本郷台の貝塚と海岸線をたどる
<歴史散歩>本郷台貝塚コース
約6000年前の縄文時代前期、海面は現在よりも2~3メートル高かったといわれています。気温は今よりも1~2℃高い温暖化傾向にありました。東京湾は関東平野の奥まで入り込み、東京低地部は海面下、武蔵野台地の縁が海岸線となっていました。
文京区では、本郷台の東縁にある湯島、本郷、千駄木、駒込が海岸線にあり、神田から上野にかけては海で、上野台との間にある不忍池から田端にかけては入り江になっていました。
同様に、本郷台西縁の後楽園から指ヶ谷にかけての白山通り、小石川台との間の千川通り、小石川台・目白台南縁の神田川沿い、小石川台・目白台の音羽谷も浅海の入り江になっていました。
その後、海面は徐々に下がって海岸線が後退していきますが、中世までは海が入り込んでいたと考えられています。
それを証明する貝塚が、文京区内に残っています。湯島から駒込にかけての本郷台東縁には貝塚が並んでいて、そこがかつて海岸線であったことを示しています。
(図は、国土地理院の色別標高図に、貝塚の位置を加えて示したものです。緑色が台地。青色が低地で、縄文海進ではほぼこの位置まで海岸線が入り込んでいました)
<歴史散歩>本郷台貝塚コース
外堀通りから見える石碑正面
碑文の書かれた背面
縄文前期から晩期の貝塚で、東京医科歯科大学構内にあります。東京メトロ御茶ノ水駅の真上、柵で囲まれた植え込みに石碑があり、裏面にはこう書かれています。
昭和27年8月地下鉄お茶の水駅の建造にあたり この付近から多数の貝殻にまじり縄文時代の土器 石器 獣骨など 発掘され ここが先史時代の遺跡であることが確認された
池袋・お茶の水間地下鉄開通10周年を記念してこれを建てる
昭和39年1月
帝都高速度交通営団
石碑の正面は、外堀通りを挟んだ向かいの歩道から見えます。
湯島天神脇にある天神男坂
切通公園
お茶の水貝塚から外堀通りを東に行くと、相生坂をゆっくりと下ります。貝塚が丘の上にあることがわかります。湯島聖堂の手前を左に曲がると、本郷台の東縁に沿った道になります。湯島坂、新妻恋坂、妻恋坂、三組坂、中坂の坂下を右手に見ながら、中世以前にはそこが海だったことが想像されます。
湯島天神の鳥居を左に曲がり、切通坂を横切って細い道に入ると、切通公園があります。
旧岩崎庭園
切通公園を過ぎた湯島合同庁舎に沿った道の周辺が、縄文前期から晩期の貝塚です。貝塚は旧岩崎庭園に及んでいます。
弁慶鏡ヶ井戸
湯島合同庁舎に沿った道を突き当り、右に曲がって無縁坂を下りたところで左に曲がります。ここからは本郷台の裾を巻く道です。境稲荷神社の社殿裏、東京大学池之端門のそばに弁慶鏡ヶ井戸があります。
東京大学のある本郷台の東縁にあたり、台地から地下水が流れていることがわかります。
工学部9号館の東にある説明板
道幅の広がる東淵寺附近から東京大学浅野キャンパスに向かいます。ここは弥生二丁目遺跡が発見された場所で、キャンパス内の工学部9号館の東に説明板が立っています。
昭和49年(1974)、根津小学校の児童が倒れた木の根元から土器・貝殻を拾い、遺跡の存在がわかりました。翌昭和50年(1975)、東京大学考古学研究室が発掘調査を行い、弥生時代の環濠と貝塚を確認しました。
この一帯で初めて土器が発見されたのは明治17年(1884)のことですが、場所は特定できていません。旧東京大学の学生たちによって貝塚から発見された新式の土器は、発見地・向ヶ丘弥生町の名を採って弥生式土器と名付けられ、貝塚は向ヶ丘貝塚と呼ばれました。
説明板のある工学部9号館付近は、崖の上にある丘です。
弥生坂にある石碑
昭和61年(1986)に建てられた碑で、東京大学浅野キャンパス正門から弥生坂(言問通り)に出た角にあります。向ヶ丘貝塚の場所が特定できていないため、「弥生式土器発掘ゆかりの地」として、弥生二丁目遺跡の一角に置かれました。
貝塚のあった付近
異人坂
弥生坂を横切り、東京大学弥生キャンパス(農学部)の東に沿った道に入リます。この周辺に、縄文後期から晩期の貝塚がありました。
弥生二丁目遺跡からこの一帯にかけては、弥生町遺跡群と呼ばれていて、向ヶ丘貝塚の土器発見場所の候補地の一つでもあります。
浅野邸は、明治20年(1887)から昭和16年(1941)にかけて、この地に元広島藩主・浅野侯爵の邸があったことに由来します。道を突き当たると右に異人坂があり、貝塚が崖の上にあることがわかります。
貝塚のあった付近
お化け階段
異人坂上から、東京大学弥生キャンパスに沿って道をクランクに折れた周辺に縄文時代・弥生時代の貝塚がありました。それぞれの土器が発掘されています。
弥生二丁目遺跡から続く弥生町遺跡群の一角で、向ヶ丘貝塚の土器発見場所の候補地の一つです。
道なりに進むとお化け階段の上に出ます。貝塚は崖の上にあります。
住宅街の道をさらに行くと、根津神社の参道に出ます。鳥居前から再び本郷台の新坂を上り、根津神社の西を抜けて根津裏門坂の上を横切り、日本医科大学付属病院の間の道に入ります。
貝塚のあった付近
日本医科大学の北、汐見小学校の西側が、旧石器時代・縄文時代・弥生時代後期の遺跡で、住居跡や貝塚から石器・土器などが見つかっています。
付近には坂や階段が多く、汐見小学校の校庭を崖下に見下ろす、丘の上であることがわかります。
さらに道を進むと、団子坂に出ます。坂上を横切り、住宅街の道を北に800メートル行くと、動坂があります。
都立駒込病院前の石碑
動坂上にある都立駒込病院一帯が動坂遺跡で、縄文時代中期の貝塚がありました。駒込病院の入り口の柵に囲まれた植え込みに、動坂貝塚の碑が置かれています。碑文にはこのように書かれています。
昭和49年、都立駒込病院の改築の際、ここに貝塚が発見された この貝塚は、縄文時代中期(約4500年前)に、たて穴住居跡の凹地に貝などがすてられてできたもので、その規模は直径2m・深さ 50cm程である
縄文時代には、動坂下の根津谷はかっての東京湾の小さな入江につながっていた この貝塚に多いヤマトシジミはそこでとれたものであろう このほか、貝類にはマガキ・ハマグリ・サルボウが、魚にはクロダイをはじめスズキ・アジ・イワシやコイなど、獣にはシカ・イノシシ・キツネが発見されている 土器や石器もかなり出土しており、当時の生活がうかがわれる
この碑はたて穴住居跡と貝塚の断面の一部をしめしたもので、碑の下には住居跡と貝塚がそのまま保存されている
昭和51年3月
動坂遺跡調査会
また動坂貝塚碑の隣に立っている説明板には、「昭和49年に都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が発見され、二次にわたる発掘調査が行われた結果、二〇軒ほどの住居跡が発見されたことから、縄文中期の大集落であることが確認されました。住居跡からは土器の他、漁労活動を示すおもりが多く出土しています」と書かれています。
駒込公園の石碑
これとは別に、駒込病院北側の駒込公園に動坂遺跡の碑と説明板があり、クジラの椎骨も発見されていると書かれています。縄文時代には50軒近い住居があったと推定されています。
動坂貝塚の出土品からは、動坂下が海であった様子が偲ばれます。
(行程:5km)
(文・構成) 七会静