文京 歴史散歩

キリシタンゆかりの地を訪ねる

<歴史散歩>切支丹屋敷コース

 キリシタンといえば天草や長崎などを最初に思い浮かべますが、文京区は江戸で最もキリシタンにゆかりのある土地です。
 慶長17年(1612)に徳川幕府から禁教令が出されると、キリスト教に対する取り締まりが強化され、寛永10年(1633)から始まる鎖国令、寛永14年(1637)の島原の乱を経て、キリシタンを収監するための牢屋敷が正保3年(1646)、江戸に造られます。それが、かつて文京区小日向にあった切支丹屋敷です。
 切支丹屋敷は小日向の台地に造られ、数千坪の広さだったといわれます。寛政4年(1792)に廃止されて跡地は武家屋敷となり、現在は住宅地となっていて、痕跡は残っていません。
 周辺には切支丹屋敷に続く切支丹坂や、収監されていた宣教師ジュゼッペ・キアラの供養碑、キリシタンと関係があるとされる灯籠などがあり、往時を偲ばせています。

(図は、昭和20年代の切支丹屋敷跡の地図です。付近は現在の小日向1丁目です。灰色は崖地で、中央に切支丹屋敷址、切支丹坂の文字が記されています。崖に挟まれた谷は現在、東京メトロの小石川車両基地になっています)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>切支丹屋敷コース

A.カテドラル関口教会


東京カテドラル聖マリア大聖堂

ルルド近くの織部形灯籠
 目白台の椿山荘向かいにあるカトリック教会で、日本に16ある教区のうちの東京大司教区の大聖堂(カテドラル)がおかれています。
 明治20年(1887)、この地に聖母仏語学校が創立され、明治26年(1893)、付属の聖堂が小石川聖マリア教会として独立した歴史のある教会です。大司教座が移されたのは大正9年(1920)です。
 戦後、小日向の切支丹屋敷跡の道端にあった 遺物を回収して保管していましたが、平成2年(1990)、地元からの要請で現在の小日向切支丹屋敷跡に返還しました。
 聖母マリアが出現したといわれる洞窟を模したルルドの右手に、キリシタン灯籠ともされる織部形灯籠があります。石竿の部分が残されています。


尾張屋版小日向絵図(嘉永5,1852)

小日向絵図の切支丹坂
 関口教会から目白坂を下り、音羽通りを越えると小日向台に出ます。鷺坂、大日坂、服部坂と小日向台の裾をいくと、文京区江戸川橋体育館の先に無名の坂があります。
 これが尾張屋版小日向絵図に「切支丹坂」と記された坂で、坂上の薬罐坂から小日向の切支丹屋敷に抜けることができます。
 かつて切支丹屋敷周辺に切支丹坂と呼ばれる坂が複数あったとも考えられますし、あるいは誤記だったのかもしれません。


荒木坂
 小日向台の裾に沿った巻石通り(水道通り)を行くと、善仁寺、日輪寺、本法寺、称名寺と寺院が続きます。
 称名寺の角が荒木坂で、文化年間(1804~18)の『遊歴雑記』に、荒木坂の上、2町(約218m)のところに切支丹屋敷があると書かれています。これをそのまま当てはめると、現在「都旧跡切支丹屋敷跡」の石碑が建っている辺りとなります。

B.獄門橋跡


明治地図の付近。川と橋がある

獄門橋付近のトンネル
 荒木坂上を東京メトロ小石川車両基地に沿って直進すると、ガード下のトンネルに出ます。このトンネルは小日向台と小石川台に挟まれた谷を横切っていて、かつて小川が流れていました。
 この川に架かっていたのが獄門橋で、のちに幽霊橋とも庚申橋とも呼ばれます。
 トンネルの向こう側からやってきて、獄門橋を渡ると石段または坂道があり、切支丹屋敷の表門に続いていました。
 獄門橋のいわれについて『遊歴雑記』は、盗賊3人を獄門(斬首)にかけて橋の際に晒したことからと書いています。獄門橋では聞こえがよくないので、幽霊橋と呼ぶようになったといいます。橋の幅は1間(1.82m)、長さは9尺(2.73m)といいますから、小さな橋だったことがわかります。


切支丹坂(坂下が獄門橋)
 獄門橋のあったトンネルの前に、西に上る坂があります。無名の坂ですが、これが本来の切支丹坂とされています。
 ただ、切支丹屋敷廃止前の天明年間(1781-1789)に屋敷の石垣を取り崩し、樹木を残らず伐り払い、整地して替地や下屋敷に分配した(遊歴雑記)とあり、明治初期の地図から現在の坂道を確認できないことから、これが本来の切支丹坂であったかどうかはわかっていません。
 一度消滅し、明治以降に新しい坂道として復活したのかもしれません。

C.切支丹屋敷跡


屋敷跡碑、シドッチ碑
 切支丹坂上の小日向1-24-8の路傍に「都旧跡切支丹屋敷跡」石碑とヴェルウィルゲン神父が建立したシドッチ記念碑があります。
 江戸時代、この丘にキリシタンの牢獄となった切支丹屋敷がありました。正保3年(1646)、宗門改役井上筑後守政重の下屋敷を牢屋にしたもので、寛政4年(1792)まで存在しました。獄舎があったのは享保10年(1725)の大火で全焼するまでの79年間で、収容者がいなかったために、その後の67年間は再建されないままでした。切支丹屋敷は、山屋敷とも呼ばれました。
 獄舎は周囲を高い板塀で囲まれていましたが、棟割長屋になっていて、井戸もあり、牢屋というよりは収容所に近いものだったようです。
 切支丹屋敷の収容者として知られるのに、ジュゼッペ・キアラジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティがいます。


切支丹屋敷(享保,1720頃)。伝明寺・徳雲寺・称名寺がある
 キアラは遠藤周作の小説『沈黙』のモデルともなったイタリアのイエズス会宣教師で、正保3年(1646)に入牢。棄教して岡本三右衛門の日本名を名乗りました。十人扶持と妻や召使いまで与えられましたが、山屋敷を出ることは許されず、貞享2年(1685)に死去。小石川無量院に葬られましたが、明治になって雑司ヶ谷墓地に改葬され、現在は墓碑がカトリック調布教会にあります。
 シドッティ(シドッチ)はイタリアのカトリック司祭で、宝永6年(1709)に入牢。新井白石が審問にあたり、シドッティから聴取した内容を『西洋紀聞』『采覧異言』に著しました。
 正徳4年(1714)8月、切支丹屋敷の召使い、春・長助夫婦を洗礼したかどで独房に入れられ、10月に獄死しました。敷地内に葬られましたが、墓標として植えられたと伝えられるヨアン榎が廃獄によって切り倒されて、所在がわからなくなっていました。

 平成26年(2014)7月、シドッチ記念碑向かいのマンション建設中に、敷地内から3基の墓と人骨が発見され、DNA鑑定などから内1体がシドッティのものと判定されました。他の2体は春・長助夫婦のものとみられます。
 中央のシドッチ記念碑の碑文は読めなくなっていますが、次のように書かれているそうです。

此の所は切支丹屋敷の跡でこの古い石は八兵衛の夜泣石といってここで殉教した人々を記念するものであります。この窂屋は一六四六年出来たもので一七九二年までこの地では多くのカトリック信者が殉教者となって死んでおります。
中でも一六六八年バレルモに生れたヂォワニパプチスタシドッチ神父は大変に熱心な学者でローマからデトルノン枢機卿と一緒にマニラへ行って居られましたが日本の迫害された切支丹の救霊の為めに秘密で一七〇八年十月十日九州の屋久島へ着き間もなく捉まりました。長崎から江戸へ連れて行かれ此の屋敷に閉じこめられ、新井白石の訊問も受けましたが彼はシドッチ神父の答えを西洋紀聞の中に書きました。神父は二人の番人夫婦に洗礼を授けてから眞との神様の教えを現わす為めに殉教者として正徳四年十月二十一日「一七一五年」歿くなりました。大勢の切支丹日本人外国人の雄々しい死を記念するようにこの碑を立てました。
 昭和三十一年(1956)三月十七日 ウェルウイルゲン神父誌

D.深光寺


深光寺のキリシタン灯籠
 切支丹屋敷のある丘を北に下った、拓殖大学東門付近にある古刹です。
 寛永16年(1639)に創建された浄土宗の寺で、『南総里見八犬伝』で知られる江戸時代の戯作者、滝沢馬琴の墓があります。
 小石川七福神の恵比寿様でも有名で、本堂の前にあるのがキリシタン灯籠です。

E.庚申坂


切支丹坂とも呼ばれた庚申坂
 深光寺前を東に向かい、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐって谷筋の道を進むと、獄門橋のあったトンネルの反対側に出ます。その正面に春日通りに上る階段がありますが、これが江戸後期以降に切支丹坂と呼ばれた坂です。古くは庚申坂、幽霊坂とも呼ばれました。


同心町の周辺
 庚申坂を上ったところは、かつての同心町です。江戸時代、先手組の同心屋敷があったことからの名で、明治5年(1872)から昭和39年(1964)まで、同心町の町名が存在しました。
 先手組とは江戸城門や将軍の警護に当たる与力・同心で、弓組と鉄砲組がありました。先鋒を務めることから先手組と呼ばれます。


御箪笥町の周辺
 同心町から春日通りを北に向かうと、江戸時代に御箪笥町と呼ばれた一角です。
 御箪笥とは幕府の武器を総称した名で、御箪笥奉行の同心屋敷のある町を御箪笥町と呼びました。播磨坂から竹早公園にかけて、御箪笥奉行、御弓矢奉行、御具足奉行の同心屋敷がありました。
 明治になってこの地域は竹早町になりましたが、箪笥の箪の字を上下に分けて竹早としたといわれています。

F.切支丹組屋敷跡


切支丹組屋敷(享保,1720頃)

アハトノ丁(嘉永7,1854)

切支丹組屋敷のあった付近
 竹早公園から文京区立第一中学校にかけては、かつて光岳寺と智秀寺の二つの寺がありました。この北側が江戸時代、切支丹組屋敷があったところです。
『遊歴雑記』には、小日向に切支丹屋敷ができて屋敷や蔵を警護する番人が必要になり、近くの北條阿波守の屋敷六千坪余りを召上げて、与力・同心が住む屋敷にあてたと書かれています。
 そのため、組屋敷のあった地域は小石川阿波殿町と呼ばれ、尾張屋版小石川絵図に地名を確認することができます。

 住宅街を抜け、江戸時代に松平播磨守の上屋敷があった播磨坂に向かいます。
 播磨坂桜並木交差点を越えて坂を下り、極楽水井戸のある高層マンションの角を曲がると吹上坂に出ます。この角にあるのが宗慶寺で、極楽水ももとは宗慶寺境内にありました。

G.宗慶寺


宗慶寺のキリシタン灯籠
 宗慶寺は、応永22年(1415)に了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が庵を開いた由緒ある地にあります。この庵は無量山寿経寺と名づけられ、慶長8年(1603)に南東に500mほど離れた地に移転しました。それが現在の無量山伝通院寿経寺です。
 元和7年(1621)、庵のあったところは徳川家康の側室、茶阿局(ちゃあのつぼね)の墓所となり、法名をとって吉永山朝覚院宗慶寺となりました。
 小石川七福神の寿老人を祀っていることでも知られますが、本堂の横にキリシタン灯籠がおかれています。

H.無量院跡


無量院のあった一角
 吹上坂を下りると千川通りです。共同印刷の前を通り、白山通りからの道と交わる信号の西に、かつて無量院という寺がありました。
 第3代将軍家光の側室、お万の方の菩提寺で、小日向切支丹屋敷で死んだジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)のほか、卜意、南甫、寿庵、二官という名のキリシタンが葬られました。
 慶長19年(1614)に開山し、神田にあった薬王山能覺寺が、明暦3年(1657)の大火で焼け出され、この地に移ったと伝えられています。
 ジュゼッペ・キアラの墓は明治末に雑司ヶ谷墓地に改葬され、無量院は戦後に廃寺となりました。

I.伝通院


岡本三右衛門の墓碑と供養碑
 応永22年(1415)に了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人によって開山された浄土宗の寺です。もとは宗慶寺のところにありましたが、慶長8年(1603)、徳川家康が生母於大(おだい)の方の遺骨を埋葬したことから、この地に無量山寿経寺を移転。於大の方の法名を院号として、無量山伝通院寿経寺としました。
 伝通院の墓地の西奥には、昭和52年(1977)に建立されたジュゼッペ・キアラの法名の書かれた「入専浄眞信士霊」墓碑と「ジョセフ岡本三衛門神父供養碑」があります。

ジョセフ・キイャラ師の霊よ
安らかに眠り給え
駐日イタリヤ大使
ウィンツェンゾ・トルネッタ
1977.5.25

 キアラは貞享2年(1685)に小日向切支丹屋敷で死去したのち、伝通院の北にある無量院に葬られました。明治時代に無量院が廃寺となったため、墓碑は雑司ヶ谷墓地を経て、昭和18年(1943)、タシナリ神父によって練馬サレジオ神学院に移されました。昭和25年(1950)からはカトリック調布教会におかれています。

(行程:5km)
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

キリシタン灯籠

 江戸時代の茶人・古田織部が好んだことから織部形と呼ばれる石灯籠があります。石竿と呼ばれる部分が膨らんで十字のようにも見え、台石に浮き彫りされている地蔵菩薩がキリスト教の聖人のように見えることから、キリシタン灯籠とも呼ばれます。
 このような織部形灯籠は各地にあり、これを隠れキリシタンが信仰に用いたとする説が大正から昭和にかけて広まりました。各地にキリシタン灯籠とされたものがありますが、現在は、これを否定する意見もあります。

井上筑後守政重(いのうえちくごのかみまさしげ)

 天正13年(1585)生まれ。徳川家康の家臣、井上清秀の4男として生まれ、もとはキリシタン信者であったともいわれます。寛永4年(1627)筑後守に任ぜられ、寛永9年(1632)大目付となりました。
 出世の糸口となったのは、寛永10年(1633)に逮捕されたポルトガルのイエズス会宣教師クリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)を改宗させ、寛永13年(1636)に反キリスト教の教理書『顕偽録』を書かせた手柄によるもので、政重自身が元信者としてキリシタンの宗旨に通じていたからだともいわれます。
 寛永14年(1637)に起きた島原の乱平定の功績により、寛永17年(1640)には1万石の大名となり、宗門改役(切支丹奉行)を兼ねることになります。
 正保3年(1646)には小日向の下屋敷を切支丹屋敷に改造し、万治3年(1660)隠居、万治4年(1661)に77歳で死去しました。
 遠藤周作の小説『沈黙』にも登場しています。

ジュゼッペ・キアラ

 イタリア出身のイエズス会宣教師。ヨーロッパ司祭3名、日本人修道士1名とともに、鎖国後の日本にマニラから入国し、寛永20年(1643)5月、筑前国で捕えられ、長崎に送られました。同年7月、江戸に移送され、伝馬町に入牢。井上筑後守が尋問を行い、改宗したポルトガルの宣教師クリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)がこれに協力しました。
 禅宗に改宗したのち、小日向切支丹屋敷に移され、刑死した岡本三右衛門の妻を与えられてその姓名を名乗りました。幕府のキリシタン取り締まりに協力し、貞享2年(1685)83歳で死去しました。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

 イタリア出身のカトリック司祭。宝永5年(1708)、マニラから屋久島に上陸、捕えられて長崎に送られました。翌年江戸に移送、小日向切支丹屋敷に収容されました。尋問には儒学者で幕府の御側御用人の新井白石があたりました。
 切支丹屋敷の召使い夫婦に布教したことで詰牢に移され、正徳4年(1714)、46歳で衰弱死しました。
 『外国通信事略』に「山屋敷裏門脇に埋めた」との記述があり、平成26年(2014)7月、シドッチ記念碑向かいのマンション建設敷地内でシドッティの墓と骨が発見されました。

春・長助(はる・ちょうすけ)

 両親がキリシタンであったために、幼い時から切支丹屋敷で使役されたといわれる奴婢です。キアラや寿庵の召使いとなり、のちにはシドッティの召使いとなりました。シドッティの洗礼を受けてキリシタンであることを申し出たため詰牢に入れられ、それぞれ54歳と55歳で病死。敷地内のシドッティの傍に葬られたといわれます。
 平成26年(2014)7月、シドッチ記念碑向かいのマンション建設敷地内から3基の墓と人骨が発見され、内1体がシドッティのものと確認されました。残り2体は春・長助のものとみられます。

八兵衛の夜泣き石

 かつて切支丹屋敷門前にあった高さ1m弱の石です。八兵衛はキリシタンに帰依して刑死した元盗賊または牢屋敷の番卒の名で、その墓石だといわれています。夜毎に忍び泣きの声が聞こえたという言い伝えもあります。
 大正7年に都旧跡に指定された「切支丹屋敷跡」とともに戦後しばらくは切支丹坂下に置かれていましたが、付近の住宅化が進んだために「泣き地蔵」とともに目白台のカテドラル関口教会に引き取られました。その後、地元町会とカテドラル関口教会の話し合いにより、平成2年(1990)、 「泣き地蔵」が「都旧跡切支丹屋敷跡」の石碑のある現在地に戻されました。

遊歴雑記(ゆうれきざっき)

 江戸の茶人、十方庵敬順が文化年間(1804~18)に著した紀行書で、二編巻之中第四「切支丹屋敷獄門橋丹下坂の始元」に小日向切支丹屋敷のことが書かれています。
(抜粋)
東武小日向切支丹屋敷といふは、荒木坂の上貮町にありて七軒屋敷につゞき、蜊(とかげ)坂の北に隣るやしきの地面高低ありて四千餘坪ありとなん、元此地は寛永年間の頃まで井上筑後守の下屋敷なりし(略)
屋敷の眞中に貮拾餘間、四方に石垣を築廻りに高さ九尺の板壁を構へ、中に家作し門を二重に作る、今の切支丹屋敷といえる是也、此通用門の前なる坂を此時より切支丹坂といひはやせり、本名は丹下坂也、むかし御入國の頃まで此坂の左側に今井丹下といえる人久しく住し故となん、さればヨアンが持渡りし邪宗門の本尊の銅像畫像、又は法器書物の類悉く召上賜ひ、此地に土蔵を建て入置る、又ヨアン召仕として、春といふ下女長助といふ下部兩人を遣はしめ下され、なを三十人扶持と金七十兩の御手當を賜ふ、御慈愛の程過分とやいはん有難事ななずや、是によりてヨアン及び法器の御庫(おくら)御金藏の番人として、與力同心を附しめらる、此人々住宅手遠にては然るべからずとて、幸ひ筑後守が同列宗門奉行たりし、北條阿波守やしき六千餘坪を召上られ、切支丹やしき司役の者へ割渡し下さる、今の小石河阿波殿町といふ是也(略)
當處御金藏の錠を摺切若干(そくばく)の金子を盗取し、盗賊三人程なく相しれ切支丹坂下の中路、板橋の際にならべて獄門に懸けらる、是より此板を獄門橋と號(なづ)けしが、稱(となへ)よろしからぬゆへ今は幽靈橋といえり、幅僅に壹間、渡り九尺に過ず、今先手組やしきの間に掛けたる小流の板これなり、本名は獄門橋といへり、その頃は切支丹やしき表門より切支丹坂まで道幅廣かりしと見ゆ、此砌より御金藏をば外へ引賜ふとなん、その後明暦三年の大火に、傳馬町牢獄屋敷焼失せしかば、切支丹やしき跡へ假牢を作り、囚人をさし置る、天明年間此やしきの石垣取崩し賜ふ頃までは、土段場(首切り場)の跡或はヨアン榎などゝいふ大木もありしが、樹木は殘りなく伐りはらゐ、地面引ならし追々替地又は下屋敷等に割渡し(略)
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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