江戸名所図会

『江戸名所図会』の小日向・関口を歩く

<歴史散歩>『江戸名所図会』小日向・関口コース

 江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。
 寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸末期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
 「巻之四 天権之部」には、小日向から関口にかけての寺や神社のほかに、北村季吟・松尾芭蕉の旧跡、神田上水の大洗堰、橋などが紹介されています。
 小日向から関口にかけての丘は眺望にも優れ、四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で賑わったと伝えられています。
 『江戸名所図会』で紹介されている、江戸時代の小日向・関口の名所を巡ります。

(下は、嘉永5年(1852)刊行の『小日向絵図』です。左が後楽、右が関口です)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>
『江戸名所図会』小日向・関口コース

A.諏訪明神社(諏訪神社)


『江戸名所図会』牛天神社・牛石・諏訪明神社

Google earthで再現した『江戸名所図会』牛天神社・牛石・諏訪明神社
 諏訪神社は、牛天神下交差点から、神田上水跡の巻石通り(水道通り)を入った南にあります。ここは江戸時代、神田上水が水戸藩邸に流れ込む手前、上水堀の南に位置していました。
 創建は明徳元年(1390)で、諏訪明神社の北にあった梅本坊の住職・乗観法印が勧請したと伝えられています。梅本坊は諏訪明神社の別当だった龍門寺の旧名です。
 伝承によれば、乗観は信州の諏訪明神を奉じ、毎年参詣していましたが、70歳となって参詣がおぼつかなくなり、諏訪明神の勧請を祈念したところ、霊夢に諏訪明神が現れ、近くの森の木の枝に白幣(しらにぎて)が翻りました。白幣は神前に捧げる白い布のことです。
 乗観が土地の人たちとそこに建立した社が諏訪神社で、白幣の翻った神木は慶長(1596~1615)の頃に大風のために折れてしまったということです。
 乗観の思いが神に通じたことから、この地を思いの森といったといいますが、『江戸名所図会』はこれを忍ぶの森としています。いずれにしても、昔は鬱蒼とした森でした。

諏訪神社
 中世以前、この辺りは江戸湾から続く入り江だったと考えられていて、江戸時代、諏訪町には船宿があったと『御府内備考』に書かれています。 諏訪町は諏訪神社の門前町です。
 入り江には松などの林が広がっていたのでしょうか。

B.牛天神社(北野神社)


北野神社・社殿
 諏訪神社から巻石通り(水道通り)を渡って北に進むと、右に急な階段のある鳥居があります。通称・牛天神と呼ばれている北野神社の参道です。この参道は、『江戸名所図会』の絵にも描かれているように、江戸時代までは裏門でした。
 表門は本社の南、牛天神下の上水路に面してありました。『江戸名所図会』には、鳥居の右に別当の龍門寺、参道の長い階段を上って二の鳥居をくぐると、左に茶屋、楊弓場が描かれています。
 楊弓場は矢場とも呼ばれ、矢場女が体を密着させて射的の指南をするのが人気でした。楊弓場には私娼もいました。
 『小石川區史』には、昔は金杉天神と称し、門前は小石川でも有数の繁華地だったと書かれています。また、境内からは近くの諏訪町・飯田橋・後楽園だけでなく、牛込・麹町・駿河台が望める景勝の地でした。
 境内には梅の木が多くあったと『礫川要覧』に書かれています。江戸前期の『江戸名所記』にも梅の木が描かれています。

明治頃の表参道と階段

『江戸名所図会』の境内(部分)。左下の階段が今の参道

『江戸名所記』の境内
 創建にはいくつかの説がありますが、縁起によれば元暦元年(1184)に源頼朝が建立したといいます。 『南向茶話』には、当初、社地は今より東にありましたが、そこが水戸徳川家の屋敷地となったため、現在のところに遷座したといいます。水戸徳川家の江戸屋敷は、北は中央大学から礫川公園、文京シビックセンターにかけて、南は小石川後楽園、東京ドームシティまでの広大な敷地を占めていました。
 北野神社の祭神は菅原道真 で、このことから牛天神と呼ばれていますが、菅原道真には牛と梅にまつわる伝説があり、ほかの天神社同様、社紋は梅、境内には梅の木が植えられ、黒牛の座像があります。


太田神社・高木神社(相殿)
 北野神社の境内社には、太田神社と高木神社があります。
 太田神社は、『寺社書上』に黒暗天石祠と記されていて、大正後期(1920~23)に書かれた矢田挿雲の『江戸から東京へ』によれば、牛天神別当の龍門寺に托されたものだといいます。
 黒暗天または黒闇天(こくあんてん)は吉祥天の妹で、密教では閻魔王の妃とされています。容貌醜く人に災いを与える女神で、太田神社の黒闇天は、江戸時代には貧乏神だったようです。
 傳通院の西、三百坂に太田という姓の貧乏旗本が住んでいましたが、ある夜、夢に黒闇天女が現れて貧乏神だと名乗り、赤飯と油揚げを月に3度供えれば福徳を授けると告げました。そのとおりにすると豊かになったので、旗本は黒闇天女の像を彫って信心しました。子孫も繁栄しましたが、死後、神像を粗末にされるのを怖れ、龍門寺に托したといいます。
 その後、牛天神の氏子の大工が幕府工事で儲けて社殿を寄進し、黒闇天女は福の神に昇格しました。 なお、太田神社では、黒闇天女を弁財天の姉としています。
 龍門寺は泉松山観行院といいますが、この辺りは中世以前、江戸湾から続く入り江で、松林があったことになぞらえて、山号を泉松、寺号を龍門としたといいます。
 龍門寺の起立は不詳ですが、天台宗東叡山末で、『寺社書上』に、正保2年(1645)に第3代将軍・徳川家光の厄年祈祷、明暦2年(1656)に第4代将軍・徳川家綱の疱瘡(ほうそう)祈祷をしたとあるように、将軍家との関係は深かったようです。 なお、牛天神の絵馬は疱瘡に利くことで知られていました。


明治29年の高木神社(道路中央の赤い四角)
 高木神社は、江戸時代には第六天社と呼ばれていました。第六天とは仏教の欲界六天の第6のことで、他化自在天(たけじざいてん)、天魔とも呼ばれる魔王を祀っていたのが第六天社です。神仏習合により、神代七代の第6代、オモダル(面足)とアヤカシコネ(綾惶根)を第六天魔王と同一視するようになりました。
 第六天社は上水端にあり、明治になると高木神社と名称を変えますが、神仏分離によるものと考えられます。『寺社書上』には、牛天神社と同じく龍門寺が別当となっています。
 明治43年(1910)の『礫川要覧』には、高木神社は小日向水道端町1丁目にあり、旧上水の暗渠上に鎭座していると書かれています。神田上水南の土手にあったものが、暗渠となったために道路の中央に鎮座するに至り、毎年10月18日には祭礼も行われていると書いています。瓦葺二間四面の本殿といいますから、道路にどんと居座っていたのでしょうか。
 江戸時代、神田上水の北、荒木坂の東に第六天町がありました。第六天社があったことに由来します。明治以降、昭和41年(1966)まで、今井坂から荒木坂にかけての春日2丁目・小日向1丁目に第六天町がありました。明治時代の地図には、小日向交差点付近に高木神社が記されています。
 第六天社は、『江戸名所図会』にある小日向上水端道祖神祠のことで、勧請は明徳(1390~93)頃、貞享元年(1684)に御先手組の与力・同心により再興されたといいます。


『江戸名所図会』に描かれた牛坂の牛石

小石川絵図に描かれた牛坂の牛石

北野神社境内にある牛石

牛石

 北野神社本殿の手前に牛石があります。もとは本殿裏の牛坂にあったもので、『江戸名所図会』と『東都小石川絵図』から確認することができます。
 『寺社書上』には、牛石はもともと牛天神社の社地にあって、社地に梅本坊(牛天神社別当・龍門寺の旧名)や武家屋敷・町屋敷がつくられたために、牛石も武家屋敷内に入ってしまったと書かれています。
 『礫川要覧』には、牛坂下にあった石がさらに坂上の裏門を入る左側に移されていると書かれていて、現在の場所に納まるまでに変遷があったことがわかります。
 牛石は北野神社の縁起に関係しています。
 寿永元年(1182)の春、船に乗った源頼朝が風波を避けるため、この地の入り江の松に繋留したところ、夢に牛に乗った菅原道真が現れ、二つの幸が叶ったならば御礼に社を祀るように告げたといわれます。幸の一つは長男頼家の誕生、もう一つは平家の西国への放逐で、幸叶った頼朝は夢のお告げ通り、元暦元年(1184)、北野神社を建立しました。
 道真が夢から覚めると、そばに牛に似た石があり、それが今も境内に残る牛石です。牛天神の名は、夢に牛に乗った天神(菅原道真)が現れたことに由来します。
 また、『江戸志』によれば、暦応(1338-41)の頃、入り江が草地となり、人々が牛を放して草をはましたので牛天神というようになったともいいます。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

C.慧日山金剛寺


『江戸名所図会』金剛寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』金剛寺

金剛寺門前付近

金剛寺跡を貫く丸ノ内線

金剛寺の名を遺す坂道
 北野神社から安藤坂交差点を渡り、神田上水跡の巻石通り(水道通り)を進むと、右に金剛寺坂があります。昭和26年(1951)まで、坂の隣に坂の名の由来となった曹洞宗の寺院、慧日山金剛寺がありました。
 『江戸名所図会』には、神田上水に面した総門と門前町が描かれ、参道の低い階段をいくつか上っていくと崖の下に本堂があります。この辺りを地下鉄丸ノ内線の軌道が貫くことになりました。
 寺伝によれば開創は建長2年(1250)で、相模国波多野荘田原村に建立され、のちに小日向郷金杉村に遷されたといいます。当初は臨済宗でしたが、文明年中(1469~1487)に太田道灌が再興し、永正6年(1509)、曹洞宗に改められました。その後、たびたび火災に遭い荒廃しましたが、徳川家康入府後に再興されたとされます。
 神奈川県秦野市東田原には、同じ由緒を持つ臨済宗の大聖山金剛寺がありますが、『小石川區史』は小日向の金剛寺の建長2年(1250)の開創には信憑性がないとして、文明(1469~1489)頃からの寺ではないかとしています。いずれにしても小日向屈指の古刹で、室町時代末から江戸時代を通じて栄えました。

ありし日の金剛寺(明治期)
 昭和26年(1951)、金剛寺は地下鉄丸ノ内線建設のために移転、現在は中野区上高田にあります。

D.道祖神祠


『江戸名所図会』道祖神祠

道祖神祠付近。道路の右に上水堀、左に祠のある土手道があった

小石川絵図に描かれた第六天社(中央の上水端土手)

『江戸名所図会』に描かれた草鞋、祠の後ろに上水と橋
 『江戸名所図会』には、「小日向上水端道祖神祠」と題した絵があります。道祖神祠の説明には、「上水堀の端、金剛寺より二町ばかり西にあり、明徳年間(1390~93)の勧請なりといへり。別当竜門寺に当社勧請の碑と称するものあり」と書かれています。金剛寺から2町(約218メートル)西は、小日向交差点手前になります。
『南向茶話』には「上水道橋に道祖神の小社あり」 と書かれていて、古地図からも小日向交差点付近にあったことがわかります。
 龍門寺にあった道祖神祠の勧請と称する碑は、『南向茶話』に出てくる、「道 明徳2年12月19日 ○○」と書かれた青い板石のことですが、 所在は不明です。『江戸志』は『求凉雑記』を引用して、この祠にオモダル(面足)とカシコネ(惶根)を祭っているので、第六天といわれていると書いています。 カシコネは、アヤカシコネ(綾惶根尊)のことです。
 つまり『江戸名所図会』に描かれた「小日向上水端道祖神祠」は第六天社のことで、現在、北野神社の境内にある高木神社がそれに当ります。昭和10年(1935)発行の『小石川區史』は、近年まで水道端に祠が残っていたが今は見られなくなったと書いていて、神田上水廃止により埋め戻された大正(1912~26)頃に、この祠を廃して、祭神を北野神社内に遷したものと思われます。
 道祖神は村の道端などに祀られ、外部から悪霊などの侵入を遮る村の守り神です。 古代・中世からの民間信仰の神で、近世になるにしたがい、第六天魔王、オモダル(面足)とアヤカシコネ(綾惶根)と習合していったと考えられます。現在の高木神社の祭神は、穀物の神であるウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲魂)です。
 『新撰東京名所図絵』『礫川要覧』には、高木神社(第六天社)の格子戸に炮烙(ほうろく)と草鞋(わらじ)を結び付けて、奉納・祈願する者が多いと書かれています。 『江戸名所図会』の絵にも祠に草鞋が下がっているのがわかります。炮烙は、素焼きの浅い土鍋のことです。
 神社の裏に描かれているのは上水です。

E.氷川明神祠


『江戸名所図会』氷川明神社

Google earthで再現した『江戸名所図会』氷川明神社

双龍橋のあった氷川社と日輪寺門前

氷川社が合祀された小日向神社

日輪寺本堂の氷川明神提灯

氷川明神跡にある霊園
 道祖神祠跡から、神田上水跡の巻石通り(水道通り)をさらに200メートルあまり進むと、『江戸名所図会』の「氷川明神社」に描かれた日輪寺があります。氷川明神社は、日輪寺の裏の蓮華山にありました。
 『江戸名所図会』には、「同(道祖神祠)西の方二丁余りを隔てて、これも上水堀の端、慈照山日輪寺といへる禅林にあり」と書かれています。2町は約218メートルです。
 慈照山日輪寺は曹洞宗の寺院で、氷川明神の別当として開いたのが基になったといわれます。 氷川明神略縁起によると、天慶三年(940)の平将門討伐の際に平貞盛が勧請したのが始まりで、文明年間(1469~86)に太田道灌が6万坪余りの土地を寄付して再興したといいます。慶長13年(1608)、日輪寺は吉祥寺の末寺となり、真言宗から曹洞宗に改められました。
 「氷川明神社」の絵には、門前の上水堀に橋が二つ架かっています。右が日輪寺山門、左が氷川明神社の鳥居の橋で、双龍橋と呼ばれていました。

 明治2年、神仏分離により氷川明神社は田中八幡神社と合祀され、小日向神社に改称されて服部坂に移されます。田中八幡神社は音羽1丁目、現在の今宮神社の地にありました。
 氷川明神社の社地は官有地に召上げられ、別当を解かれた日輪寺は氷川明神社殿を境内に移し、一時本堂としていましたが、本堂新築後、社殿は観音堂になりました。間口二間、奥行一間半の小さなものだったようです。
 氷川明神社のあった蓮華山は東京府の砂利採掘場となり、掘り尽されてしまいました。山はなくなりましたが、今は霊園となって蓮華山の名を冠しています。
 日輪寺は昭和20年(1945)5月の空襲で全堂宇を失ってしまいましたが、現在も本堂には氷川明神の提灯が架かっています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

F.大日堂


『江戸名所図会』大日坂・大日堂

現在の『江戸名所図会』大日坂・大日堂

大日堂

大日堂が由来の大日坂
 神田上水跡の巻石通り(水道通り)をさらに進むと、大日坂下の交差点があります。大日坂を30メートルほど上った右に大日堂があります。天台宗の寺院で覚王山長善寺妙足院といいますが、大日如来を祀っていることから、大日堂と呼ばれています。
 大日如来略縁起によれば、大日如来像は慈覚大師(円仁、794~864)が唐より将来したもので、霊夢により出家した浩善法尼が開基となり、家に守ってあった大日如来像を本尊として、この地に草庵を建てたといいます。寛文年間(1661~72)の開創と考えられています。
 大日坂は、大日堂が名前の由来です。

G.大洗堰


『江戸名所図会』目白下大洗堰

Google earthで再現した『江戸名所図会』目白下大洗堰
 神田上水跡の巻石通り(水道通り)をさらに進むと、音羽通りに出ます。江戸川公園前の信号を渡ると、江戸川公園があります。公園の中を神田川に沿って進むと、反対の出口に大滝橋が架かっています。かつてこの付近に、神田川をせき止めて上水を取水するための大洗堰がありました。橋のたもとに区指定史跡・神田上水取水口大洗堰跡の案内板があります。
 神田上水は小石川の水戸藩邸を経て、江戸城内の大名屋敷や神田・日本橋の町屋に給水するための上水道となっていました。大洗堰で分流した残りの水は下水となって、江戸川(神田川)に流されました。

 神田上水は井の頭公園にある井の頭池を水源として、善福寺川、妙正寺川などの水を集めて関口大洗堰に運ばれてきました。案内板には「大正末年には、水質・水量とも悪くなり、昭和8年(1933)に取水口はふさがれた」と書かれています。
 大滝橋の近く、江戸川公園内に、大洗堰を模した当時の取水口の石柱が保存されています。大洗堰は、昭和12年(1937)に行われた江戸川改修で姿を失い、現在、痕跡を残すのはこの石柱だけです。
 『江戸名所図会』の「目白下大洗堰」の絵には茶店が描かれています。『礫川要覧』には、堰の下流は老木が空を覆い、白砂が瀬となり、風景すこぶるよく、夏は避暑によいと書かれています。また『小石川區史』には、納涼と舟遊びと水上での行楽が楽しめたとあり、 庶民の憩いの場であったことがわかります。
 大洗堰のあったあたりは江戸時代から関口と呼ばれていました。堰(関)の落とし口があったことが地名の由来です。神田川を挟んで目白台から江戸川橋にかけての町名は、現在も関口です。

明治期の大洗堰

明治の地図に描かれた大洗堰

大洗堰付近の大滝橋

大洗堰取水口の石柱

H.龍隠庵(関口芭蕉庵)


『江戸名所図会』芭蕉庵・八幡宮・水神宮

Google earthで再現した『江戸名所図会』芭蕉庵・八幡宮・水神宮
 大滝橋から神田川左岸の道を上流に300メートルほど歩くと、関口芭蕉庵の正門があります。芭蕉庵は、延宝5年(1677)からの3年間、俳人の松尾芭蕉が神田上水の水番人をするために、ここ龍隠庵(りゅうげあん)に住んだといわれることに由来します。芭蕉庵は俗称です。
 享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に納められた芭蕉の木像を祀る芭蕉堂、寛延(1748~50)の頃に、白兎園宗瑞、馬光などの俳諧師が、旧跡が失われようとしているのを嘆いて築いた五月雨塚の芭蕉ゆかりの旧跡があります。
 『江戸名所図会』には、龍隠庵のもとは真言宗の安楽寺という寺で、元禄10年(1697)、黄檗宗(おうばくしゅう)に改められて、洞雲寺の持となったと書かれていますが、詳しいことはわかりません。
 龍泉山洞雲寺は同じ黄檗宗の寺院で、現在の目白新坂の坂下付近にありました。大正3年(1914)に移転して、現在は豊島区池袋にあります。
 龍隠庵に五月雨塚が築かれてからは江戸名所の一つとなり、「庵の前には上水の流れ横たはり、南に早稲田の耕田を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄しめ、後には目白の台、聳えたり。月の夕、雪の朝の風光も又備れり」と、『江戸名所図会』は絵とともにその様子を伝えています。
 『江戸名所図会』の絵には、龍隠庵・五月雨塚・芭蕉堂のほか、駒留橋・椿山八幡宮・水神社や神田上水(神田川)・早稲田一帯の風景が描かれています。

関口芭蕉庵正門

五月雨塚。芭蕉の墓碑

芭蕉像が祀られる芭蕉堂


水神社の鳥居

水神社の祠

水神社・八幡宮

 龍隠庵の隣、胸突坂を挟んであるのが水神社です。
 水神社の創建年代はわかっていませんが、江戸中期の『江戸砂子』 に「上水開けてより関口水門の守護神なり」とあり、『江戸名所図会』 に「龍隠庵別當たり。上水の守護神を祀らん為に、北辰妙見大菩薩を安置す。祭神は罔象女(みつはめ)なり」と書かれていることから、神田上水開設から間もない江戸時代初期に、水神を祀ったものと考えられます。
 北辰妙見菩薩は北極星を神格化したもの。罔象女はイザナミの尿から生まれた水神です。
 水神社には、相殿(あいどの)に椿山八幡宮が祀られていました。相殿とは、同じ社殿に2神以上の神を祀ることです。
 椿山八幡宮について、『江戸名所図会』は「往古よりの鎮座といふ」と記し、『江戸砂子』の記述からは、椿山八幡宮の境内に龍隠庵、水神社があるようにも見えます。龍隠庵が洞雲寺の持となった元禄10年(1697)に胸突坂ができていて、何か関係があるのかもしれません。
 『江戸名所図会』には、関口八幡宮(正八幡神社)を上の宮、椿山八幡宮を下の宮としていたとも書かれています。明治以降は水神一座となっています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

寛政期の駒留橋。左上が胸突坂

明治期の駒塚橋。左上が胸突坂

駒留橋(駒塚橋)

 龍隠庵の前を流れる神田川に架かるのが駒留橋(駒塚橋)です。現在の橋は胸突坂から続いていますが、『江戸名所図会』の絵を見ると、龍隠庵よりも下流に架かっているのがわかります。これは、江戸時代の絵図からも確認することができ、明治時代の地図では今よりも100メートルほど下流にありました 。
 大正12年(1923)に現在の場所に木橋が架けられ 、昭和10年、鋼板桁の橋に架け替えられています。 現在は駒塚橋と呼ばれていますが、かつては駒留橋と呼ばれていました。
 『江戸名所図会』には、駒留橋の名称の由来について、馬をとめて川の水を飲ませてやろうとしたという新古今和歌集の歌や、川べりを散策した源頼朝が馬を引き返した場所だからとか、延宝(1673~81)の頃に、畑を荒らす金の駒の精を橋の上で見失ったから、という説が紹介されています。

現在の駒塚橋
 駒は馬のことで、ほかにも駒込の馬市から逃げ出した馬がここで止まるからといった、馬にまつわる説がありますが、もとは駒繋橋で、橋のそばの老松に馬を繋いだからという説もあります。駒塚橋は、駒留橋、駒繋橋が誤って呼ばれたものだといいます。


音羽絵図の松平大炊頭屋敷

カテドラル関口教会

拾穂軒北村季吟翁別荘旧地

 胸突坂を登ると目白通りに出ます。右折すると、目白坂と目白新坂が合流するところ、椿山荘の向かいに大きな教会が建っています。カトリック東京カテドラル関口教会です。
 江戸時代、ここは水戸徳川家の分家で、天和2年(1682)に立藩した常陸宍戸藩・松平大炊頭の上屋敷でしたが、 一角に、幕府歌学方で江戸前期の歌人・俳人だった北村季吟の別荘がありました。歌学方は和歌に関する学問を司る職で、季吟が初代でした。
 北村季吟は寛永元年(1625)、近江に生まれ、俳諧の傍ら『源氏物語』等の古典研究を行い、晩年、幕府歌学方に任命されて江戸に下りました。拾穂軒は季吟の号の一つです。松尾芭蕉の俳諧の師としても知られ、柳沢吉保の別邸・六義園の設計にも参画しました。
 北村季吟の別荘は疏儀荘(そぎそう)と呼ばれ、千坪余りの広さだったと言います。季吟の著書に因んだ山の井という井戸があり、別荘が松平大炊頭の上屋敷に組み込まれてからもあったといいます。季吟がここに住んだのはわずか3か月余りで、宝永2年(1705)、晩年の日記『疏儀荘記』を遺して歿しています。
 疏儀荘のあった場所は、松平大炊頭の上屋敷の北西といわれています。 付近はホトトギスの名所で、
   住つかぬ我宿とはぬ時鳥 もとのあるじを慕ひてや鳴く
の短歌を季吟は残しています。

I.幸神祠(幸神社)


『江戸名所図会』道山幸神社

現在の『江戸名所図会』道山幸神社

幸神社祠
 椿山荘に沿った目白坂の狭い道を行くと、右に幸神社があります。『江戸名所図会』の幸神祠で、道山の幸神、駒塚社ともいわれていました。
 『寺社書上』には、往古、庚申塔があったところに、寛文元年(1661)、幸神を勧請したとあります。
 幸神社の祭神が猿田彦であることから、これと結びつきの強い庚申信仰道祖神と関係しているとして、『新撰東京名所図絵』は幸神とは庚申のことと断じています。
 また『江戸志』は、幸神は猿田彦のことで、この場所に鎌倉街道の枝道があったという言い伝えを紹介しています。 『江戸名所図会』は、道山の名は鎌倉街道に由来するとしていて、幸神祠が道の神を祀っていたのではないかと考えられます。
 「道山幸神社」の絵には、往来する旅人が描かれています。

J.目白不動堂


『江戸名所図会』目白不動堂

Google earthで再現した『江戸名所図会』目白不動堂
 目白坂を下っていくと、正八幡神社(関口八幡宮)の手前に、かつて目白不動堂がありました。真言宗の寺院で、東豊山浄滝院新長谷寺といいました。
 縁起によれば、空海(774~835)作の不動明王像を祀ったのが始まりで、元和4年(1618)、大和長谷寺の秀算僧正が再興、本尊の十一面観音像を移したことから新長谷寺と名づけました。目白不動の名は、寛永(1624~44)の頃に第3代将軍・徳川家光が賜わったといいます。
 目白台にあって江戸川(神田川)を望む景勝の地で、『礫川要覧』には「雪景に於ては、付近これに比すべきものなし」 と書かれています。
 『江戸名所図会』には、「麓には堰口の流れを帯び、水流淙々(そうそう)として日夜に絶ず、早稲田の村落、高田の森林を望み、風光の地なり。境内貸食亭(りょうりや)多く、何れも涯(がけ)に臨めり」と書かれ、「目白不動堂」の絵には、江戸川と早稲田田圃に臨む境内に茶屋・料理屋が並び、賑わっている様子が描かれています。
 堰口は、大洗堰のことです。風光明媚な地であることから文人も訪れ、「目白不動堂」の絵には春台の漢詩が記されています。
 昭和20年、東京大空襲で新長谷寺は全堂宇を焼失し、豊島区高田の神霊山金乗院慈眼寺に合併しました。 金乗院には新長谷寺にあった石仏・石碑などとともに、目白不動尊を祀る不動堂があります。

目白不動堂跡(目白坂の右側)

金乗院にある目白不動尊

新長谷寺から遷された…

金乗院山門前の石仏・石碑

関口にあった頃の目白不動堂


『江戸名所図会』目白坂関口八幡宮

Google earthで再現した『江戸名所図会』目白坂関口八幡宮

正八幡神社

関口八幡宮(正八幡神社)

 目白不動堂跡の先、目白坂の左に大きな鳥居が建っています。正八幡神社で、関口八幡宮とも呼ばれていました。
 由緒は不明ですが、古くより関口の鎮守として祀られ、江戸時代は龍泉山洞雲寺が別当でした。胸突坂にある水神社の相殿だった椿山八幡宮を下の宮と呼んだのに対し、関口八幡宮は上の宮とされていました。

(行程:4km)

ま・めいぞん(坂・グルメ)

諏訪明神 (すわみょうじん)

 長野県諏訪市にある諏訪大社のことで、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)とされます。『古事記』では、国譲りをめぐって高天原の神に敗れ、諏訪湖に逃れて封じられました。創建年代は不詳ですが、日本最古の神社の一つで、古くは湖水の竜神または蛇神を信仰したものだったと考えられています。
 鎌倉時代に諏訪明神を信仰する諏訪氏が武士団を形成、武家社会になると武神として信仰を集めました。戦国時代には武田氏、徳川氏の守護神となりました。
 竜神が風と水を司ることから農耕神としても信仰を集め、水と海の守護神として各地の港に祀られてきました。分社は全国に1万以上あるといわれます。

欲界六天 (よっかいろくてん)

 仏教で、欲望にとらわれる6つの天界のことで、六欲天ともいいます。四天王のすむ第1天、忉利天(とうりてん)の第2天、夜摩天(やまてん)の第3天、兜率天(とそつてん)の第4天、楽変化天(らくへんげてん)の第5天があり、他化自在天の(たけじざいてん)の第6天が欲界の最高位です。

オモダル・アヤカシコネ

 日本神話に登場する神で、オモダルは男神、アヤカシコネは女神です。天地開闢のときに生成したクニノトコタチからイザナギ・イザナミまでの七代の神を神代七代(かみのよななよ)といいますが、その第6代が、ともに誕生したオモダル・アヤカシコネの2柱です。それぞれ『古事記』では、淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、『日本書紀』では、面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)と書かれます。ともに身体と容貌の完備した最初の神です。

平将門 (たいらのまさかど)

 平安時代中期の下総国の武将。承平5年(935)、同族内の領地争いから伯父・国香(くにか)を殺し、一族との抗争を招くことになりました。土豪間の紛争に介入し、武蔵・常陸・上野・下野などに勢力を広げて関東独立を図りましたが、天慶3年(940)、国香の子・平貞盛らに滅ぼされました。

平貞盛 (たいらのさだもり)

 平安時代中期の東国の武将。京に出仕していたときに、父・平国香(たいらのくにか)が従兄弟の平将門に殺されたために常陸国に帰り、叔父・平良兼と戦いましたが敗れました。京に戻ったのち再び東国に下り、天慶3年(940)、下野国の豪族、藤原秀郷の協力を得て将門を討ちました。

道祖神 (どうそじん)

 村境などの道端に祀られる神で、サエノカミ(塞の神)、ドウロクジン(道陸神)、フナドガミ(岐神)などとも呼ばれます。外部からの悪霊や疫病などを遮る民俗神で、陰陽石や石碑、自然石、男女交合する神像など、さまざまなものがあります。
 地蔵や猿田彦と習合したものも多く、厄除け、縁結び、夫婦和合、旅行安全などの信仰の対象ともなっています。

猿田彦 (さるたひこ)

 日本神話に登場する、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の天孫降臨の際に道案内をしたという国つ神(土着の神)です。のち、伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したといわれます。ニニギの道案内をしたことから、道の神・旅人の神とされ、庚申信仰や道祖神信仰と結びつけられるようになりました。

庚申信仰 (こうしんしんこう)

 庚申は干支の「かのえさる」のことです。庚申の日に仏教では帝釈天・青面金剛(しょうめんこんごう)、神道では猿田彦を祀って徹夜をする行事を庚申待(こうしんまち)といいます。
 道教の説では、庚申の夜、体内にいる三尸(さんし)という虫が、人の眠るのを待って天に上り、中国の最高神・天帝に悪事を告げるといいます。悪事を告げられると命を縮められてしまうため、眠らずに徹夜で身を慎むようにしました。この庚申信仰は、日本では平安時代に貴族の間で行われるようになり、室町時代には仏教と結びついて庚申供養塔なども造立されました。
 これが民間に広まり、江戸時代にかけて講組織などで仲間とともに徹夜で祭事を営むようになりました。
 神道の猿田彦とは、猿と庚申の甲(さる)が結びついたと考えられ、庚申塔(庚申供養塔)には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫刻したものが多く見られます。

鎌倉街道 (かまくらかいどう)

 鎌倉幕府開設以来、鎌倉に通じる中世の古道を鎌倉街道、または鎌倉海道と総称しています。 古くは鎌倉往還といいました。主な道に、東海道に沿った京鎌倉往還、武蔵国や下総国を経由して上州・下野・常陸などに向かう、上ノ道・中ノ道・下ノ道が知られていますが、枝道を含めて無数にあったとみられています。『南向茶話』には、雑司ヶ谷法明寺から護国寺、滝野川にかけて、鎌倉街道が通っていたと書かれ、『御府内備考』は関口村の西を鎌倉街道が通っていたと伝えています。

大和長谷寺 (やまとはせでら)

 奈良県桜井市にある、真言宗豊山派総本山の豊山神楽院長谷寺です。草創は8世紀前半と考えられ、神亀4年(727)に十一面観音立像と観音堂を建立したと伝えられています。西国三十三観音霊場第八番礼所として信仰を集め、桜・牡丹の名所として知られています。

春台の漢詩 (しゅんだいのかんし)

 偶乗秋景入山林 盡日曾無俗叓侵 巌下清流堪濯熱 况傾河朔酒杯深  春臺
(たまたま秋景に乗じて山林に入る 尽日かつて俗事を侵すことなし 巌下の清流堪濯として熱く いはんや河朔を傾け酒杯の深からんをや  春台)
 春台は江戸中期の儒学者、太宰春台(1680~1747)と思われます。信濃国飯田藩士の家に生まれましたが、9歳のときに父が浪人となり、江戸に出て学問を修めました。但馬国出石藩、下総国生実藩の出仕の後、36歳で官職を辞し、儒学の学究となり、小石川傳通院に私塾紫芝園を開きました。のち、牛天神に移っています。
 漢詩の前文に、豊山長谷寺に遊んだ際に偶然詠(うた)ができたとあり、大和長谷寺で詠んだものかもしれません。訓下文は、ちくま学芸文庫『新訂江戸名所図会』からの引用です。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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