小石川 茶話

小石川の地名の移り変わり(2)

江戸の初めの小石川/江戸時代の小石川の範囲
ま・めいぞん(坂・グルメ)

 江戸方角安見図鑑の小石川(右が北)
左上が現在の飯田橋で流れるのは江戸川(神田川)、右下が小石川1丁目付近

 江戸方角安見図の小石川新地(下が北)
左上が本郷追分、左下が白山上。右は小石川4丁目付近から簸川神社にかけて

 小石川橋(後楽1丁目)
小石川御門は橋の千代田区側(左)にあった

 牛天神(春日1丁目)

 金剛寺坂(春日2丁目)

 江戸末期の江戸近郊図(右が北)
黒い線の内側が江戸御府内。郷村地の地名は丸で囲まれている

江戸の初めの小石川


 小石川の地名は、江戸時代の書物や地図に登場しています。
 延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑には、「小石川」「小石川新地」と題された地図が、周辺の「本郷」「駒込」「巣鴨」「大塚」とともに載っています。
「小石川」の地図には、江戸川(神田川)左岸、現在の水道1丁目付近から水戸屋敷(東京ドームシティ、小石川後楽園)にかけて、北は伝通院山内から小石川1丁目にかけて描かれています。

 また、「小石川新地」の地図には、館林下屋敷(小石川植物園)を中心に伝通院山内の北、小石川4丁目から千石2丁目の簸川神社にかけて、白山権現(白山神社)、白山上から本郷追分までの中山道・岩槻海道(本郷通り)、白山1~2丁目までが含まれています。
 新地とされていることから、この一帯の丘陵が拓かれて新たに小石川と呼ばれるようになったと考えられます。

 白山権現の南は指谷(さしがや)と呼ばれていましたが、江戸中期の地誌『江戸砂子』に、「寛永の頃は町並みなく木立の茂りたる谷也。御鷹それし時、あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」 と地名の由来について書かれていて、寛永年間(1624~44)には人家のない山野だったと想像されます。

江戸時代の小石川の範囲


 江戸中期、寛延4年(1751)に書かれた酒井忠昌の『南向茶話』には、小石川と呼ばれる土地の範囲が書かれています。

「南は小石川御門堀通りより、北は大塚の大道迄は小石川と號(号)す、牛込邊(辺)も、上水之通牛天神下迄は小石川之内也、・・・金剛寺坂の下は、舊(旧)名小石川鷹匠町と呼し所也」

 小石川御門は江戸城外濠に面した城門の一つで、現在の小石川橋のところにありました。大塚の大道は護国寺東あたりの現在の春日通りを指すと思われます。牛天神は春日1丁目にある古い神社、金剛寺は現在ありませんが、隣にあった金剛寺坂は今も春日2丁目に残っています。
 外濠の北にある東京ドームシティ付近の外堀北から護国寺東の大塚まで、牛天神下から金剛寺坂下にかけての巻石通り(水道通り)までが小石川と呼ばれていたことになります。

 江戸後期の『御府内備考』には、小石川の範囲が次のように書かれています。
「今は小石川と唱ふる地最廣(広)し、南は小石川御門外なる御堀に限り、北は巣鴨に至り、東は本郷駒込に添ひ、西は小日向に隣り、乾の方は雜司ヶ谷」

 乾(いぬい)は北西の方角のことで、現在の後楽、春日、小石川、水道から、千石、白山、大塚あたりまでを小石川と呼んでいます。また、『御府内備考』には小石川周辺の地名として本郷、駒込、巣鴨、小日向、関口、高田、雑司ヶ谷、牛込が記載されていて、白山、大塚までは小石川の中で記述されています。
 この『御府内備考』の範囲は、明治になって町名に小石川を冠せられた地域と一致していることがわかります。
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