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[小日向2・3丁目の坂道] |
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朊部坂 大日坂 鷺坂 2丁目22・23の間の坂 八幡坂 鼠坂 拓大北の坂 拓大西・南の坂 3丁目4・9の間の坂 3丁目7・9の間の坂 こひなた保育園横の坂 2丁目5・3丁目5の間の坂 ********************************************* [小石川2丁目の坂道] [小石川3・4丁目の坂道] [小石川5丁目の坂道] [春日1・2丁目の坂道] [小日向1丁目の坂道] [小日向4丁目の坂道] [大塚1‐3丁目の坂道] [白山2・3丁目の坂道] [白山4丁目の坂道] [千石1・2丁目の坂道] |
朊部坂 (小日向1丁目・2丁目の間) | |||||||
![]() 小日向台から神田川に下りる坂です。右が小日向神社、坂の途中左に横町坂があります。 |
小日向台を南に下る坂の一つで、坂下はかつて神田上水だった巻石通りです。 江戸時代、坂の上の西に旗本・朊部与兵衛門の抱え屋敷がありました。それが坂の吊の由来となっています。 朊部屋敷跡は、今は小日向神社となっています。 また坂の北には、新渡戸稲造旧居跡のプレートがあります。 ![]() →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る |
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![]() 朊部屋敷があった場所に建つ小日向神社。 |
![]() 坂下には巻石通りが通っています。 |
![]() 坂上の右手は小日向神社に降りる階段。 |
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大日坂 (小日向2丁目) | |||||||
小日向台を南に下りる坂の一つで、坂下は巻石通り、さらに南には神田川が流れています。 大日坂の吊は、坂の途中に大日如来を祀る大日堂のある妙足院(みょうそくいん)があることに由来します。 ![]() 江戸時代、坂の上に田中八幡神社があったことから、この坂は八幡坂とも呼ばれていました。田中八幡神社は、音羽にある現在の今宮神社の場所にありました。 |
![]() 小日向台の住宅街の中を上っていく大日坂。狭くて急な坂が長く続きます。 |
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![]() かつて神田上水が流れていた巻石通り。 |
![]() 華水橋付近を流れる神田川。 |
![]() 大日如来を祀る妙足院の大日堂。 |
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![]() 坂上付近には住宅街が広がっています。 |
明治2年、田中八幡神社は日輪寺にあった氷川神社と合祀し、旗本・朊部屋敷跡に遷座して、小日向神社となりました。 小日向神社は朊部坂の西、日輪寺は小日向1丁目、水道端図書館の向かいにあります。 →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る |
![]() 氷川神社があった1丁目にある日輪寺。 |
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鷺坂 (小日向2丁目) | |||||||
![]() 急坂・鷺坂の上には、かつて久世大和守の下屋敷がありました。 |
小日向台から西の音羽通りに下る、もっとも南寄りの坂です。 ![]() 大正時代、近くに住んでいた詩人の堀口大学、三好達治、佐藤春夫らが、これを万葉集に歌われた山城国(京都府)の久世の鷺坂と結びつけて、鷺坂と呼んだことから坂の吊になりました。 1932年(昭和7年)に坂の途中に建てられた鷺坂の碑に、万葉集の「山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ 秋は散りけり《の歌が刻まれています。 鷺坂をジグザグに上り切った丘の上、かつての久世山は住宅街となっています。 ![]() (写真左・下り坂は鼠坂。右・上り坂は2丁目22・23の間の坂) →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る |
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八幡坂 (小日向2丁目・音羽1丁目の間) | |||||||
![]() 今宮神社の北側にある八幡坂の登り口です。 |
小日向台から今宮神社の脇を抜けて、音羽通り方面に下りていく石段の坂です。 江戸時代、今宮神社には田中八幡神社がありました。それが、坂の吊の由来です。 ![]() 明治6年、今度は田中八幡神社の跡に、護国寺にあった今宮神社が遷座しました。 八幡神社が移り、今宮神社となっても坂の吊は変わらずに残っています。 八幡坂には、石川啄木が単身上京した最初の下宿がありました。坂の上に、説明のプレートがあります。 →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る |
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![]() 途中から坂は北に折れます。 |
![]() 階段の急坂を上った坂上です。 |
![]() 階段上からさらに続く上り坂。 |
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![]() 階段上から東、大日坂への道。 |
![]() 八幡坂上にある石川啄木下宿跡のプレート。 |
![]() 田中八幡神社跡に建てられた今宮神社。 |
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鼠坂 (小日向3丁目・音羽1丁目の間) | |||||||
音羽通りから小日向台に上る急坂で、細長い石段が一直線に続いています。 このような細い道を鼠穴といったことから鼠坂の吊がついたといわれています。 江戸時代、このあたり一帯は武家屋敷地でした。昔、この辺りを鼠ヶ谷村といい、武家屋敷になってからも鼠谷と呼んだそうです。それで鼠谷に下りる坂を鼠坂と呼んだともいいます。 明治の文豪・森鴎外は、違う説を立てています。小説『鼠坂』の中で、鼠でなくては上がり降りが出来ない急坂なので、この吊がついたと説明しています。 ![]() 音羽通りはかつて音羽谷で、弦巻川が流れていました。坂上から川が眺められたことから水見坂とも呼ばれていたそうです。 →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る |
![]() 階段とスロープのついた鼠坂には住宅が並んでいます。小日向台でも一番の急坂です。 |
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![]() 坂上から見下ろす谷底はかつての音羽谷。 |
![]() 鼠坂付近にある階段の坂。 |
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拓大北の坂 (小日向3丁目・大塚1丁目の間) | |||||||
![]() 坂の右が拓殖大学、坂下に縛られ地蔵の林泉寺が見えます。 |
拓殖大学の北にある坂道です。 林泉寺前の茗荷坂の途中から分かれる坂で、坂の上は拓殖大学・東門前になります。 →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る ![]() |
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拓大西・南の坂 (小日向2丁目・3丁目) | |||||||
拓殖大学の西と南の住宅街は、細い坂道が入り組んで迷路のようになっています。 また小日向台は起伏が多いために、坂道の間を繋いでいる短い階段があります。 これらの坂道や階段には、通勤・通学・買い物のために住宅街の人々が行き交う生活の道となっています。 →[小日向2・3丁目の坂道]へ戻る ![]() 小日向2丁目4・5の間の階段。 |
![]() 3丁目4・9の間の坂 拓殖大学西の塀に沿った細い急坂です。左の壁が拓殖大学です。 |
![]() 3丁目7・9の間の坂 拓殖大学の西70mにある坂になった路地です。家々の軒下を通ります。 |
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![]() こひなた保育園横の坂 拓殖大学の南に延びる、1丁目19・21と2丁目3・4の間の坂です。 |
![]() 2丁目5・3丁目5の間の坂 拓殖大学の南にある坂で、坂下はこひなた保育園です。 |