江戸名所図会

『江戸名所図会』の小石川を歩く

<歴史散歩>『江戸名所図会』小石川コース

 『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介した江戸時代を代表する地誌で、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。
 寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸末期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
 「巻之四 天権之部」には、小石川の寺や神社のほかに、御薬園・療養所(現在の小石川植物園)や小石川に架かる橋も紹介されています。
 レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。
 『江戸名所図会』で紹介されている、江戸時代の小石川の名所を巡ります。

(絵は、安政4年(1857)刊行の『東都小石川絵図』です)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>
『江戸名所図会』小石川コース

A.無量山傳通院


於大の方の墓所
 江戸時代、徳川将軍家の菩提寺として威容を誇った大寺院で、 正式名称は無量山傳通院寿経寺です。
 応永22年(1415)、浄土宗第7祖・聖冏(しょうげい、号は酉蓮社了誉・ゆうれんしゃりょうよ)が開山した無量山寿経寺が始まりで、慶長7年(1602)に逝去した徳川家康の生母・於大(おだい)の方の菩提寺となったことから、法名の傳通院を採って、無量山傳通院寿経寺と呼ばれるようになりました。
 この時、寿経寺は小石川4丁目にありましたが、於大の方の墓所とするために現在地に移転しました。
 慶長14年(1609)までに新たに堂が建立され、元和9年に江戸幕府から寺領300石を与えられ、後に600石に加増されました。 浄土宗の学問所18檀林の一つとなって寮舎100余り からなる大伽藍を構成し、1000人の学僧 が修行していたといわれます。江戸後期の『武江圖説』には、所化寮(しょけりょう、学僧の寮)100軒、塔中(たっちゅう)・別院・末寺等の支院が19あったと記されています。現在も残っているのは、光雲寺、福聚院、見樹院、宝蔵院、真珠院、慈眼院です。
 傳通院は享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治41年(1908)と3度の大火に遭い、昭和20年の空襲ですべて焼失しました。墓地を除き、現在の建物は戦後に再建されたものです。

『江戸名所図会』傳通院全景(合成)。左下が総門、右下が裏門で、中央奥が伝通院本堂と付属施設。周りを支院が囲む


『東都小石川絵図』傳通院参道

総門(表門)跡付近

山門(中門跡)
 『江戸名所図会』には、5枚に分割された傳通院の全体図が載っています。安政4年(1857)の『東都小石川絵図』とあわせて見ると、春日通りの伝通院前交差点から参道を入ってすぐに総門(表門)があったことがわかります。日通りと安藤坂に面して町屋が形成され、門前町となっていました。
 参道の両側には学僧の寮が並び、現在の山門のところに中門がありました。


『江戸名所図会』傳通院総門・大黒天・念佛堂

Google earthで再現した『江戸名所図会』傳通院総門・大黒天・念佛堂

大黒天

 中門の門前左には、現在も大黒天があります。傳通院の末院・福聚院の本尊で、三国伝来のものだといいます。三国伝来は、インドから中国・朝鮮を経て日本に伝わったもののことです。
 『江戸名所図会』には、高麗国の大臣・録来(ろくらい)の土古(とこ)が携えてきたものだと書かれています。

開山堂

 中門を入ると、右に輪蔵・鐘楼・阿彌陀堂、左に不動堂・熊野神社・開山堂がありました。輪蔵は回転式の書棚の経蔵で、一回転させると読経したのと同じ功徳が得られるとされます。
 現在、鐘楼は左にありますが、梵鐘は戦火を免れたものです。

 本堂は戦後、二度建て直されていて、現在の建物は昭和63年(1988)年の建立です。本堂は明治41年(1908)にも焼失していますが、それ以前の建物について明治43年(1910)発行の『礫川要覧』は、「銅棟瓦屋にして金色の葵章三個を付し、すこぶる宏壮にして旧観を存ぜし」と描写しています。

大黒天(福聚院)

鐘楼

本堂


『江戸名所図会』澤蔵主稲荷社

『江戸名所図会』傳通院裏門

Google earthで再現した『江戸名所図会』澤蔵主稲荷社+傳通院裏門

多久蔵主稲荷社

 中門前の道を右に行くと、多久蔵主稲荷(たくぞうすいなり)があります。傳通院の支院、慈眼院内にある稲荷社で、一般には澤蔵主稲荷と書きます。
 僧に化けた狐が多久蔵主と名乗って、夜な夜な学寮にやってきて法を論じたので、稲荷を勧請して寺の仏法の守護神としたと、『江戸名所図会』は由来を説明しています。
 また慈眼院の前身である甚蓮社の縁起によれば、元和4年(1618)、極山和尚ら学寮の一同の夢に、檀林に入学したいという僧が現れ、翌朝入山したといいます。多久蔵主は智徳に勝れ、3年で修学しました。再び夢枕に立った多久蔵主は、白狐の姿で稲荷大明神だと正体を明かし、当山の守護神となるので小社を与えるようにと告げたといいます。
 『江戸名所図会』には、多久蔵主稲荷の近くに茶屋が描かれています。東南は斜面となっていて、江戸城から江戸市中、江戸湾、遠く房総半島が見渡せたものと想像されます。

慈眼院 澤蔵主稲荷

霊窟への参道

茶屋跡付近


『東都小石川絵図』傳通院裏門周辺

明治29年地図・傳通院裏門周辺

八幡宮

 多久蔵主稲荷から坂を下ると、かつて隣に八幡宮がありました。『江戸名所図会』には、「別当は景久院と号す」とあります。別当は江戸時代に神社を管理していた寺のことです。景久院は傳通院の支院で、『東都小石川絵図』には多久蔵主稲荷の向かいにあります。
 『江戸名所図会』の「傳通院裏門」の絵には、中央左に八幡神社が鳥居とともに描かれています。


善光寺(縁受院)
 『東都小石川絵図』の八幡宮の坂下に描かれている縁請院は、現在の礫川山縁受院善光寺です。縁請院は縁受院の誤記で、文京区教育委員会の説明板によれば、慶長7年(1602)創建と伝えられる傳通院の支院です。明治17年(1884)に信州・善光寺の分院となりました。
 『江戸名所図会』には、八幡神社の右に傳通院の塔中が描かれていますが、縁受院と思われます。


山門前を曲がる本来の善光寺坂
 坂を下りたところには、傳通院裏門がありました。現在、この坂は善光寺の名を採って善光寺坂と呼ばれています。
 善光寺からの坂下は、明治29年(1896)の地図を見ると、現在の直線に下りる道はなく、善光寺を巻くように北に迂回しています。文京区教育委員会の善光寺坂の説明板もこの道に設置されています。
 これに北西から合流する2本の道は、『江戸名所図会』と『東都小石川絵図』にはなく、明治になって通されたものです。『東都小石川絵図』で澤蔵主稲荷の向かいにあった景久院は、明治の地図では坂下に移っています。

新念仏堂

 『江戸名所図会』には、坂を挟んで八幡宮の向かいに常念仏堂が描かれています。これは瑞真院の新念仏堂の誤りです。坂下に描かれているのは傳通院裏門です。
 瑞真院の南は六角坂で、『東都小石川絵図』には坂名の由来となった六角越前守の屋敷が描かれています。六角坂は上富坂町から傳通院裏門前へ出る坂で、こんにゃく閻魔で知られる源覚寺裏の道と合流して傳通院裏門前に至ります。


裏門跡。正面が本来の善光寺坂

常念仏堂があった真珠院
 『江戸名所図会』は、ほかに於大の方の御霊屋、辨(弁)財天、経堂、享保6年(1721)の火災で焼死した男女の墓である無縁塚、真珠院の常念仏堂を紹介しています。
 傳通院の支院・真珠院は現在も傳通院の西にあります。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

B.中臺山光圓寺


『江戸名所図会』光圓寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』光圓寺

光圓寺

歴史のある境内の銀杏
 中臺山醫王院光圓寺は、傳通院の北、真珠院前の坂道を下ったところにある寺です。天平13年(741)に行基が開山したと伝えられます。
 その後、真言宗となり、中世に廃れていたものを応永年間に聖冏(しょうげい)が中興、浄土宗に改めたといいます。山号の中臺山について、『江戸名所図会』は縁起を引用して、古くはこの土地が中臺(台)村といったからだと書いています。
 境内には行基が植えたと伝えられる大銀杏がありましたが、戦災で大きなダメージを受けてしまいました。現在は新しく育った幹が古木を支えるように葉を茂らせています。

C.藥王山無量院


『江戸名所図会』祥雲寺・無量院

Google earthで再現した『江戸名所図会』祥雲寺・無量院
 『江戸名所図会』に、瑞鳳山祥雲寺とともに描かれているのが藥王山無量院能覺寺です。傳通院の北、光圓寺から東に坂を下った小石川沿い、小石川3丁目36番付近にありました。
 慶長19年(1614)に開山した浄土宗の寺で、初め神田猿楽町にあったものが明暦3年(1657)の大火で焼け出され、この地に移ったと伝えられています。
 第3代将軍徳川家光の側室、お万の方の菩提寺となったことから寺領20石を与えられた大寺で、元禄の頃の奈良奉行、妻木彦左衛門が小町塚から持ち帰ったといわれる小町灯籠がありました。
 『寺社書上』では京都知恩院、『小石川區史』では増上寺の末寺となっていて、明治末に墓地の移転があり、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失後、廃寺になっています。

無量院があった一角

D.瑞鳳山祥雲寺


祥雲寺があった付近
 無量院から現在は千川通りとなっている小石川を渡ると、瑞鳳山祥雲寺がありました。白山2丁目4~8番にかけてです。
 永禄7年(1564)、江戸城和田倉門内の吉祥寺の末寺として開山した曹洞宗の寺で、当初は浄光院と称していました。吉祥寺は現在、本駒込にあります。
 天正18年(1590)、江戸城拡張のため吉祥寺とともに神田台に移転し、慶長3年(1598)、御用屋敷地となったために、再び小日向金杉村に移転します。さらに寛永13年(1636)、今度は武家地となったために、『江戸名所図会』に描かれた小石川戸崎台に移りました。
 宝永6年(1709)、第5代将軍徳川綱吉の死により御台所が出家し、浄光院を名乗ったため、遠慮して寺号を瑞鳳山祥雲寺に改めました。
 瑞雲寺は、大正5年(1915)に池袋に移転し、現在も豊島区池袋5丁目1番6号にあります。

E.御薬園


小石川植物園正門

植物園内に作られている薬園保存園

乾薬場跡。薬草を干した石畳
 祥雲寺から千川通りと並行する道を北西に進むと、東京大学大学院理学系研究科附属植物園、通称・小石川植物園があります。ここには江戸時代、小石川御薬園がありました。
 御薬園がつくられたのは貞享元年(1684)で、それ以前は、のちに第5代将軍・綱吉となる館林藩主・松平徳松の下屋敷で、白山御殿と呼ばれていました。下屋敷となったのは承応元年(1652)のことです。延宝8年(1680)、綱吉は将軍となり、江戸城に移ります。
 白山御殿は正徳3年(1713)に取り払われ、享保6年(1721)に敷地全体に御薬園が拡張されました。御薬園は南園と北園にわかれ、合せてほぼ現在と同じ約45,000坪となり、薬草の栽培・製造が行われました。薬草を干した乾燥所跡が現在も残っています。
 『江戸名所図会』には、「古(いにしえ)は此地に白山・氷川・女体等の三神の宮居ありしとなり[白山権現の神木、舩(ふね)つなぎの松も此地に存せりと云]。此辺を初音里(はつねのさと)と字(あざな)す。俚諺(りげん)に江戸の時鳥(ほととぎす)は此地より発声す。故にしか名づくと云」と書かれています。
 白山御殿が造営される以前は、現在地に移転する前の白山神社と氷川神社(簸川神社)、女体神社がこの地にありました。
 舟繋松(ふねつなぎのまつ)は、江戸湾が内陸まで入り込んでいた時代に、小石川の河口だったこの地に、舟を繋ぐための松があったと伝えられることに由来します。御薬園の北には、その名に往時を偲ばせる網干坂があります。
 白山御殿のあった森はホトトギスの名所で、『江戸砂子』などに初鳴きはここから始まると言い伝えられていたことから、初音の里と呼ばれていました。


養生所の古井戸

療病院

 小石川御薬園内には、享保7年(1723)に開設された施薬院がありました。
 第8代将軍・徳川吉宗が設置した目安箱に、町医者の小川笙船(しょうせん)が投書して建てられたもので、貧しい病人への投薬治療を目的としたものでした。『江戸名所図会』には、「鰥寡(かんか)・孤獨(独)・貧窮・無頼の病人を救はせたまはむがため、享保年間、官府より是を建させられ寄宿を許し薬餌を賜ふ」と書かれています。
 施薬院は間もなく養生所と改称され、20名の医師を集めて40名の患者を収容しましたが、翌年には100名、享保14年(1730)には、150人の患者を収容するまでに拡大しました。病人の治療とともに、医術の進歩にも貢献し、明治になって 東京市養育院に引き継がれました。
 小川笙船は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』のモデルとなったことで知られています。養生所跡の古井戸が、現在も植物園内に残っています。

F.吉水山宗慶寺


『江戸名所図会』宗慶寺・極楽水

Google earthで再現した『江戸名所図会』宗慶寺・極楽水

かつて宗慶寺のあった播磨坂付近

現在の宗慶寺

昭和22年地図。破線は環3計画道路、中の卍が宗慶寺

明治44年地図・宗慶寺境内。善仁寺前の道が吹上坂

明治16年地図。左上が宗慶寺、下が松平邸の池

東都小石川絵図(1850年頃)・宗慶寺付近

新板江戸外絵図(1670年頃)・左中央にソウケイジ
 小石川植物園から千川通り、かつての小石川を渡って吹上坂を上ると、右に浄土宗の寺院、吉水山朝覚院宗慶寺があります。
 かつてこの地に、聖冏(しょうげい)が応永22年(1415)に開いた草庵があり、慶長7年(1602)、これを徳川家康の生母・於大(おだい)の方の菩提寺とするために、傳通院を号して、小石川3丁目の地に移しました。傳通院の由緒 によれば、この草庵は無量山寿経寺という名で開創されたといいます。
 『寺社書上』によれば、この草庵は応永27年(1420)の聖冏没後、歳月をへて精舎となり、吉水山伝法院と号したといいます。『改撰江戸志』は、これを伝宝院と記していますが、いずれにしても慶長7年には草庵は廃れていたようです。

宗慶寺・茶阿局の墓碑
 この旧跡は、元和7年(1621)、徳川家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)の菩提寺となり、法名の朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼から号をとり、朝覚院宗慶寺としました。
 昭和20年(1945)に空襲で寺は焼失し、戦後、環状3号線(播磨坂)の道路建設に伴い現在地に移転しました。
 『江戸名所図会』に描かれる宗慶寺の境内は、現在の播磨坂清掃事務所から播磨坂にかけての一帯で、3,230坪を擁していました。 境内には聖冏の石塔もありました。

極楽水

 吉水と、宗慶寺の山号に付けられた清水のことで、「境内、本堂の前にある井を云。上に屋根を覆ふ」と『江戸名所図会』に説明されています。山門をくぐった右に、屋根付きの井戸が描かれていて、極楽水と書かれています。
 この井戸の名によって、付近一帯が極楽水と呼ばれているとも記されていますが、もともとの極楽水は、松平播磨守の屋敷内にあるとも、昔は石川山善仁寺の境内だったとも書かれています。
 『江戸名所図会』からは、宗慶寺の極楽水の井戸が、播磨坂清掃事務所前の播磨坂にあったことがわかりますが、現在、極楽水として知られている井戸は、それより南西の小石川パークタワーの敷地内にあります。この場所は、安政4年(1857)の東都小石川絵図では松平播磨守上屋敷内にあたり、明治16年(1883)の地図から庭園の池の湧水だったことを窺わせます。

播磨守屋敷内にあった極楽水(手前)
 ここが松平播磨守の御用地となったのは、寛文2年(1662)のことです。初代の松平播磨守は、水戸家藩主・徳川頼房の5男・頼隆で、支藩の保内藩主でした。頼隆は元禄13年(1700)、常陸府中藩主に移封されます。
 『寺社書上』などの史料によりますと、松平播磨守の御用地になる以前、ここは宗慶寺の境内でした。水戸家は、この土地を所望する際に、本所に所有していた土地を替わりに差し出しましたが、本所が遠すぎたために宗慶寺は土地を水戸家に譲ったともいいます。
 極楽水はこの御用地内にあったため、『江戸名所図会』に描かれた宗慶寺境内の井戸に移したといいます。つまり、小石川パークタワー敷地内の極楽水は、寛文2年(1662)以前のものということになります。

 『江戸名所図会』は、極楽水が昔は石川山福寿院善仁寺境内にあったと書いています。善仁寺は宗慶寺の近くにある古刹で、安和2年(969)の創建と伝えられています。
 当初は真言宗でしたが、後に浄土真宗に改宗しました。言い伝えでは、親鸞(1173~1263)が善仁寺を訪れた際、杖で地面を掘ったところ清水が湧き出し、この奇跡によって改宗したといいます。 この清水が極楽水で、善仁寺には現在も極楽水の井戸があります。
 『再校江戸砂子』は、「一説、極楽水は松平播州侯御屋敷の内にある所也 もとは石川山善仁寺の境内なりとぞ」と書いていますが、『江戸志』は宗慶寺の誤りだとこれを退けています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

祇園橋付近。横の道が小石川跡

祇園橋

 小石川パークタワー敷地内の極楽水から播磨坂を渡り、かつての松平播磨守上屋敷に沿って湯立坂に向かいます。湯立坂を右に折れた、ファミリーマート小石川ゆたて坂店付近には、かつて小石川が流れていて、氷川(簸川)神社に渡る祇園橋が架かっていました。
 『江戸砂子』には、「小石川にわたす、六七間の土橋なり。氷川の社殿に祇園牛頭天王をまつる故にかくいふにや」と書かれています。 橋の長さについては、『御府内備考』にも六七間の土橋と書かれていて、10メートル余りあったことになります。

明治44年地図・祇園橋付近
 明治22年(1889)に木橋に架け替えられますが、幅1間、長さは2間半(約4.5メートル)となります。明治43年(1910)の『礫川要覧』は「七八間の長さといえば当時、千川(小石川)の流れが余程川幅ありしを想見すべし」と書いています。
.  次の『江戸名所図会』氷川明神社・聖冏庵旧跡・祇園橋にも描かれているように、この一帯は氷川田圃と呼ばれる一面の水田で、左下に小石川に架かる祇園橋があります。

G.氷川明神社


『江戸名所図会』氷川明神社・聖冏庵旧跡・祇園橋

Google earth再現『江戸名所図会』氷川明神社・聖冏庵旧跡・祇園橋
 祇園橋跡から千川通りを渡ると、網干坂の左に簸川神社の鳥居があります。長い石段を登ると社殿のある境内になります。江戸時代は氷川明神社と呼ばれていましたが、大正年間に簸川(ひかわ)神社に名を改めました。
 『新撰東京名所図絵』には、鬱蒼とした林の氷川台にあり、石段の下の鳥居の右に、藤棚のある草葺の休憩所があって、老女が茶を売っていると書かれています。『江戸名所図会』には、この茶店は描かれていませんが、参道と網干坂の分かれるところにあったようです。簸川神社は戦災で焼失しているため、往時の姿はありません。

 江戸初期には、氷川神社は現在地ではなく、小石川植物園のところに、白山神社・女体社とともに鎮座していたといいます。
 承応元年(1652)、神社地を館林藩主・松平徳松(後の第5代将軍・綱吉)の下屋敷にすることになり、 3つの神社は遷座されることになります。白山神社は現在の社地である白山5丁目に移され、女体社の行方はわからなくなっています。
 簸川神社の由来によれば、氷川神社は、一度、小石川原町に遷座してから、元禄12年(1699)に現在地に移ったといいます。明治までは小石川原町に元氷川社の小さな祠があったといい、その場所は、現在の白山2丁目20番になります。


『東京名所圖會』に描かれた茶店

簸川神社

御供所跡付近にある神楽殿
 『江戸名所図会』は、女体社について触れていて、「弁財天祠 当社はもと白山御殿の地にありて、白山・氷川と共にならびてありしが、女体権現の宮は此地にうつして弁天に勧請なし奉るといへり」(傳通院の項) 、「女体宮も今伝通院の内にある所の弁財天是也」(白山神社の項) と書かれています。しかし現在、伝通院とその周辺に該当する弁財天祠はありません。
 また『寺社書上』には、氷川明神社の末社に女体宮が挙げられていて、祭神は奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)と大己貫命(オオナムチノミコト)とされています。 これが傳通院の弁財天祠を指しているのかどうかはわかりません。

聖冏庵旧跡

 『江戸名所図会』には、本社の右に御供所(ごくうしょ)が描かれています。これが聖冏庵旧跡で、「伝通院の開山了譽(りょうよ)上人、此地の幽邃(ゆうすい)を愛し、庵を結んで聖冏庵(しょうげいあん)と号(なづ)け此地に閑居ありし頃、重修(ちょうしゅう)ありしとなり」 と書いています。
 聖冏が草庵を開いたのが応永22年(1415)、没したのは応永27年(1420)。承応元年(1652)まで、氷川神社は小石川植物園のところにあったとされていますので、聖冏庵旧跡がもとから『江戸名所図会』の御供所にあったとは考えられません。聖冏庵を再興したか、旧地にあったものを移したのでしょう。
 伝通院の由緒などから、聖冏庵があったところは宗慶寺周辺が通説です。慶長7年(1602)の伝通院への移転、元和7年(1621)の宗慶寺創建、寛文2年(1662)の松平播磨守御用地への分割の際に、極楽水にあった聖冏庵の旧跡が失われたか、氷川神社境内に移されたのかもしれません。

 氷川神社は、承応元年(1652)の白山御殿御用地からの移転後、元禄12年(1699)に社殿を造営して大社となり、巣鴨の鎮守に定められています。
 氷川神社の創建は、社伝によれば第5代孝昭天皇の御代とされていますが、実在の天皇かどうかは不明とされています。源義家(1039~1106)が奥州平定の際に参詣したともいわれ、その後、荒廃していたのを聖冏が再興したともいいます。
 この際に、竜女または女の姿をとった神霊が現れ、仏法を授けてもらった御礼に霊水を湧出させたという、吉水にまつわる極楽水の伝説が生まれていますが、 あるいは女体社に関係しているのかもしれません。
 氷川社が男体社と女体社から構成されるのは古い形式で、大宮・氷川神社と見沼・氷川女体神社も対をなしているといわれます。 それぞれ祭神にスサノオノミコトとクシナダヒメが祀られていますが、『寺社書上』にある小石川の氷川神社と末社の女体宮の祭神も同じです。

 氷川神社は水源を神格化した水神を祀ったものが原型と考えられていて、埼玉・東京を中心に分布しています。
 承応元年(1652)より前、氷川神社は小石川植物園の御殿坂付近の古墳上にあったといわれますが、小石川谷を挟んだ二つの丘の斜面は昔から湧水があり、氷川社の神霊が、この地に草庵を開いた聖冏と結びつけられ、極楽水の湧水伝説を生んだのは興味深いことです。

H.猫貍橋


『江戸名所図会』猫貍橋

現在の『江戸名所図会』猫貍橋。手前から坂の向かいの道が小石川跡

展示されている猫又橋親柱の袖石
 千川通りと並行する簸川神社下の路地を北西に向かって進みます。道の途中からは、かつて小石川が流れていた川筋です。不忍通りに出たところに、猫貍橋(ねこまたばし)が架かっていました。『江戸名所図会』には、小石川に板が渡されただけの簡単な橋が描かれています。
 名称の由来については、「昔、大木の根木(ねき)の股を以て橋にかへて架したる故に此名あり」と『南向茶話』を引用していますが、 妖怪の猫貍にまつわる伝説もあります。猫貍橋は猫又橋、猫股橋とも書きます。

明治44年地図・猫又橋付近
 明治28年(1895)、長さ20尺、幅5尺6寸の石橋になり、 大正7年(1918)にコンクリート橋となりましたが、昭和9年(1934)に川は暗渠となり、橋は撤去されました。橋の撤去後、不忍通りの坂は猫貍橋にちなんで、猫又坂と呼ばれています。ここに不忍通りが開通したのは大正11年(1922)頃のことです。
 コンクリート橋の欄干の端にあった親柱の袖石が、猫又坂の猫又橋跡近くの歩道に展示されています。

(行程:4km)

聖冏(しょうげい)

 室町前期の浄土宗の僧。南北朝時代の暦応4年/興国2年(1341)、常陸国久慈郡に生まれ、戦死した父・白石宗義(『江戸名所図会』では義満)の菩提を弔うため、8歳で同国瓜連(うりづら)の常福寺で出家、名を聖冏と改めました。常福寺は延元3年(1338)に了実が創建した浄土宗の寺です。
 諸宗の碩学に学んで仏教を中心に諸学を修め、浄土宗教団の基礎を築きました。天授4年/永和4年(1378)、了実から常福寺を継ぎましたが、芝増上寺の弟子・聖聡(しょうそう)に請われ、応永22年(1415)、小石川に草庵を結び、隠棲しました。
 酉蓮社了誉(ゆうれんしゃりょうよ)を号し、額に三日月の相があったことから三日月上人とも呼ばれています。

行基(ぎょうき)

 奈良時代の僧。天智7年(668)、河内国大鳥郡に生まれ、天武11年(682)に出家し15歳で出家して教学を学んだ後、諸国をめぐって布教するとともに、灌漑・築堤・架橋などの社会事業に取り組み、東大寺大仏造立に貢献。大僧正となり、天平勝宝1年(749)に奈良で没しました。

東京市養育院

 明治5年(1872)に東京市内の寡婦・寡夫・孤児・孤老など、身寄りのない人を救済するために創設された養育院で、明治23年(1890)に東京市営となりました。江戸中期の老中・松平定信が貧民救済のために積み立てた資金を基に、明治7年(1874)、徳川慶喜の幕臣から官僚を経て実業家となった渋沢栄一が、養育院事務長として運営に関与し、東京市養育院の院長に就任しました。
 渋沢栄一は91歳で亡くなるまで約50年間院長を務め、東京市養育院は、東京都養育院、東京都老人医療センターを経て、現在の東京都健康長寿医療センターに引き継がれています。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

ページ
トップ

コース
ガイド