
江戸後期の狂歌師・戯作者。牛込御徒町生まれ。幕府の勘定所役人を務める一方で、狂歌など町人文学 の中心的存在となり、天明調狂歌の基礎を作った。終焉の地は神田駿河台。小日向金剛寺坂付近にも住んだ。編著作に『鯛の味噌津』『一話一言』『万載狂歌集』など。



★大塚三業通り おおつか・さんぎょうどおり
千川通りに沿った南大塚1丁目にある、谷端川を暗渠化した道。1922年(大正11年)、谷端川北側に三業地の指定を受け、芸妓置屋、待合、料理屋の組合が組織され、花街として栄えた。戦後、衰退するが、現在も大塚三業組合の検番があり、芸妓、料理屋が残っている。



★大塚先儒墓所 おおつか・せんじゅぼしょ
徳川幕府に仕えた儒学者たちの墓地で、室鳩巣、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、木下順庵ら、家族を含めて64基の墓がある。明治維新後は荒廃していたが、大正3年(1914)に史跡に指定され、保存されている。



★太田姫稲荷神社 おおたひめ・いなりじんじゃ
長禄元年(1457)、太田道灌が江戸城内に勧請した山城国一口(いもあらい)稲荷神社と伝えられ、徳川家康入府後の江戸城改築により神田駿河台に遷された。昭和6年(1931)、鉄道用地となり、現在地へ移転。太田姫は太田道灌の娘に因む。



★小川家文書 おがわけ・ぶんしょ
明暦2年(1656〉に武蔵野の新田開発を願い出て着手した小川九郎兵衛に始まり、明治5年(1872)まで名主を務めた小川家に残された文書のこと。小川家、および小川村の歴史と発展を記す10,946点からなる文書で、貴重な地域資料となっている。小川新田は現在の東京都小平市小川町。



★弟橘媛 おとたちばなのひめ
記紀に登場する伝説上の女性。『古事記』では弟橘比売命と表記。日本武尊の妃で東征に同行。走水の海(浦賀水道)を渡る際に海が荒れたため身を投じて海神の怒りを鎮め、尊を上総に渡らせたという説話がある。



★尾張徳川家 おわり・とくがわけ
徳川御三家の一つで、徳川家康の第9子・義直が始祖。尾張藩61万9千石、名古屋城が藩庁。江戸藩邸は市ヶ谷で、跡地は防衛省のある自衛隊市ヶ谷駐屯地。麹町に中屋敷、四谷・戸山に下屋敷等を有した。尾州家ともいう。



★加賀藩前田家 かがはん・まえだけ
江戸時代、金沢を居城として加賀国・能登国・越中国の大半を領有した外様の大藩。藩祖は戦国大名・前田利家で、織田信長に能登国を与えられ、豊臣秀吉に臣従、加賀・越中国を与えられた。関ケ原の合戦で東軍についた利家の嫡子・利長が初代藩主。第13代藩主・慶寧の時に幕末を迎え、維新後は侯爵家となった。



★掛川藩太田家 かけがわはん・おおたけ
江戸時代前期の譜代大名・太田資宗を初代とする。5代当主・資俊が上野館林藩から移封し、遠江国掛川藩初代藩主となる。藩庁は静岡県掛川市。幕末藩主は第7代、掛川藩太田家11代当主・資美。明治17年(1884年)に子爵を叙爵。



★嘉納治五郎 かのう・じごろう
柔道家、教育者。万延元年(1860)、摂津(兵庫県)生まれ。古来の柔術を集大成した近代柔道の創始者で、明治15年(1882)に講道館を設立した。東京高等師範学校校長を務め、体育教育の発展に貢献。日本の初代IOC委員となり、1940年東京オリンピックを招致。大日本体育協会を創設した。



★川崎財閥 かわさき・ざいばつ
銀行、保険、信託を主として、戦前まで存在した東京の財閥。水戸藩勘定方だった川崎八右衛門が1872年に東京で川崎組を設立。川崎銀行に発展し、関東の銀行、保険会社などを傘下に持ち、金融業を中心とする財閥を築いた。



★神田上水 かんだ・じょうすい
江戸初期、江戸に設けられた日本最古の上水道。武蔵野・井之頭池を水源として、関口大洗堰より分水した神田上水は、現在の巻石通り、水戸藩邸、水道橋を経て神田・日本橋などに水を供給した。江戸川公園(関口大洗堰)、小石川後楽園(水戸藩邸)、水道橋、本郷給水所公苑などに神田上水の遺構や記念碑がある。明治に入り、水質を保つために水路に石蓋を掛けたが、それを巻石蓋と呼んだことが、巻石通りの名の由来となっている。別名・水道通り。神田上水は1901年(明治34年)に廃止された。



★神田神社 かんだ・じんじゃ
天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(千代田区大手町将門塚周辺)に大己貴命を祀ったのを起源とし、延慶2年(1309)、平将門を合祀したとされる。慶長8年(1603)、江戸城改築により駿河台に遷り、元和2年(1616)、現在地に遷座した。神田明神ともいう。



★観潮楼 かんちょうろう
明治時代の小説家、森鴎外の駒込千駄木町57番地(現・文京区千駄木1-23-4)にあった住居。明治25年(1892)から大正11年(1922)に没するまで居住した。二階の書斎から東京湾が望めたことから観潮楼と命名。昭和12年と昭和20年の戦災で二度焼失。表門の礎石や敷石、銀杏などが残っている。現在、観潮楼跡には平成24年(2012)開館の森鴎外記念館が建っている。



★寛文年録 かんぶん・ねんろく
江戸幕府の諸役所で業務について記した備忘録の内、寛文元年(1661)から13年(1673)までの日記類を纏めたもの。



★紀伊田辺藩安藤家 きいたなべはん・あんどうけ
紀州藩支藩・紀伊田辺藩主。1619年(元和5年)、徳川家康10男・頼宣が紀州藩主に転封した際、遠江掛川城主・安藤直次が付家老となる。紀伊田辺(和歌山県田辺市)に所領38000石を与えられて藩主。紀伊田辺藩安藤家は徳川将軍家陪臣であったために大名とはみなされなかったが、18代藩主・安藤飛騨守直裕の1868年(慶応4年)に立藩する。



★旧磯野家住宅 きゅう・いそのけ・じゅうたく
実業家・磯野敬が建設した木造住宅。母屋は明治42年に着工し、大正元年に完成した。屋根は銅板瓦葺き、外壁にも銅板が張られている。表門は尾州檜の太い丸太材を柱に用い、大正2年に完成。伝統的な木造建築技術と明治以降の技術との融合による近代和風建築として高く評価されている。2005年に国の重要文化財の指定を受けた。現在の所有者は財団法人大谷美術館。



★旧安田楠雄邸庭園 きゅう・やすだくすおてい・ていえん
大正8~9年(1919~1920)に実業家・藤田好三郎邸として造られ、大正12年(1923)、安田財閥で第三銀行頭取等を歴任した安田善四郎が入手した邸宅。昭和12年(1937)、善四郎の長男・楠雄が相続し、平成7年(1995)、楠雄他界により、遺族より日本ナショナルトラストに寄贈された。



★切支丹屋敷 きりしたん・やしき
初代宗門改役(しゅうもんあらためやく)であった大目付・井上筑後守政重の下屋敷。山屋敷とも呼ばれる。宗門改役はキリシタン禁圧・摘発を行う役職で、切支丹奉行とも呼ばれた。1646年(正保3年)に屋敷内に牢屋を建て、棄教したカトリック宣教師・転びバテレンを収容して切支丹や宣教師の情報集めに使った。入牢者に、遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなったイタリアのイエズス会宣教師ヨセフ・キアラ、新井白石が『西洋紀聞』に著したイタリア人神父ジョバンニ・シドッチがいる。切支丹屋敷は1724年(享保9年)に火事で焼失、1792年(寛政4年)に廃止された。切支丹屋敷跡は東京都指定旧跡。



★久世大和守 くぜ・やまとのかみ
久世大和守広之を初代とする下総関宿藩主。旗本・久世広宣の3男として生まれ、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の小姓となった。4代将軍徳川家綱の代に若年寄・老中となり、1669年(寛文9年)に5万石で関宿藩(千葉県野田市)に入封し藩主となる。幕末に第7代藩主・久世大和守広周が老中となるが坂下門外の変で失脚、1862年(文久2年)に家督を10歳の広文に譲り蟄居した。



★組屋敷 くみやしき
江戸時代、足軽や与力・同心などの組に与えられていた屋敷地。まとまって屋敷地を与えられたことから大繩地(おおなわち)ともいう。



★熊本藩細川家 くまもとはん・ほそかわけ
安土桃山時代の武将、細川藤孝が初代当主。嫡男忠興が関ヶ原の戦いで東軍に与し、江戸幕府の豊前小倉藩主となる。寛永9年(1632)、忠興の子忠利が肥後熊本藩に転封され初代藩主となる。以降54万石の外様大名雄藩として12代藩主・細川護久まで続き幕末を迎える。明治から戦前まで侯爵家。第79代内閣総理大臣・細川護熙は第18代当主。



★慶安の変 けいあん・の・へん
慶安4年(1651)、由井正雪、丸橋忠弥らが、市中に溢れる浪人を集めて幕府転覆を企てた事件。関ヶ原の戦い以降、徳川幕府が多くの大名を改易・減封したために多くの浪人が発生した。事前に発覚し、正雪は自刃、他は捕らえられた。



★小石川 こいしかわ
かつて文京区の千川通りに沿って流れていた川で、茗荷谷や白山通り東の指ヶ谷から流れ込む支流を含めて小石川と呼んだ。また、この一帯の地名。『江戸砂子』には、「小石多き小川幾筋もある故小石川と名づけし」とあり、小石川は礫川とも書く。千川通りに沿った本流は、上流では谷端川(やばたがわ)と呼ばれ、豊島区の粟島神社境内の弁天池を水源とする。1934年に下流部、1964年までに全区間が暗渠となった。下流部の小石川は大正・昭和以降、千川と呼ばれるようになり、千川通りにその名を残している。



★小石川後楽園 こいしかわ・こうらくえん
水戸徳川家の上屋敷内に造られた築山回遊式泉水庭園で、神田上水の分流を引き入れて造園された。国特別史跡・特別名勝で現在は都立庭園。1629年(寛永6年)、水戸藩初代藩主・徳川頼房が造園し、三男の2代藩主・光圀が改修・完成して後楽園と命名した。園内には梅・桜・藤・花菖蒲などのほか、多くの野鳥も観察される。



★小石川植物園 こいしかわ・しょくぶつえん
1684年(貞享元年)、麻布にあった薬園を小石川の徳川綱吉別邸に移設した小石川御薬園が始まり。麻布の薬園は薬草栽培のために、1638年(寛永15年)、幕府が麻布と大塚に設置したもので、大塚の薬園はのちに廃止された。第8代将軍・吉宗の時代に敷地全部が薬草園として使われるようになった。1722年(享保7年)には御薬園内に小石川養生所が開設された。明治に入って東京大学の附属施設となり、現在は東京大学大学院理学系研究科の附属施設として一般公開されている。



★小石川志料 こいしかわ・しりょう
文政3年(1820)に著された小石川について書かれた地誌で、著者は『新編武蔵風土記稿』の編纂に関わった儒者・松崎純庸。街巷、山川、橋梁、馬場、神社、寺院、墳墓、古跡などについて記されている。



★小石川養生所 こいしかわ・ようじょうじょ
1722年(享保7年)、第8代将軍徳川吉宗が小石川御薬園内に設置した、無料の医療施設。町医者の小川笙船が将軍への目安箱に訴願し、貧民救済施設として開設、当初、小川ら7名の医師が治療にあたった。農村から江戸への人口流入により増大した都市下層民対策として行われた、享保の改革の一。明治維新により廃止された。



★孔子 こうし
中国、春秋時代の思想家。儒教の開祖。前552年頃、魯の昌平郷陬邑(すうゆう)に生まれる。魯に仕えた後、諸国を流浪。晩年、魯に帰り多くの弟子を育てた。前479年没。『論語』は弟子たちによって編纂された孔子の言行録。



★孔子廟 こうし・びょう
中国、春秋時代の思想家、孔子を祀る廟。没後、魯の昌平郷陬邑(すうゆう)にある孔子の旧居を廟に改築したのが始まりとされる。儒教の祖として歴代皇帝によって増改築され、儒教の総本山として信奉されている。正殿は大成殿。霊廟は日本や韓国、台湾、ベトナム、マレーシアにもある。



★幸田露伴 こうだ・ろはん
小説家。1867年(慶応3年)、江戸・下谷生まれ。代表作に『五重塔』『運命』等。小説家・随筆家の幸田文は娘。幸田文の娘は、随筆家の青木玉。



★講談社野間記念館 こうだんしゃ・のま・きねんかん
2004年(平成16年)に設立された美術館。講談社初代社長・野間清治が集めた野間コレクションと出版文化資料などが展示されている。



★講道館 こうどうかん
柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎が1882年(明治15年)に創始した柔術の流派で、段位制を取り入れて講道館柔道と称した。東京・下谷北稲荷町(台東区東上野)の永昌寺に最初の道場が興されたが、移転を重ねた後、現在は文京区春日に講道館がある。館内には図書館・資料館もある。



★江府名勝志 こうふ・めいしょうし
享保18年(1733年)に刊行された江戸の地誌。著者は藤原之廉(南陽子)。略図とともに江戸の各地域、寺院などについて説明する。



★高林寺 こうりんじ
文京区向丘にある曹洞宗系の単立寺院。山号は金峰山。慶長元年(1596)、元神田の金峰山蔵王権現旧跡地に創建。同9年(1604)、お茶の水に移転。明暦2年(1657)の大火後、現在地に移った。境内の湧水をお茶の水に献上したことが、お茶の水の地名の起こりとされる。



★護国寺 ごこくじ
真言宗豊山派大本山護国寺 。1681年(天和元年)、5代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建。徳川将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。明治以降は徳川家との関係が絶たれた。三条実美、山縣有朋、田中光顕、大隈重信などの墓所がある。本堂の観音堂、月光殿等の国指定重要文化財も多い。



★金刀比羅宮東京分社 ことひらぐう・とうきょうぶんしゃ
香川県仲多度津郡琴平町にある神社、金刀比羅宮の分社。初め金刀比羅宮として高松藩松平氏の屋敷内に祀られた。明治40年(1907)金刀比羅神社と改称。関東大震災後、無社格に昇格。昭和31年(1956)松平家より東京分社用地として寄進され、合祀された。金毘羅(こんぴら)さんの愛称で親しまれている。



★小日向神社 こひなた・じんじゃ
1869年(明治2年)5月、氷川神社と田中八幡神社を合祀して、現社名に改称した。氷川神社は、平安中期の武将・平貞盛がこの地方を平定した祈願成就により、940年(天慶3年)に建立した。田中八幡神社は、860年(貞観3年)の建立とされる。合祀前、氷川神社は小日向1丁目の日輪寺の上の蓮華山、田中八幡神社は音羽1丁目に鎮座していた。



★御府内沿革図書 ごふない・えんかく・ずしょ
江戸幕府普請方が編纂した延宝年間(1673~81)から幕末までの江戸の土地利用の変遷を追った地図集。地域を区切って詳述しているが、実測図ではなく必ずしも正確ではない。江戸府内の『御府内往還其外沿革図書』と外周の『御府内場末往還其外沿革図書』に分かれる。文化4年(1807)から文久3年(1863)の調査。



★御府内備考 ごふない・びこう
江戸幕府官撰の江戸の地誌。『御府内風土記』編纂のための資料として作成されたもので『御府内風土記』は明治5年に焼失。江戸の各町の沿革や名所旧跡などが記されている。文政12年(1829)成立。



★根生院 こんじょういん
真言宗豊山派の寺院で金剛賓山延寿寺根生院。寛永12年(1636)3代将軍・徳川家光の命で徳川幕府祈願所として神田白壁町に創建。開山は栄誉。元禄元年(1688)湯島切通の知足院跡に移転。明治22年(1889)池之端七軒町、明治35年(1902)豊島郡高田に移転、現在に至る。



★こんにゃく閻魔 こんにゃく・えんま
浄土宗常光山向西院源覚寺。1624年(寛永元年)の創建。閻魔堂に祀られた閻魔天はこんにゃく閻魔という名で親しまれ、眼病治癒に効能があるといわれる。これは江戸時代、眼病を患った老婆の信心深さに閻魔天が自らの右目を与え、以来、老婆がこんにゃくを供え続けたという故事に由来する。このために閻魔像の右眼が黄色く濁っているのだという。



★済生学舎 さいせい・がくしゃ
明治9年(1876)に医師・長谷川泰が本郷元町に創設した私立医学校。明治15年(1882)湯島に移転、付属病院を併設した。明治36年(1903年)の廃校までに9,000名以上の医師、医学者を育成、男女共学で130名以上の女性医師が誕生した。廃校の翌年、在学生救済のための私立日本医学校(現在の日本医科大学)の設立へと繋がった。出身者に医学者の野口英世、小口忠太、東京女医学校(現在の東京女子医科大学)創設者の吉岡彌生らがいる。



★斎藤実盛 さいとう・さねもり
平安末期の武士。越前国に生まれ、武蔵国長井(埼玉県熊谷市)に移った。源為義、義朝に仕えて保元・平治の乱を戦ったが、のち平氏についた。寿永2年(1183)源義仲との加賀篠原の戦いで討死。



★榊原康政 さかきばら・やすまさ
安土桃山時代の武将。徳川四天王の一人で、家康、秀忠に仕えた。姉川・長篠の戦いで軍功を上げ、上野国館林で立藩した。



★先手組 さきてぐみ
徳川幕府の職名で、弓組と鉄炮組に分かれる。江戸城内外の警備、将軍出向時の警護、市中の火付盗賊改などに当たった。先手頭の下に与力・同心で組織される。



★サトウハチロー さとう・はちろう
詩人。東京・市谷薬王寺町生まれ。「お山の杉の子」「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」「うれしいひなまつり」等の童謡、「リンゴの唄」「目ン無い千鳥」「長崎の鐘」「悲しくてやりきれない」等の歌謡曲や校歌等を多数作詞した。1937年(昭和12年)本郷向ヶ岡弥生町(文京区弥生)に住み、庭にあったハゼの木が「ちいさい秋みつけた」に歌われた。ハゼの木は現在、文京区春日の礫川公園に移植されている。作家の佐藤愛子は異母妹。



★佐藤春夫 さとう・はるお
小説家・詩人。1892年(明治25年)、和歌山県新宮生まれ。「スバル」「三田文学」に詩歌、後に小説を発表した。『殉情詩集』、小説『田園の憂鬱』『晶子曼陀羅』などの作品がある。谷崎潤一郎の妻・千代を譲り受け話題となった。文京区関口には、1927年(昭和2年)から1964年(昭和39年)に没するまで住んだ。



★真田伊賀守 さなだ・いがのかみ
江戸時代前期に上野沼田初代藩主・真田伊賀守信利がいる。上野沼田藩は現在の群馬県沼田市。信利は上野沼田城主・真田信吉の次男として生まれたが、叔父の松代藩主・信政の家督相続をめぐり争いとなり、幕府は信政の子の幸道を松代藩主とし、沼田領を松代藩から独立させて信利が藩主として沼田藩を3万石で立藩した。外様大名。



★讃岐高松藩松平家 さぬきたかまつはん・まつだいらけ
水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の嫡男・松平頼重を初代とする親藩大名。12万石。幕末藩主は11代・頼聰。明治17年(1884)、伯爵家となった。



★七面堂 しちめんどう
七面大明神を祀ってある堂。七面大明神は七面天女、七面大菩薩ともいい、法華経の守護神。日蓮宗総本山・身延山久遠寺の鬼門にあたる七面山山頂に祀られ、鬼門を閉じて七面を開くとされる。



★品川弥二郎 しながわ・やじろう
明治の政治家。長州藩士の家に生まれ、倒幕に参加。明治維新後は明治政府に仕え、ヨーロッパ留学。帰国後は官職を経て、駐独公使、枢密顧問官、宮中顧問官を歴任して内務大臣。明治17年(1884年)に子爵。



★蕉雨園 しょううえん
1897年(明治30年)に宮内大臣・田中光顕(たなか・みつあき)によって建設された邸宅。約6000坪の敷地に回遊式庭園と建物が配置されている。非公開。



★定火消 じょうびけし
江戸幕府の職名で市内の防火、警備を行った。若年寄支配下、役料300人扶持、与力6騎、同心30人。明暦の大火後、万治元年(1658)に初めて4組が置かれた。元禄8年(1695)15組、宝永元年(1704)10組。大名火消、町火消の整備に伴い、慶応2年(1866)には4組に減じた。



★深光寺 じんこうじ
浄土宗・清水山松林院深光寺で1639年(寛永16年)の開山。墓地内にある滝沢馬琴の墓は、文京区指定文化財。キリシタン燈籠小石川七福神の一つである恵比寿天を祀る。



★真珠院 しんじゅいん
伝通院山内の浄土宗の寺で、無量山真珠院全忠寺。1684年(貞享元年)、家康の生母於大(おだい)の方の甥で、初代松本藩主・水野忠清が建立した。真珠院は忠清の院号。於大の方の墓所は、伝通院にある。境内には、手水鉢の下の地中に埋めた甕に水滴が落ちたときの反響音を楽しむ水琴窟、第2代社会党委員長・鈴木茂三郎の墓所がある。小石川七福神の一つで、布袋さまが祀ってある。



★新編武蔵風土記稿 しんぺん・むさし・ふどきこう
徳川幕府官撰の武蔵国の地誌。昌平黌地理局総裁林述斎編で文政11年(1828)成立。郡村里ごとに沿革、地勢、名所、寺社等を全265巻に渡り詳述している。



★水神社 すいじんじゃ
神田上水の守護のための水神を祀った神社。創建年代不明。



★巣鴨大鳥神社 すがも・おおとりじんじゃ
1687年(貞京5年)に創祀された稲荷神社。合殿に大鳥大神を祀るため大鳥神社とも呼ばれ、巣鴨大鳥神社として知られる。1964年(元治元年)に酉の市が立ち現在に続いている。



★誠之館 せいしかん
備後福山藩の藩校。1854年(安政元年)に7代藩主・阿部正弘が既設の藩校・弘道館(後に進学館)を廃し、江戸と福山に誠之館を開いた。校名は孔子『中庸』の「誠者天之道也 誠之者人之道也」から。明治維新後の1872年(明治5年)廃校。江戸藩校は阿部家中屋敷内(文京区西片)、福山藩校は福山城下(福山市中央公園)にあった。



★善光寺 ぜんこうじ
1602年(慶長7年)の創建。伝通院の塔頭で初め縁受院と称したが、1884年(明治17年)に善光寺に改称し、信州・善光寺の分院となった。



★仙台藩伊達家 せんだいはん・だてけ
陸奥国仙台に藩庁を置く外様大名で、幕末まで伊達家が治めたことから伊達藩とも呼ばれる。62万石。初代藩主は戦国大名の伊達政宗。



★善仁寺 ぜんにんじ
浄土真宗大谷派の寺で、石川山福寿院善仁寺。969年(安和2年)に真言宗福寿院として開山したと伝えられている。親鸞が立ち寄った際、杖で清水(極楽水)を湧出させ、住職・釈賢徴が浄土真宗に改宗して、善仁寺となったという言い伝えが残っている。極楽水は現在も湧水として境内にあり、文京区の防災指定井戸となっている。実力制第2代将棋名人・塚田正夫の墓所がある。



★宗慶寺 そうけいじ
伝通院の開祖・了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が、1415年(応永22年)に庵を開いた地。無量山寿経寺と名づけられた。1603年(慶長8年)に寿経寺は現在の地に移転し、伝通院を院号とした。1621年(元和7年)、徳川家康の側室、茶阿局(ちゃあのつぼね)の墓所となり、法名をとって吉永山朝覚院宗慶寺とした。小石川七福神の一つで、寿老人を祀っている。



★台徳院御実紀 たいとくいん・ごじっき
徳川幕府編纂の史書、『御実紀』(徳川実紀)の内、第2代将軍徳川秀忠の政治的業績を収録したもの。台徳院は秀忠の廟号。



★高崎藩大河内松平家 たかさきはん・おおこうち・まつだいらけ
中世の武将・大河内顕綱を祖とする。知恵伊豆の別名を持つ松平伊豆守信綱は大河内氏第13代・久綱の長男で、叔父で松平姓となった大河内松平家初代・松平正綱の養子となった。信綱の長男、武蔵川越藩2代藩主・松平輝綱の6男・輝貞は、叔父で常陸土佐藩主・松平信興の家督を相続、上野高崎藩初代藩主となる。幕末藩主は10代・松平右京亮輝聲で、慶応4年(1868)、大河内に改姓。



★高田村 たかだむら
武蔵野国豊島郡にあった村で、現在の新宿区戸塚町、豊島区高田、目白にかけての一帯をいった。正徳6年(1716)の高田村絵図には神田川の北側、東は関口との境、西は下落合との境、北は雑司が谷との境までが描かれている。



★高橋泥舟 たかはし・でいしゅう
幕末の幕臣。旗本で槍の自得院流の名家・山岡家に生まれ、講武所槍術師範役となる。母方の養子となり高橋家を継いだ。鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜に恭順を説き、 慶喜を護衛。維新後は隠棲して、書画骨董の鑑定などをした。山岡鉄舟は妹の婿養子で義弟。



★滝沢馬琴 たきざわ・ばきん
江戸後期の戯作者・読本作者で、代表作に『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『南総里見八犬伝』がある。本名は滝沢興邦。筆名は曲亭馬琴。江戸・深川で武家に生まれたが、戯作者の道を志し、飯田橋中坂の履物商の娘・百の婿となった。後年は、神田明神下、四谷信濃仲殿町に住み、1848年(嘉永元年)82歳で死去。法名は著作堂隠誉蓑笠居士で、著作堂・蓑笠は別号。深光寺の滝沢馬琴の墓には、先だった妻・百も祀られており、その後ろには晩年馬琴の口述筆記をした嫁・路の墓がある。



★吒枳尼天 だきにてん
インドの神ダーキニーで、吒枳尼天、荼吉尼天とも音写される。死者の肉を食う鬼神とされるが、日本では狐の精とされ、稲荷神と同一視される。



★澤蔵司稲荷 たくぞうす・いなり
浄土宗無量山慈眼院・澤蔵司稲荷。縁起によれば、1618年(元和4年)、澤蔵司という修行僧が伝通院の 学寮に入門した。3年後、澤蔵司は学寮長の夢枕に立ち、江戸城内の稲荷大明神であり浄土宗の奥義を極めたので元の神のもとに帰って伝通院を守護する、と告げて消えた。それで慈眼院を創建し、澤蔵司稲荷を祀ったと伝えられている。境内には「お穴」と呼ばれる霊窟がある。



★炭団 たどん
木炭粉末に布海苔などを加えて練り、球状に固めて乾燥させた黒い固形燃料。火鉢、こたつ、あんかなどで使用する。



★田中光顕 たなか・みつあき
政治家。天保14年(1843年)、土佐藩(高知県)出身。幕末は土佐勤皇党に加わり、上京して陸援隊に参加。明治維新後は警視総監、学習院長などを歴任。明治31年(1898)より宮内大臣となり、宮内省に絶大な権力を築いた。伯爵。



★帝都復興都市計画 ていと・ふっこう・としけいかく
大正12年(1923)の関東大震災後に設置された、後藤新平を総裁とする内閣総理大臣直属の政府機関・帝都復興院が立案した帝都復興事業の都市計画案。復興計画は規模・予算ともに縮小され、帝都復興院は5か月後に廃止された。



★天沢寺 てんたくじ
麟祥院の旧称。寛永元年(1624)、3代将軍徳川家光の乳母・春日局の菩提所として周劉渭川が報恩山天沢寺を開山。寛永20年(1643)に没した春日局の法名を採り、天沢山鱗祥院に改められた。臨済宗妙心寺派。



★伝通院 でんづういん
1415年(応永22年)に了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人によって開山された浄土宗の寺。無量山寿経寺と称し、当初は現在の宗慶寺にあった。徳川家康が生母於大(おだい)の方の遺骨を1603年(慶長8年)に現在の地に埋葬し、寿経寺をここに移転。於大の方の法名を院号として、無量山伝通院寿経寺とした。徳川将軍家の菩提寺。江戸時代、浄土宗の学問所であった関東18檀林の一つ。幕末の1863年(文久3年)には、山内の処静院(しょじょういん)で、新撰組の前身・浪士組が山岡鉄舟・清河八郎らによって結成されている。


★東京医学校 とうきょう・いがっこう
明治初期に設立された官立の医学教育機関。もとは下谷御徒町にあった幕府直轄の西洋医学の医学所で、明治政府の接収により大学東校、第一大学区医学校を経て、1874年(明治7年)に東京医学校となった。1877年に東京開成学校と統合されて東京大学となり、1886年帝国大学、1897年東京帝国大学となる。現在の東京大学医学部の前身。1876年に現在の本郷・東大病院付近に東京医学校本館が新築され、1969年に小石川植物園に移築された。国の重要文化財。



★東京共同射的會社射的場 とうきょうきょうどうしゃてきがいしゃ・しゃてきば
明治9年(1876)に水戸藩江戸中屋敷跡に建設された警視局(現・警視庁)射的場を宮内庁に移管して設立された。会長は小松宮彰仁親王。射撃練習施設として、陸軍、警視庁、上流階級による射的会が行われた。明治21年(1888年)に会社と射的場は大森の山王に移転し、日本帝國小銃射的協会となった。



★東京市区改正条例 とうきょう・しくかいせい・じょうれい
明治21年(1888)に公布された東京市の都市計画。明治22年(1889)、東京市区改正設計が作成され、道路・河川・橋梁・鉄道・公園・市場・火葬場・墓地などからなる計画が策定されたが、財政難から明治36年(1903)、緊急性の高い事業を対象に縮小。大正8年(1919)までに、路面電車敷設の道路整備・水道事業がほぼ完成した。



★東京都戦没者霊苑 とうきょうと・せんぼつしゃ・れいえん
第二次世界大戦における東京都のすべての戦没者を慰霊する施設。1960年(昭和35年)に戦前・陸軍砲兵工廠・諸工伝習所があった跡地につくられた。苑内には鎮魂碑のほか、戦没者の遺品展示室がある。



★東福寺 とうふくじ
真言宗豊山派の寺院で、観光山慈眼院東福寺。創建不明。1562年(永禄5年)に中興され、1691年(元禄4年)に文京区大塚2丁目から現在地に移転。1874年(明治7年)に焼失した福蔵寺を合併した。境内には、かつて大塚天祖神社にあり、江戸名所図会に描かれた十羅刹女堂が置かれている。


★徳川綱吉 とくがわ・つなよし
第5代将軍。大老・堀田正俊のもとで学問所・湯島大聖堂を建立するなどの文治政治を行ったが、その後、柳沢吉保を登用し、悪貨の乱発、生類憐みの令などの悪政で混乱を招いた。一方、綱吉の治世下には近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人が現れ、元禄文化の隆盛をみた。犬公方とも呼ばれる。



★徳川斉昭 とくがわ・なりあき
江戸時代後期の大名で、常陸水戸藩第9代藩主。水戸学派の儒者・藤田東湖らを登用し、天保改革に先駆けて藩改革を行い、藩校・弘道館を設立、反射炉を設けて鉄砲を鋳造した。尊王攘夷論者として幕府に忌まれて謹慎。ペリー来航で幕府参与となるが、井伊直弼と対立。安政の大獄で蟄居となった。



★徳川慶喜 とくがわ・よしのぶ
江戸幕府第15代将軍。1837年(天保8年)、第9代水戸藩主・徳川斉昭の7男として水戸藩邸で生まれる。1847年(弘化4年)、一橋徳川家第9代当主を相続。1866年(慶応2年)、徳川宗家を相続し第15代将軍となる。1867年(慶応3年)、大政奉還。鳥羽・伏見の戦いの後、寛永寺・水戸・駿府で謹慎。戊辰戦争終結による謹慎解除後も引き続き静岡に居住した。1897年(明治30年)より東京・巣鴨に転居し、1901年(明治34年)生誕地に近い小石川金富町(現・文京区春日2丁目)に移る。1913年(大正2年)没。



★豊島岡墓地 としまがおか・ぼち
1873年(明治6年)、明治天皇第一皇子・稚瑞照彦尊が死産した際に、護国寺所有地を召し上げて造られた皇族専用の墓地。戦前は豊島ヶ岡御陵と呼ばれていたが、現在は天皇・皇后が埋葬される陵とは区別されている。



★戸田淡路守 とだ・あわじのかみ
美濃国・三河国に所領を持つ大垣藩支藩、美濃大垣新田藩藩主。藩庁が三河国渥美郡畑村(愛知県田原市福江町)にあったことから、別名・三河畑村藩。初代藩主は戸田淡路守氏成。養父・氏利の跡を継ぎ、兄・戸田氏定より分与された美濃国所領を併せて1万石となったため、1688年(元禄元年)大垣新田藩を立藩した。赤穂藩藩主・浅野長矩は従弟。浅野長矩が元禄14年(1701年)3月に松の廊下事件を起こしたために、縁戚連座処分を受けた。幕末藩主は戸田淡路守氏良。



★豊川稲荷 とよかわ・いなり
愛知県豊川市にある嘉吉元年(1441)創建の曹洞宗の寺院で、正式名称は円福山妙厳寺。豊川稲荷は通称。稲束を担ぎ宝珠を持ち白狐に跨る吒枳尼天(だきにてん)を祀っていることから、稲荷神の本地仏として豊川稲荷と呼ばれるようになった。今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの帰依を受け、稲荷信仰の流行とともに人気を集めた。本尊は千手観音。



★鳥尾小弥太 とりお・こやた
明治の軍人・政治家。長州藩士の家に生まれ、倒幕に参加。明治維新後に軍人となり、陸軍中将。子爵を授けられる。貴族院議員。1905年(明治38年)没。



★永井荷風 ながい・かふう
小説家。1879年(明治12年)、金富町(現・春日2-20-25)に生まれ、13歳まで住んだ。代表作に『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』『?東綺譚』。



★中山道 なかせんどう
江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋から、板橋、大宮、高崎、下諏訪、守山を経て近江草津に至る。日本橋から本郷追分までは日光御成街道と重複する。



★南向茶話 なんこう・ちゃわ
寛延4年(1751)、酒井忠昌によって書かれた江戸の地誌。一問一答形式で解説している。



★西大平藩大岡家 にしおおひらはん・おおおかけ
三河国の戦国武将・大岡忠勝を初代当主とする大岡家の宗家で、分家の大岡忠相が養子に入り第5代当主を継いだ。寛延元年(1748)、忠相は幕臣としての功績により1万石に加増されて三河西大平藩を立藩、大名家となった。



★日光街道 にっこう・かいどう
江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋から、千住、幸手、宇都宮を経て日光に至る。日本橋から宇都宮までは奥州街道と重複。狭義には宇都宮・日光間をいう。



★新渡戸稲造 にとべ・いなぞう
教育者・農学者。アメリカやドイツに留学して農政経済学・農学統計学を学んだ。第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大初代校長、国際連盟事務局長などを歴任し、1933年カナダで開かれた太平洋会議で客死。『農業本論』等の著作がある。小日向には明治37年から昭和8年まで居住。1984年から使われた5000円の旧紙幣に肖像が採用された。



★根津神社 ねづ・じんじゃ
社伝では日本武尊が千駄木に創祀したとされるが、創建年代は不詳。文明年間(1469~1487)に太田道灌が社殿を奉じたと伝えられる。宝永3年(1706)、第6代将軍・家宣となる徳川綱豊の屋敷跡、現在の根津の地に遷座した。根津権現とも呼ばれる。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)。



★白山神社 はくさんじんじゃ
948年(天暦2年)、加賀国の白山比咩(ひめ)神社を勧請し、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建されたのが始まりと伝えられる。白山比咩神社は現在、石川県白山市三宮町にある。 元和年間(1615-24年)に第2代将軍・徳川秀忠の命で巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、1655年(明暦元年)、館林藩主・徳川綱吉(後の第5代将軍)の屋敷造営のため、現在地に遷座した。そのため綱吉と生母桂昌院の崇敬を受けた。境内と隣接の白山公園には約3,000株の紫陽花がある。



★芭蕉庵 ばしょう・あん
俳人として知られる松尾芭蕉が、延宝5年(1677年)から3年間、神田上水の水番人をするために、この地の龍隠庵(りゅうげあん)に住んだといわれる。芭蕉庵は俗称。芭蕉の木像を納めた芭蕉堂、五月雨塚がある。



★林羅山 はやし・らざん
江戸初期の儒学者。京都生まれ。朱子学を学び、徳川家康から家綱までの四代の将軍に仕えた。侍講となり、法令、典礼を整備、上野忍岡に昌平黌のもととなる私塾を建て、幕府の教学の基礎を築いた。



★簸川神社 ひかわ・じんじゃ
社伝では、第5代孝昭天皇の頃、小石川植物園東の御殿坂付近にあった古墳に創建されたと伝えられる古社だが、歴史的には孝昭天皇の実在ははっきりしていない。平安後期に八幡太郎(源義家)が奥州平定の祈願をしたとも伝えられる。1657年(承応元年)、白山御殿造営のため原町(千石1丁目)に移され、1699年(元禄12年)、現在の地に遷座した。江戸時代は氷川大明神と称したが、明治に氷川神社に改称し、大正に簸川神社に改めた。祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)。



★肥後細川庭園 ひご・ほそかわ・ていえん
肥後熊本藩の細川家下屋敷に造られた池泉回遊式庭園で、目白台の湧水を利用。明治時代には細川伯爵邸があった。園内には大正時代の建物で細川家の学問所だった松聲閣(しょうせいかく)がある。



★一橋徳川家 ひとつばし・とくがわけ
第8代将軍徳川吉宗の4男宗尹を初代とする御三卿の一つ。御三卿とは、徳川将軍家に後継ぎがないときに後嗣を出すことのできる家で、他に田安家、清水家がある。第15代将軍慶喜は、御三家の水戸徳川家より養子に入った一橋家第9代当主。



★日比谷入江 ひびや・いりえ
江戸時代初頭まで新橋付近から日比谷・皇居前・大手町まで入り込んでいた入江。江戸城改築に伴う残土や神田山(現在の神田駿河台)を切り崩して埋め立てられた。



★火除地 ひよけち
江戸時代、類焼防止のための防火帯として設けられた空地。町方の火除地を広小路ともいう。明暦の大火後、湯島など5か所に設けられたのが始まりで、焼跡などが利用された。



★平川 ひらかわ
神田川、日本橋川の旧称。水道橋付近から一ツ橋を通り、大手町で日比谷入江に注いでいた。江戸城築城に伴う入江埋立により、日本橋から隅田川に流路を変更する日本橋川を開削。元和2年(1616)、水道橋から御茶の水、浅草橋、隅田川に至る神田川が開削され、平川は堀留となった。明治36年(1903)、堀留が開削され、日本橋川が復活した。



★備後福山藩阿部家 びんごふくやまはん・あべけ
1710年(宝永7年)、下野宇都宮藩主・阿部正邦が10万石で転封し、阿部家初代藩主となった。藩庁は福山城(広島県福山市)。7代藩主・阿部正弘は、水野忠邦の後を受けて老中首席となり、1854年(安政元年)、日米和親条約を締結して日本を開国に導いた。上屋敷は、神田淡路町。



★武江年表 ぶこうねんぴょう
江戸府内外の出来事を編年で記した年表。斎藤月岑著。正編は嘉永2~3年(1849~50)刊、続編は未刊。天正18年(1590)の徳川家康関東入国から明治6年(1873)までを収める。



★文政町方書上 ぶんせい・まちかた・かきあげ
江戸幕府が『御府内備考』の資料として、江戸の町の由来などについて町名主に提出させた調査書。曲輪外の地域が対象で、曲輪内の日本橋・京橋・内神田・麹町などの地域は含まれていない。文政年間に編纂されたことから文政町方書上と呼ばれる。



★宝生能楽堂 ほうしょう・のうがくどう
大正2年(1913)、神田猿楽町に開館した宝生流の能楽堂。大正12年(1923)に関東大震災で全焼。昭和3年(1928)、現在地の松平伯爵邸跡地に再建された。昭和20年(1945)、東京大空襲で全焼、その後再建。能楽の流派としては観世流に次ぐ。



★鳳明館本館 ほうめいかん・ほんかん
明治30年代に建てられた木造2階建ての近代和風建築物で、登録有形文化財。下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造、昭和20年(1945)旅館に模様替えした。下宿・旅館が多かった本郷の歴史的景観を伝える。



★芳林閣 ほうりんかく
子爵・大給近孝が大正15年(1926)に建てた地元青年団のための文武道場で、昭和4年(1929)、町会長を務めていた本郷区林町東部町会に寄贈したもの。現在は千駄木東林町会事務所となっている。



★細川護立 ほそかわ・もりたつ
貴族院議員。1883年(明治16年)、東京生まれ。旧熊本藩細川家の第16代当主。美術品収集家として知られ、それらを保存する目的で永青文庫を設立した。国宝保存会会長、東洋文庫理事長などを歴任。男爵から侯爵。



★堀口大学 ほりぐち・だいがく
詩人・フランス文学者。1892年(明治25年)、東京・本郷生まれ。『月光とピエロ』『砂の枕』『人間の歌』などの詩集や多数の訳詩がある。



★本浄寺 ほんじょうじ
日蓮宗の寺で、寛永年間(1624-45)に真珠院日要が現在の根津神社の地に起立。宝永3年(1706)に根津権現建立の御用地となり、現在地に移転した。山号は真要山。



★本多忠勝 ほんだ・ただかつ
安土桃山時代の武将で徳川家康の側近、徳川四天王の一人。通称は平八郎。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主を務め、慶長15年(1610)に没す。忠勝系本多家宗家初代。



★本妙寺 ほんみょうじ
東京都豊島区巣鴨5丁目にある法華宗陣門流の寺院。徳栄山惣持院本妙寺。元亀2年(1572)駿府に創立。天正18年(1590)徳川家康江戸入府に際し、江戸城清水門内に移転。のち飯田町、牛込門内、小石川を経て本郷丸山。明暦3年(1657)で全焼・再建。明治41年(1908)、現在地移転まで、本郷丸山にあった。境内には明暦の大火供養塔がある。



★前田利鬯 まえだ・としか
加賀大聖寺藩第14代藩主で、加賀藩第12代藩主・前田斉泰の七男。明治維新後は藩知事を経て、明治17年(1884)子爵、明治30年(1897)貴院議員。



★松崎純庸 まつざき・すみつね
江戸後期の旗本。昌平坂学問所地理局による事業『新編武蔵風土記稿』の編纂に関わった儒者の一人。嘉永7年(1854)のアメリカ特使応接掛を命ぜられ、交渉に従事し、日米和親条約の締結に至った松崎柳浪の父。



★松平伊賀守 まつだいら・いがのかみ
徳川家康の高祖父・松平長親の5男・利長を祖とする藤井松平家の分家。宗家第3代・信吉の2男・松平忠晴が伊賀守流藤井松平家初代となり、伊賀守流第3代・忠周が信濃上田藩に入封。幕末は伊賀守流藤井松平家第7代藩主・松平伊賀守忠礼。



★松平讃岐守 まつだいら・さぬきのかみ
松平讃岐守頼重を祖とする讃岐高松藩の藩主。松平頼重は初代水戸藩主の徳川頼房(徳川家康11男)の長男で、徳川光圀の兄。1639年(寛永16年)常陸下館で5万石の藩主となった後、1642年(寛永19年)5月、讃岐高松に12万石で移され、初代藩主となる。1662年(寛文2年)1月27日、官位・讃岐守に。親藩大名。幕末藩主は松平讃岐守頼聰。



★松平大学頭 まつだいら・だいがくのかみ
松平大学頭頼貞を初代とする陸奥守山藩の藩主。松平頼貞の父・頼元は、初代水戸藩主の徳川頼房(徳川家康11男)の4男、徳川光圀の弟。寛文元年(1661年)9月、2万石を分与されて水戸藩の支藩・額田藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月、2代藩主・頼貞の時に所領を陸奥守山(福島県郡山市)に移され、陸奥守山藩を立藩した。歴代、江戸小石川の上屋敷に定住した親藩大名。幕末藩主は松平大学頭頼升。



★松平近説 まつだいら・ちかよし
江戸時代後期の大名で、豊後国府内藩第10代の幕末藩主。大給松平家の祖・乗元の二男・親清を初代とする親清系大給松平家14代当主で、伊勢国桑名藩主・松平定永の十一男として生まれ、大給松平家・近信の養子として家督を相続。慶応4年(1868)、松平を大給に改姓した。明治2~4年(1869~71)府内藩知事。



★松平乗元 まつだいら・のりもと
戦国時代の武将。嘉吉3年(1443)生まれ。大給松平家の祖で、三河国松平家第4代当主・親忠の二男。愛知県豊田市にあった大給城の城主。大給城は15世紀末に廃城となった。



★松平播磨守 まつだいら・はりまのかみ
松平播磨守頼隆を祖とする常陸府中藩(石岡藩)の藩主。松平頼隆は、初代水戸藩主の徳川頼房(徳川家康11男)の5男で、徳川光圀の弟。寛文元年(1661年)9月、兄・光圀より2万石を分与されて水戸藩の支藩である保内藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月、幕府によって所領を吹上から府中(茨城県石岡市)に移され、常陸府中藩を立藩した。江戸定府の親藩大名。最後の藩主は松平播磨守頼策。



★丸橋忠弥 まるばし・ちゅうや
江戸時代前期の武士。宝蔵院流槍術の達人で、江戸御茶の水に道場を開いた。慶安4年(1651)、由井正雪らと幕府転覆を計画するが、事前に発覚して捕らえられ磔となった。



★万治年録 まんじ・ねんろく
江戸幕府の諸役所で業務について記した備忘録の内、万治元年(1658)から3年(1661)までの日記類を纏めたもの。



★三河稲荷神社 みかわ・いなりじんじゃ
文京区本郷にある神社。天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府の際に、三河より吹上に遷したと伝えられ、慶長11年(1606)、本郷に大繩地氏神として奉遷した。明治時代に二度の遷座を行い、明治26年(1893)より現在地。



★三河岡崎藩本多家 みかわおかざきはん・ほんだけ
明和6年(1769)、忠勝系本多家宗家11代で石見浜田藩第3代藩主・本多忠粛が5万石で転封し、三河岡崎藩の藩主となった。中務大輔。以後、明治まで本多家が藩主を務めた。幕末藩主は忠勝系本多家宗家17代・忠敬。上屋敷は、千代田区有楽1丁目ザ・ペニンシュラ東京付近。



★三河吉田藩小笠原家 みかわよしだはん・おがさわらけ
正保2年(1645)、豊後杵築藩初代藩主・小笠原忠知が4万5000石で転封。元禄10年(1697)、4代・小笠原長重が武蔵岩槻藩に移封となるまで藩主を務めた。譜代大名。


★三組 みくみ
徳川幕府の職制で、中間(ちゅうげん)、小人(こびと)、駕籠之者(かごのもの)の3役。中間は江戸城内の長屋の門番、その他雑事、小人は江戸城内の雑役に従事。駕籠之者は将軍の駕籠を管理した。



★水戸徳川家 みと・とくがわけ
徳川御三家のひとつで常陸国水戸藩を治めた。御三家は徳川将軍家に次ぐ地位にあり、徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋の使用が許された。水戸家は徳川家康の11男・松平頼房を始祖とし、1606年(慶長11)に常陸国下妻に10万石を与えられた。駿河家断絶後の1636年(寛永13年)徳川姓を賜姓され、徳川頼房を名乗った。



★水戸藩邸 みと・はんてい
徳川御三家のひとつ、常陸国水戸藩の上屋敷で、神田川の北、文京区後楽・春日にあった。現在の小石川後楽園、東京ドームシティ、礫川公園、中央大学後楽園キャンパス等が屋敷地に含まれる。



★源義仲 みなもとのよしなか
平安末期の武将。源頼朝の従弟で、信濃国木曽で育ち、木曽義仲と呼ばれた。以仁王の平氏討伐の命を受けて挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平家を破り入京した。後白河法皇と対立し、源範頼、義経の追討を受けて永寿3年(1184)近江国粟津で敗死。



★三好達治 みよし・たつじ
詩人。1900年(明治33年)、大阪市生まれ。東京帝国大学文学部仏文科進学で上京し、萩原朔太郎と詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。『測量船』『南窗(なんそう)集』などの詩集がある。佐藤春夫の姪・智恵子、萩原朔太郎の妹・アイと結婚している。



★紫の一本 むらさきのひともと
江戸時代前期の歌学者、戸田茂睡による江戸名所記。天和2年(1682)成立。



★明暦の大火 めいれき・の・たいか
明暦3年(1657)1月18日に本郷丸山本妙寺から出火したとされる大火事で、江戸城および江戸市中の大半を焼いた。施餓鬼に焼いた振袖が火元とされることから振袖火事とも呼ばれる。焼失町数800町余、死者10万人余。供養するために本所回向院が幕府により建立された。



★森鴎外 もり・おうがい
小説家・評論家・翻訳家。1862年(文久2年)島根県津和野生まれ。東京帝国大学医学部を卒業、陸軍軍医のかたわら創作を行った。代表作に『舞姫』『青年』『雁』『阿部一族』。東京・千駄木に住み、住居・観潮楼は現在文京区立森鴎外記念館となっている。随筆家・小説家の森茉莉は長女。



★八百屋お七 やおや・おしち
江戸時代、本郷・駒込界隈に住んでいたとされる八百屋の娘。天和2年(1682)の大火で近くの寺に避難した際に、出会った若者に恋焦がれ、再び火事になれば再会できると考えて市中に放火。天和3年(1683)、火刑になったと伝えられる。井原西鶴が浮世草子『好色五人女』に取り上げ、浄瑠璃・歌舞伎の人気演目となった。



★山岡鉄舟 やまおか・てっしゅう
幕末・明治の剣術家・政治家。江戸に生まれ、幼少より神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流の剣術を学ぶ。小野姓だったが、槍術の名家・山岡家の婿養子となった。高橋泥舟は義兄。1863年(文久3年)、伝通院山内の処静院(しょじょういん)で新撰組の前身・浪士組を結成。戊辰戦争の際に勝海舟の使者として西郷・勝会談を実現させ、江戸無血開城に導いた。維新後、侍従として明治天皇に仕えた。一刀正伝無刀流開祖。



★山縣有朋 やまがた・ありとも
明治時代の軍人・政治家。天保9年(1938)、長州藩に足軽として生まれる。松下村塾に学び、奇兵隊軍監となる。明治維新後は軍制を整備。内務大臣、司法大臣、総理大臣、枢密院議長などを歴任。元老として権力を振るった。



★日本武尊 やまとたけるのみこと
記紀に登場する伝説上の英雄。『古事記』では倭建命と表記。12代景行天皇の第3皇子で、九州熊襲を平定、東国蝦夷の討伐を行ったとされる。草薙剣、弟橘媛、白鳥などの説話がある。



★山本周五郎 やまもと・しゅうごろう
小説家。1903年、山梨県生まれ。封建武士や庶民の心理・哀歓を掘り下げた。代表作に『樅ノ木は残った』『青べか物語』『赤ひげ診療譚』。



★弥生二丁目遺跡 やよい・にちょうめ・いせき
弥生時代後期の集落跡。丘陵の崖縁に貝層、弥生式土器が検出された。周辺には複数の遺跡があり、明治17年(1884)の有坂鉊蔵による弥生土器第1号の発見地点は特定できていない。



★湯島聖堂 ゆしま・せいどう
文京区湯島にある孔子廟。上野忍岡に林羅山が建てた私塾の孔子廟を元禄3年(1603)、徳川綱吉が現在地に遷し、大成殿と命名。全体を聖堂と称した。幕府の教学の中心となり、寛政9年(1797)、幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)を開設した。明治維新後、学問所は廃止。大正12年(1923)、関東大震災で聖堂を焼失、昭和10年(1935)に再建された。



★林泉寺 りんぜんじ
曹洞宗・青龍山林泉寺で1602年(慶長7年)の開山。縛られ地蔵と呼ばれる石仏があり、江戸時代、縁日には大変な賑わいを見せたと伝えられている。縛られ地蔵の縁起については大岡政談に登場し、盗難や失せ物があると地藏尊を縄で縛り、願いが叶うと縄を解くという信仰が生まれた。



★霊雲寺 れいうんじ
元禄4年(1691)、5代将軍・徳川綱吉の建立した真言宗霊雲寺派の寺院。開基は浄厳、山号は宝林山。かつて真言宗律宗の本山として塔頭7院、末寺46寺を擁していた。



★浪士組 ろうしぐみ
文久3年(1863年)2月、将軍徳川家茂の上洛の際の警護のために、処静院に浪人を集めて結成された。清河八郎、鵜殿長鋭、山岡鉄舟が中心となったが、浪士組約250名で上洛後、尊王攘夷をめぐって分裂し、江戸に帰還した清河八郎は刺客によって殺された。京都に残った近藤勇、芹沢鴨らは壬生浪士組を名乗り、後に新撰組となった。清河八郎の墓は伝通院にある。



★六角越前守 ろっかく・えちぜんのかみ
六角家は、江戸幕府の儀式や典礼を司る役職であった高家旗本(こうけはたもと)。他に戦国大名の子孫の今川・上杉・織田・武田家や、赤穂事件の吉良家などがある。六角家は公家・烏丸光広の次男・六角広賢を初代とし、長男・広治が4代将軍・家綱に召し出され、高家職に就いた。幕末の第8代当主は六角越前守広泰。2000石。



★和敬塾 わけい・じゅく
1955年(昭和30年)に設立された男子大学生のための学生寮。本館は昭和初期に侯爵・細川護立によって建てられた邸宅。旧細川侯爵邸として、東京都有形文化財に指定されている。