文京 坂物語

富坂・東富坂・旧東富坂

~二の谷を挟む3つの富坂~

 文京シビックセンター(文京区役所)を挟むように、3つの坂があります。
 国道254号線・春日通りの大きな坂道、富坂と東富坂。それと東富坂から分岐する小さな坂道、旧東富坂です。

富坂(坂上から坂下にかけて)

東富坂(交差点の先に富坂が見える)

旧東富坂(坂上から坂下にかけて)

富坂(桃)、東富坂(緑)、旧東富坂(青) *国土地理院地図を加工

左に西富坂、右に東富坂の文字(明治16年地図)

二の谷を挟む富坂と東富坂

 富坂は、春日通りを中央大学理工学部付近から千川通りとの交差点にかけて下る坂で、それぞれ「富坂上」「富坂下」の表示のある信号があります。
 東富坂は、同じ春日通りを白山通りとの交差点「春日町」から「真砂坂上」にかけて上る坂で、富坂とは白山通りの谷を挟んで対になっています。『紫の一本』(天和2、1683)は、この谷を「二の谷」 と呼び、二谷村の内にあるといいます。
 二の谷は、江戸中期以降の『江戸砂子』『新編江戸志』『御府内備考』では、「二ヶ谷」と書かれています。

明治に造られた新しい東富坂

 東富坂は、明治37年(1908)に造られた新しい道 で、真砂坂とも呼ばれます。これは、明治2年(1869)から昭和40年(1965)まで、付近の町名が真砂町であったことに由来します。
 現在の東富坂は明治37年にできたものですが、じつはそれ以前から東富坂はありました。「真砂坂上」から現在の東富坂の南を白山通りに下りる、旧東富坂と呼ばれているものがそれです。
 旧東富坂は、明治時代の地図には東富坂と記載され、江戸後期の『御府内備考』(文政12、1829)には、「今は富坂町に近き方を西富坂といひ、長右衛門屋舗辺より本郷へ上る方を東富坂と唱ふ」 と書かれています。
 富坂町は現在の小石川1~2丁目、西富坂は現在の富坂のことです。長右衛門は春日町で百姓宿屋を営んでいた大黒屋長右衛門のことです。


右上に向トミサカ(富坂)、右下にトミサカ(旧東富坂)(江戸砂子)

かつてはトビ坂と呼ばれていた

 『江戸砂子』(享保17、1732)には、「向富坂前富坂とて二坂あり」 と書かれていて、収録されている地図 からは現在の富坂が向富坂、旧東富坂が前富坂であることがわかります。
 富坂は、かつてトビ坂と呼ばれていました。『紫の一本』(天和2年、1682)には、「小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、ゑざし町より春日殿町へ下る坂の脇より、御弓町へ登る坂、両方ともにとび坂といふ」 と書かれています。御弓町は旧東富坂上にありました。江戸初期の慶長・元和の頃に、弓同心の組屋敷があったことに由来します。
 『紫の一本』には、現在の富坂と旧東富坂のどちらもトビ坂と呼んでいたと書かれています。その後、トビ坂が富坂と呼ばれるようになってからも、両坂ともに富坂でした。
 2つの坂を合わせて1組でトビ坂、または富坂で、前富坂と向富坂、東富坂と西富坂は、2つの富坂を区別するための呼称だったと考えられます。『江戸砂子』所収の地図には、前富坂を「トミサカ」と記載していることから、名称の区別はそれほど明確ではなかったのかもしれません。


トヒサカ丁と書かれた延享3年(1746)の江戸図。左上は牛天神

富坂丁になった明和9年(1772)の江戸図

元禄にトビ坂から富坂へ

 トビ坂が富坂に変ったのは、いつ頃のことだったのでしょうか。
 『武江年表』(嘉永3、1850)の元禄6年(1693)の項に、「五月、鷹匠町を小川町、小石川餌差町を富坂町と改らる」 とあります。『御府内備考』にも、「元禄六年九月六日小石川餌さし町向、後富坂町と唱ふべきよし、命ぜらせし事を載す 湯原日記」 とあり、元禄6年に幕命により富坂町が誕生したとしています。
 続けて、「これより後、富坂の文字にあたらめ書しといふ 改撰江戸志」と書いていて、この新しい町により、トビ坂が富坂に改められたのだといいます。
 『御府内備考』によれば、富坂町は餌差町が町方支配に組み入れられて出来た町です。 それより3年前の元禄3年(1690)の『増補江戸惣鹿子名所大全』には、「鳶坂 小石川にあり、むかふとび坂、まへ鳶坂とて、所の人はよふ」 とあって、坂を富坂とは呼んでいません。『改撰江戸志』がいうように、富坂町が誕生したことでトビ坂が富坂と呼ばれるようになったと考えられます。
 もっとも、富坂町起立後もトビ坂の名称は残っていて、延享(1744~48)の頃までに出版された絵図には、富坂町ではなくトビサカ丁と記されています。富坂町の表記が現れるのは宝暦(1751~64)の頃からですが、絵図からは江戸後期までトビ坂、トビサカ丁の名称が使われていたことがわかります。
 トビ坂がそれほど定着していたのに、なぜトビ坂町ではなく富坂町と命名されたのでしょうか。餌差町が町方支配に変り、新しい町名を付けるにあたって近くのトビ坂の名を借りながら、豊かな町になってほしいという願いを込めて富坂町にしたのかもしれません。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

嘉永1年(1848)の江戸図。「とひさか」と書かれているのは町名

慶應3年(1867)の江戸図。町名はトミサカ丁だが、坂はトヒサカ

明治29年(1896)。右が(旧)東富坂、二の谷を渡って富坂

大正3年(1914)。新しくなった富坂と東富坂。北に移動している

トビ坂の名の由来

 富坂が、もとはトビ坂だったというのは、『南向茶話』(寛延4、1751)に出てきます。トビ坂の名の由来については、元禄の頃、鳶を捕える役人がいて、捕まえた鳶を入れておく小屋が坂の途中にあったからだとしています。
 しかし、トビ坂の名は元禄以前からあり、『御府内備考』は根拠がないと退けています。
 慶長年中(1596~1615)より、坂の付近に鷹の餌となる小鳥を捕獲する餌差衆が住んでいたと伝えられています。『南向茶話』の説は、この餌差衆からの連想でしょうか。
 『紫の一本』は、「元は此処に鳶多くして、女わらんべの手に持たる肴などを、舞ひさがりてとるゆへに鴟坂と云う」 とし、『江戸鹿子』(貞享4、1687)は、「此処に水埜(戸)家の屋敷あり、その門前の辺に、常に鳶の巣ありし故、おのづから鳶坂といひけるとなん」 としています。
 明治15年(1882)生まれの矢田挿雲は、子供の頃、旧水戸藩邸付近で鳶を見たことがあると『江戸から東京へ』(大正9-12、1920-23)に書いてます。「旧幕時代、邸内の森に鳶が群遊し、鳶坂を下る子供が手にせる魚を、鳶にさらわれたことは珍しくない。一体あの付近は、鳶の棲息に適せるものか」 とあるのは伝聞でしょうか。

歌川広景『小石川にしとみ坂の図』
 江戸後期の浮世絵師・歌川広景の『江戸名所道戯尽 小石川にしとみ坂の図』(安政6年、1859)には、江戸末期の富坂(西富坂)の様子が描かれています。坂上から二の谷(二ヶ谷)に向かって野山が広がっていて、矢田挿雲の話も肯ける風景です。坂の右に染物屋などが続いていて、水戸藩邸はその裏になります。
 ところで、元禄6年に誕生した富坂町ですが、江戸中期までの地図 には「トビサカ丁」と表記されていて、「トビサカ」の呼称が続いていたことを窺わせます。
 坂名としては幕末まで「トビサカ」の表記が残っています。


現在の富坂付近。ピンク線が昔の富坂 *国土地理院地図を加工

現在の新旧・東富坂付近。青線が昔の東富坂 *国土地理院地図を加工

明治までの富坂・東富坂の位置

 『紫の一本』などに書かれているように、小石川台と本郷台の谷を挟んで向かい合う二つの坂は、どちらもトビ坂と呼ばれていました。
 現在の富坂(西富坂)は春日町交差点を挟んで東富坂(真砂坂)と向い合っていますが、本来の東富坂である旧東富坂とは向い合っていません。現在の富坂は、東富坂と同様、明治37年(1908)に道路拡幅のために坂下を変更したもので、それまで旧東富坂と向い合っていました。
 明治以前の富坂(西富坂)の正確な位置は、明治年間の地図 から知ることができます。
 これらを見ると、富坂(西富坂)は、中央大学正門付近から東京都戦没者霊園に沿って春日通り南側の歩道を進み、礫川公園上から公園内を南東に横切って、東京メトロ後楽園駅の公園側出口付近に下りていたことがわかります。
 坂下からは千川通りに架かっていた橋を渡って文京区役所の建物の南側を講道館に抜けると、白山通りの向かいで東富坂に繋がります。
 この間が二の谷(二ヶ谷)ですが、講道館の正面に見えるのは現在の旧東富坂ではありません。
 明治以前の東富坂は、丸ノ内線の軌道の北側にある、この路地を進んだ突当りが坂下になっていました。ここから南に折れて坂を上りながら、現在の旧東富坂に繋がっていたわけです。


正保年中江戸絵図。伝通院下から右上への道が二つの富坂に通じている

「とびざか」と書かれた嘉永6年出版の宝永江戸図

トミサカ、それともトミザカ?

 『紫の一本』に書かれた天和2年(1683)、すでにトビ坂の名がありました。地図上では、正保年中江戸絵図(正保1-2年、1644-5) に、二つの坂を通る道の存在を確認することできます。
 富坂の読み方は、文京区教育委員会の案内板では「とみざか」となっています。道路標識を始め、警察署、バス停留所、施設名など、「とみさか」と濁らないのが一般的ですが、江戸時代の地図には「とびざか」と「坂」を濁る表記も見られます。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

TOP