<歴史散歩>小石川貝塚・網干坂コース
三崎稲荷神社
JR水道橋駅のすぐ南にある神社で、寿永元年(1182)、あるいは仁安年間(1166~1168)の創祀とも伝えられています。
江戸時代になり、干潟の埋め立てや神田川の開削のために、慶長8年(1603)、万治2年(1659)の二度、遷座して水道橋付近に移りました。さらに万延元年(1860)の遷座をへて、明治38年(1905)に現在地に落ち着きました。
最初に祀られたのは武蔵国豊島郡三崎村で、当時の神田山の麓、現在の本郷1丁目といわれます。神社のある千代田区三崎町の町名は、この三崎村に由来します。
当時、本郷台の裾まで、日比谷入江と呼ばれる海が入り込んでいました。神田川が現在の流れになったのは江戸初期に行われた開削工事のためで、それまでは日比谷入江に流れ込んでいました。
駿河台はこの開削工事で本郷台から切り離されたもので、それ以前は本郷台の一部でした。本郷台が日比谷入江に向かって、岬(ミサキ)のように突き出ていたことが三崎村の地名の由来ではないかと考えられています。
今の神社がある水道橋駅付近は、地形的には旧平川(神田川)流域の谷底低地です。徳川家康による江戸大改造以前は日比谷入江の干潟でした。
お茶の水坂前の都立工芸高校
都立工芸高校裏の忠弥坂
後楽園に下る新壱岐坂
天保年間の三崎稲荷神社。神田川の左にイナリと書かれている
神田川に架かる水道橋を渡って外堀通りを越えると、三崎稲荷神社が最初に祀られた本郷1丁目です。本郷1丁目は本郷台の西斜面にあり、神田川南の皀角坂(さいかちざか)を上ると神田山がありました。
三崎稲荷神社の所在地の変遷を遡ると、明治38年(1905)の遷座は甲武鉄道(現在のJR中央線)建設のためで、それまでは現在地からわずかに北東の神田川南岸にありました。万延元年(1860)の遷座は幕府講武所開設のためで、それまでは現在地の西近傍にありました。
由緒によれば、万治2年(1659)の遷座は外濠(神田川)開削のために東南に移したとありますので、それまでは北西近傍の神田川付近にあったと思われます。同じく慶長8年(1603)の遷座は干潟埋め立てのために西3丁移動したとあります。3丁(町)は180間、約328mです。
これをそのまま当てはめると、元の場所は都立工芸高校付近となりますが、干潟埋め立てのためという理由からも、水道橋近くの本郷台の西裾に最初に祀られた三崎村があったと推測されます。
外堀通りのお茶の水坂を渡り、都立工芸高校の北側の道を入ると忠弥坂です。途中を左に折れて進むと、壱岐坂、新壱岐と山麓からの坂道が並んでいて、坂下が中世以前は入り江だったことが想像できます。
小石川台の南からの眺め
新壱岐坂を下り、白山通りを渡ると東京ドーム北側の道で、昔は入り江にありました。東京メトロ後楽園駅を過ぎると、道の北側が高くなっていくのがわかります。
小石川台です。
諏訪神社
牛天神下で巻石通り(水道通り)を渡り、最初の路地を右に入ると諏訪神社があります。
江戸後期に幕府によって編纂された地誌『御府内備考』には、昔はこのあたりは入り江で漁師が多く住み、『改撰江戸志』の頃には諏訪町には船宿があった、と書かれています。
『改撰江戸志』は成立年代不詳で、原本は失われています。諏訪町は諏訪神社の門前にありました。
北野神社の牛岩
諏訪神社の前の道を北に上がると北野神社があります。牛天神とも呼ばれ、菅原道真が祭神です。
社殿は参道の急な階段を上った丘の上にあります。
縁起によれば、寿永元年(1182)の春、船に乗った源頼朝が風波を避けるため、この地の入り江の松に係留したところ、夢に牛に乗った菅原道真が現れ、二つの幸が叶ったならば御礼に社を祀るように告げたといわれます。幸の一つは長男頼家の誕生、もう一つは平家の西国への放逐で、幸叶った頼朝は夢のお告げ通り、元暦元年(1184)、北野神社を建立しました。
道真が夢から覚めると、そばに牛に似た石があり、それが今も境内に残る牛石です。牛天神の名は、夢に牛に乗った天神(菅原道真)が現れたことによります。
この伝承からわかるのは、中世には北野神社が入り江の丘の上にあったということです。
嘉永年間の安藤坂(安藤飛騨守上屋敷の左)
神田川へ下る安藤坂
網干坂とも呼ばれた牛坂
網干坂(御府内備考)
──網干坂は傳通院前より上水の端へ下る坂なり 今安藤坂と云り 又牛天神裏門の前の坂ともいへり むかし此坂下入江の時 この辺多く猟師の住て網をほしたるよりの名なりと 又或説に此辺むかし 御鷹野に預る人の住居ありて日毎に鳥網などほしたる頃 いひならはせし名なり 此両説とも全くうけかひかたき事なり 近き頃迄このほとりに船宿などありしかば(今も諏訪町の内に船宿あり)恐くは其類ひ多くありて魚とる網など干したるよりの名なるも しるべからず(改撰江戸志)
北野神社の参道下を西に曲がると安藤坂に出ます。この坂は江戸時代には網干坂と呼ばれていて、『江戸砂子』『御府内備考』『改撰江戸志』に登場します。
『江戸砂子』によれば、このあたりに御鷹狩の役人が住んでいて鳥網を干したことから網干坂と呼ばれたということですが、『御府内備考』は『改撰江戸志』を引用しながら、船宿があって漁網を干したからではないかとも書いています。
伝通院前から神田上水までが網干坂とされていて、江戸時代の地図では、伝通院から下って教育センター前で北野神社に折れ、さらに参道下を折れて巻石通り(水道通り)で神田上水にぶつかります。つまりここが坂下ということになります。
教育センター前から白鳥橋までの道は、明治42年(1909)に東京鉄道の路面電車を通すために造られたもので、江戸時代にはありませんでした。
『御府内備考』は、牛天神裏門の前の坂、つまり牛坂を網干坂とも呼んだと書いています。
網干坂を上ると小石川台の尾根に出ます。この尾根筋は富坂下から上ってくる春日通りで、茗荷谷駅前を通って大塚へと続いています。振り返ると、網干坂の下に海が広がっていた様子が目に浮かびます。
伝通院の境内
春日通りを横切ると、伝通院があります。ここには弥生時代から古墳時代にかけて竪穴式住居があり、縄文時代以降の土器も見つかっています。名前通りに貝塚があったのかもしれません。
伝通院の裏は、小石川谷に下る斜面です。
学芸大学附属(左)に沿った三百坂
伝通院前を西に折れた突き当りが、縄文時代の貝塚です。春日通りのある小石川台の尾根から都立竹早高校、東京学芸大学附属竹早小・中学校にかけての一帯で、尾根の向こう側は急斜面となっています。
都立竹早高校に沿って北にクランクに曲がると、久堅町貝塚を縦断する三百坂です。東京学芸大学附属幼稚園、竹早中学校の校庭に沿って、ゆっくり下る坂道です。貝塚が入り江の高台にあったことがわかります。
小石川植物園(左)わきの御殿坂
三百坂下から、さらに住宅街の間を抜ける坂道を下っていくと、千川通りに出ます。網干坂(安藤坂)から小石川台を越えて、かつて小石川の流れていた谷まできました。この谷も、かつては海に繋がる入り江でした。
千川通りを渡り、一本北側の道に入ると小石川植物園の正門があります。その手前の御殿坂を上ると本郷台の一部、白山台です。
貝塚のあった付近
御殿坂上から小石川植物園の裏の道を進んだ温室付近が、縄文時代中期から晩期に貝塚があったところです。土器や石器などが出土しています。
貝塚のあった付近
植物園から北に進み、住宅街の中を抜けた彰栄保育福祉専門学校付近に、縄文時代の貝塚がありました。土器が出土しています。
この一帯は白山台にあり、南は小石川谷、北は指ヶ谷からの谷筋です。どちらも、かつては海の入り江で、貝塚が海の近くの丘にあったことがわかります。
坂下の向こうに小石川台
住宅街を西に進むと、再び小石川植物園の裏に出ます。第10中学校の校門付近から小石川谷に下る道が、文京区にあるもう一つの網干坂です。
明治43年(1910)に出版された地誌、礫川要覧には「氷川田圃が入江たる観ありし頃の名あらんか」と書かれています。氷川田圃は氷川(簸川)神社付近にあった湿地で、その中を小石川が流れていました。
氷川田圃は、中世以前には北野神社の網干坂下と同様、小石川河口の入り江になっていたと考えられています。『江戸砂子』には、入り江に入ってくる船を繋ぐために、御薬園の中に舟繋松(ふなつなぎのまつ)があったと書かれています。御薬園は現在の小石川植物園です。
礫川要覧には「小石川が大なる河口を有したる頃、舟のこの邊(辺)まで来往せし證(証)なりといへり」と書かれています。網干坂の名前の由来は、やはり漁網を干していたからかもしれません。
急坂を下りきると、かつての小石川河口が入り江になっていた千川通りです。
教育の森公園
湯立坂
小石川谷を再び越えて、湯立坂を上って小石川台に戻ります。
湯立坂の右に窪町東公園・占春園・教育の森公園が続きますが、この広大な一角が縄文時代、古墳時代の遺跡です。土器・石器などが出土していて、貝塚があった可能性があります。
観音水
藤坂
湯立坂を上りきると再び小石川台の稜線に出ます。春日通りを越えて、茗荷谷駅の横の道から茗荷坂を下ります。小石川台に入り込んだ茗荷谷の最奥部です。谷底を横切るようにして東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐると伝明寺があります。
この寺の一角に観音水と呼ばれる湧き水があります。小石川台の急峻な崖から湧き出た水ですが、現在はマンションなどが立ち並んだために涸れかかっています。かつてこの谷は、清水谷とも呼ばれていました。
伝明寺の横に急勾配の藤坂があり、これを上ると再び春日通りです。
徳雲寺
春日通りを大塚方面に折れて進むと、徳雲寺の入り口があります。この境内が縄文時代の貝塚です。
南の茗荷谷に突き出た丘で、東南が藤坂、西に釈迦坂があります。往古、この丘から入り江が望めましたが、今は残念ながら建物の陰に隠れています。
(行程:6km)
(文・構成) 七会静