江戸名所図会

『江戸名所図会』の根津・駒込を歩く

<歴史散歩>『江戸名所図会』根津・駒込コース

 江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。
 寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸末期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
 「巻之五 玉衡之部」には、根津から駒込にかけての寺社などが紹介されています。
 レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。
 『江戸名所図会』で紹介されている、江戸時代の根津・駒込の名所を訪ねながら、「巻之四 天権之部」で取り上げられている白山大権現(白山神社)にも立ち寄ります。

(絵は、嘉永6年(1853)刊行の『本郷絵図』と嘉永7年(1854)刊行の『東都駒込辺絵図』を合成したものです)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>
『江戸名所図会』根津・駒込コース

A.根津権現社(根津神社)


社殿(国重文)
 創建年代は不詳ですが、現在地に鎮座したのは宝永3年(1706)です。それまで、根津神社は千駄木の団子坂上にありました。
 寛文2年(1662)、のちに第6代将軍・
徳川家宣となる綱豊が誕生し、根津神社に御宮参りをしました。このため、根津神社は綱豊の産子神(うぶすがみ)、守護神となりました。
 宝永1年(1704)、綱豊は嫡子のない第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となります。そこで、綱豊の屋敷跡に新たに根津神社を造営することになり、宝永3年(1706)に千駄木より遷座、社領500石を拝領しました。
 社伝によれば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷征定の折に、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったのが根津神社の始まりとされ、文明年間(1469~87)になって、太田道灌がこれを再興したといいます。

『江戸名所図会』根津権現社。中央にあるのが楼門、右が本社と別当。下が門前町で、橋・惣門・料理屋が並ぶ

Google earthで再現した『江戸名所図会』根津権現社
 『江戸名所図会』には、楼門の左、岡の上に観音堂が描かれていますが、現在はありません。創建当時からのこる社殿、唐門、西門、透塀、楼門、銅灯籠が、国重要文化財の指定を受けています。
 楼門の右に、別当と書かれた天台宗の醫王院正運寺昌泉院があります。 別当は神仏習合の時代に、神社を管理した寺です。
 『江戸名所図会』には、「当社境内は仮(つき)山・泉水等をかまへ、草木の花四季を遂(をふ)て絶へず、実(まこと)に遊観の地なり」と説明されています。仮山は築山のことです。江戸時代よりツツジの名所として知られ、戦後に復興されたつつじが岡では、現在も毎年「文京つつじまつり」が開催されています。

楼門(国重文)

透塀(国重文)

唐門(国重文)

つつじが岡

西門(国重文)

銅灯籠(国重文)


根津1丁目交差点の惣門付近

根津遊郭の説明板

本郷絵図の根津権現と門前町
 絵の下には門前町の様子が描かれています。貸食店、料理屋が並ぶ道があり、堀に架かる橋の手前に惣門が描かれています。この道は現在の不忍通りで、橋(相染橋)は現在の根津1丁目交差点にありました。
 門前町には娼家も多くありました。『遊歴雑記』 には、「門前町東西の南側には、売色の茶店軒をつらね、又惣門の内両側には妓楼建ならび、浮れ行く人きぬぎぬを歎く客行あり帰るあり 頗(すこぶ)る繁華の地にして一箇の都会たり」と書かれています。
 天保13年(1842)、綱紀粛正により娼家は吉原に移され、万延元年(1860)の吉原大火のために、一時、根津への仮宅が許されましたが、文久元年(1861)、引き払いとなりました。幕末の慶応4年(1868)、官軍によって根津に遊郭が開設され、娼妓574人を抱えるまでに繁昌しますが、 近くに東京帝國大學が設置されると、風紀を理由に、明治21年(1888)、深川の洲崎に移転させられました。


藍染川が流れていた道
 江戸時代、根津神社の門前町には、整地されて形成された町家とともにいくつかの掘割がありました。このうち、天眼寺・瑞松院の西を南北に流れていたのが藍染川です。この流路は、現在、池之端から台東区との区境に沿って田端方面に続く路地として残っています。
 根津神社から根津神社入口交差点で不忍通りを渡り、根津2丁目33番の角を左に曲がった道が、藍染川です。右は台東区谷中で、旧河川らしく、くねくねとした道になっています。
 根津2丁目35番の向かいが、かつて法住寺のあったところです。

B.普賢山法住寺


法住寺があった付近
 普賢山新幡随院法住寺は浄土宗の寺で、宝暦3年(1753)、豊嶋郡下尾久村にあった法受寺を谷中三崎(やなかさんさき)に移転したものです。 現在の台東区谷中2丁目17~18番付近になりますが、昭和41年(1966)までは谷中三崎町でした。
 関東大震災後、法住寺は浅草の照光山安養寺と合併し、昭和10年(1935)、現在の足立区東伊興に移転しました。現在は法受寺を名乗っています。
 由緒によれば、正暦3年(992)、天台宗の源信によって豊嶋郡下尾久で開創され、文永元年(1264)に浄土宗に改宗したといいます。


『江戸名所図会』三崎法住寺・妙林寺・蛍澤

Google earthで再現した『江戸名所図会』三崎法住寺・妙林寺・蛍澤
 『江戸名所図会』には、法住寺の境内の脇を流れる蜆川(しじみがわ)が描かれています。
 蜆川は藍染川のことで、蜆がとれたことから、そう呼ばれていたのでしょう。上流では谷田川、谷戸川とも呼ばれました。
 藍染川は、古くは石神井川の流路だったといわれます。現在の石神井川は、北区王子から東の荒川に注いでいますが、中世以前の石神井川は、飛鳥山西麓から南に曲がり、田端、千駄木を経て、不忍池に流れ込んでいたと考えられています。不忍池からは、さらに湯島、神田、日本橋に南下して東京湾に流れ込んでいました。

日登山妙林寺

 藍染川を挟んで法住寺の向かいにあったのが、天台宗の日登山妙林寺です。
 『江戸名所図会』には、天文年中(1532~55)、日蓮宗の日秀上人により草創され、正徳年中(1711~15)に天台宗に改められたとあります。『寺社書上』によれば、開山は寛文11年(1671)で、改宗は宝暦6年(1756)です。
 妙林寺の境内には、弁財天・地蔵尊・不動尊がありました。
 現在、妙林寺はありません。古地図からは、明治の初め頃に廃寺になったと推定されます。 昭和10年発行の『下谷區史』には、「今は無い」とだけ書かれています。


妙林寺と蛍澤があった付近

蛍澤

 妙林寺境内にあったのが蛍澤で、『江戸名所図会』にも池のようなものが描かれています。
 蛍澤は谷中に2か所あって、一つが宗林寺の辺り、もう一つが妙林寺境内でした。宗林寺は藍染川の300メートル上流の東、現在の台東区谷中3丁目10番にあります。
 『江戸名所図会』には、「すべて此辺、蛍の光、他に勝れたり」とあり、 藍染川の流れる一帯が蛍の名所だったようです。『江戸砂子』には、宗林寺の蛍澤は蛍川とも呼ばれていたと書かれていて、 『下谷區史』は、蛍川は藍染川の別名だったと説明しています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

C.根津権現旧地


『江戸名所図会』根津権現旧地

Google earthで再現した『江戸名所図会』根津権現旧地

根津権現旧地にある本郷図書館
 藍染川の流れていた道に別れを告げ、西に向かうと東京メトロ千代田線千駄木駅のある団子坂下です。不忍通りを渡り、団子坂を上った坂上北側が、宝永3年(1706)の遷座まで、根津神社があった旧社地です。現在は東洋大学国際会館と本郷図書館などがあります。
 『江戸名所図会』には、「千駄木坂のうへ僅ばかりの地をさしていへり 此近辺芸花園(うえきや)多く庭中四時草木の花絶ず」と書かれています。
 千駄木坂は、団子坂のことです。『江戸名所図会』には、千駄木坂を挟んで、旧社地の反対側に植木屋が描かれています。
 千駄木坂上から旧社地の前を通る道には、動坂道と書かれています。現在の団子坂上から動坂上に抜ける道です。


団子坂(千駄木坂)上より坂下

千駄木坂

 『江戸名所図会』は、「千駄木坂、旧名を潮見坂ともいひ、又七面の宮ある故に七面坂とも号(なづ)くるといへり」と説明し、坂の下に七面宮を描いています。
 七面宮は、日蓮宗の守護神・七面神を祀る神社です。七面神は女神で、七面大明神、七面天女とも呼ばれます。
 現在の呼び名である団子坂は、『御府内備考』に出てきます。
 『御府内備考』には、千駄木坂は団子坂とも呼ばれ、団子を売る茶店があったのが由来だと書かれています。 宝永年間(1704~10)、飴菓子、団子などを売る店ができたのが始まりで、その頃、坂にはまだ家がありませんでした。そののち、ほかにも団子屋が増えていったといいます。
 『町方書上』には、坂の登りおよそ1町、幅2間半と書かれています。長さ109メートル、幅4.5メートルほどになります。
 潮見坂(汐見坂)の名前の由来は、坂上から佃沖が見えたからで、団子坂と呼ばれるようになってからは、団子だけでなく、ほかの食べ物や鉢植えなどを売る店が増えて、坂が繁昌するようになったといいます。
 坂の上から見えた佃は、現在の中央区佃です。江戸時代は東京湾に浮かぶ小さな砂洲でした。
 佃島より内陸にある築地は、江戸時代初期に埋め立てられますが、佃島と地続きになっている月島、勝どきが埋め立てられるのは明治16~29年(1883~1896)のことで、『町方書上』の書かれた文政年間(1818~30)には、佃から先は海でした。
 今は望むべくもありませんが、かつては千駄木坂上から、佃沖の海が眺められたということです。

D.大観音


『江戸名所図会』駒込大観音

現在の『江戸名所図会』駒込大観音
 団子坂上から白山上に向かって行くと、道の右手にある天昌山松翁院光源寺境内に観音堂があります。堂の中に駒込大観音が鎮座しています。
 光源寺は浄土宗の寺院で、天正17年(1589)、神田に創建されました。現在地に移転したのは慶安元年(1648)のことといいます。
 『江戸名所図会』によれば、大観音と呼ばれる十一面観音像が造立されたのは、貞享年中(1684~88)のことで、奈良の長谷寺の十一面観音像を写して、江戸商人・丸吉兵衛が建立したといいます。寺の縁起では、造立は元禄10年(1697)となっています。
 『江戸名所図会』に描かれた観音堂は二階建てで、二階の窓から尊顔を拝めるようになっていたことがわかります。観音像は丈1丈6尺(約5メートル)ありましたが、昭和20年(1945)5月25日の空襲で焼失しました。現在の十一面観音像は平成5年(1993)の再建で、丈6メートルです。

E.大覺山浄心寺


『江戸名所図会』丸山浄心寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』丸山浄心寺

浄心寺跡付近。手前が浄心寺坂
 駒込大観音から向丘の寺町を抜け、本郷通りと中山道を渡ります。白山1丁目の信号から白山下へおりる坂道が浄心寺坂です。かつてこの坂の途中に日蓮宗の寺院、大覺山浄心寺がありました。
 浄心寺は天文19年(1550)の開創で、はじめ麹町平河にありましたが、慶長10年(1605)、江戸城拡張のため神田に移転。その後、再び小石川に移転しました。境内は2,784坪あり、4つの僧房がありましたが、明治維新後に合併されました。
 浄心寺は、白山1丁目36番11号にありますが、地図の上からは昭和10年(1935)代に消えています。

F.白山権現社(白山神社)


『江戸名所図会』小石川白山権現社

Google earthで再現した『江戸名所図会』小石川白山権現社
 浄心寺坂を下り、白山下から薬師坂を上る途中、左に白山神社の参道があります。『江戸名所図会』には、参道の入口に鳥居があり、表門を通って境内に進むように描かれています。
 また、南参道入口には裏門があり、鳥居をくぐって階段を上るようになっています。
 階段を上った先にある旗桜は白旗桜とも呼ばれ、源義家が奥州征伐の時に旗を掲げて祈願したという言い伝えのある老木でしたが、昭和12年(1937)に枯れてしまいました。現在は、本社と八幡神社前に旗櫻記の石碑とともに後継樹が植えられています。
 由緒によれば、白山神社の開創は天暦2年(948)で、加賀国の白山比咩(しらやまひめ)神社を本郷元町、現在の本郷1丁目付近に勧請したのが始まりとされます。文政年間(1818-30)の『寺社書上』には、白山神社の旧地は本郷元町で、祭礼の時に白山神社から遠く離れた本郷元町と本郷竹町に、御旅所(おたびしょ)が設けられたのはこのためだと書かれています。 御旅所は神輿の渡御(とぎょ)を迎えるために置かれる仮宮のことです。
 白山神社は元和2年(1616)に、本郷元町から現在、小石川植物園のある地に遷座します。しかし、慶安4年(1651)に御用地となり、館林藩主・松平徳松(後の第5代将軍・綱吉)の下屋敷が造営されることになって、明暦元年(1655)、現在地の白山5丁目に再び移転します。下屋敷は、白山神社の社地だったことから白山御殿と呼ばれるようになりました。


絵本狂歌山満多山』に描かれた旗桜

八幡神社の後継旗桜と石碑

手水舎脇の旗桜の後継樹
 現在の白山神社は、元禄16年(1703)、享保3年(1718)と二度の火災を経て再建されもので、明治32年(1899)に拝殿の改築、昭和8年(1933)に大改修が行われています。
 境内には、源義家が勧請したと伝えられる旗桜ゆかりの八幡神社、 白山富士と呼ばれる富士塚にある浅間神社があり、6月中旬の浅間神社の祭礼に合わせて「文京あじさいまつり」が開催されます。この期間、ふだんは閉鎖されている富士塚に入ることができます。

白山神社社殿

「あじさいまつり」の浅間神社

ま・めいぞん(坂・グルメ)

G.目赤不動堂


南国寺の目赤不動堂

動坂上の目赤不動堂旧地付近
 薬師坂を上り、白山上から本郷通りを北上すると、左に目赤不動尊で知られる大聖山東朝院南国寺があります。南国寺は天台宗の寺院で、『江戸砂子』によれば、元和年間(1615~24)、比叡山の南谷に住む僧・萬行が、伊賀国赤目山で不動明王の尊像を授かり、下駒込村動坂の辺りに草庵を結び、赤目不動としたのが始まりとされています。寛永年中(1624~45)に第3代将軍・徳川家光が現在の駒込片町に寺地を与え、目黒不動・目白不動に対して目赤不動尊に改めさせたといいます。
 『御府内備考』には、動坂のそばに不動の石像があって、それが目赤不動の旧地だと書かれています。現在の動坂上交差点の西側です。 また動坂の名前の由来は、不動坂の不の字が略されたものだといいます。

H.諏訪山吉祥寺


『江戸名所図会』吉祥寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』吉祥寺
 本郷通りをさらに進むと、右手に旃檀林(せんだんりん)と書かれた扁額の掛かった古い山門が見えてきます。諏訪山吉祥寺の山門で、享和2年(1802)に再建されたものです。
 吉祥寺は長禄年間(1457~60)の創建で、太田道灌が江戸城築城の際に、井戸の中から吉祥増上と書かれた金印または銅印を発見し、これを祀って吉祥庵と名づけたのが始まりとされています。吉祥庵は和田倉門のあたり、諏訪明神の敷地内にあったことから、山号を諏訪山としました。
 大永年間(1521~27)末、曹洞宗の僧・青厳周陽が吉祥寺と改めて開山。天正18年(1590)、徳川家康が江戸入府し、江戸城改築のため、天正19年(1591)、神田山の裾に移転しました。水道橋の北東にある都立工芸高校のあたりと思われます。
 飯田橋から万世橋付近にかけて神田山が開削され、平川(神田川)の流路が現在のようになったのは元和6年(1620)のことです。それまでの平川は小石川から南下し、現在の日本橋川を流れていました。
 新しく掘られた神田川に架橋された橋は、吉祥寺の門前にあったことから、吉祥寺橋と呼ばれました。今の水道橋です。
 しかし、明暦3年(1657)の大火で類焼し、吉祥寺は駒込の地に移ります。
 この明暦の大火では、吉祥寺門前の住人も焼け出されてしまいました。住人たちは、五日市街道沿いの代地に移住し、農地を開墾しました。農民らはその地に吉祥寺村という名前をつけますが、これが現在の武蔵野市吉祥寺の地名の由来となっています。


江戸図屏風』に描かれた神田山の吉祥寺。
川に架かるのが吉祥寺橋と上水懸樋、上方は水戸屋敷
 文禄元年(1592)、神田山の吉祥寺に学林が設立され、会下(えげ)学寮と呼ばれました。会下は、師の僧について修行をすることです。明暦3年(1657)の駒込移転で、会下学寮は旃檀林と命名され、1000名の学僧が学ぶ曹洞宗の大寺院となりました。明治に入り、旃檀林は麻布に移転し、駒澤大学の前身となる曹洞宗大学林専門学本校となります。
 現在の吉祥寺は本堂などの多くが戦災で焼けたために戦後に再建されたものです。 旃檀林の扁額の掛かる山門は、『江戸名所図会』にある惣門です。「表門の内、左右並木の桜は其昔、公(おおやけ)より植させられ、今も春時爛漫たり」と書かれています。
 参道を進んだ右手に、鐘楼と文化元年(1804)再建の旃檀林の経蔵があります。 本堂に向かっての境内は今も広く、『江戸名所図会』に描かれた往時を偲ばせます。

山門

往時を再現する参道の桜

経蔵

I.駒込神明宮(天祖神社)


『江戸名所図会』駒込神明宮

Google earthで再現した『江戸名所図会』駒込神明宮
 吉祥寺からさらに本郷通りを進み、文京九中入口の信号を右に曲がります。区立第九中学校前の道を進んだ突当りに、江戸時代に駒込神明宮と呼ばれていた、駒込天祖神社があります。
 『江戸名所図会』には、岩槻街道(本郷通り)から鳥居まで、両側が芝の一本道と、その先に森に囲まれた本社が描かれ、静かな農村風景が広がっています。
 由緒では、文治5年(1189)、源頼朝が奥州征伐の際の霊夢によって神明宮を勧請したと伝えられます。神明宮は、天照大神を祭神とする伊勢神宮の分霊を祀った神社です。天照大神は天皇の祖先とされることから、天祖といい、神明宮は天祖神社とも呼ばれます。
 駒込神明宮は、創建の後、廃れて神木の下に小祠があるだけでしたが、慶安(1648~52)の頃に再興されたと伝えられています。
 昭和20年(1945)2月25日の空襲で社殿を焼失しましたが、昭和29年に再建されました。

駒込天祖神社

ま・めいぞん(坂・グルメ)

J.冨士浅間社(富士神社)


『江戸名所図会』冨士浅間社

Google earthで再現した『江戸名所図会』冨士浅間社

駒込冨士神社
 天祖神社の前を左に折れ、バス通りを左に曲がって進むと、駒込富士神社があります。鳥居をくぐると、正面に駒込富士と呼ばれる富士塚があり、階段を上ると社殿があります。
 富士塚は富士神社古墳と呼ばれる前方後円墳で、延文年間(1356~60)に富士大神を祀っていたといわれます。
 一般にいわれるところでは、天正2年(1574)、本郷に勧請された富士権現が、元和2~3年(1617~8)の頃、前田家の屋敷地となったため、寛永5年(1628)に駒込に遷座し、もとあった神社と合祀したといいます。 本郷の富士神社は、現在の東京大学構内、赤門を入った右手の富士塚、椿山古墳にありました。旧跡は、赤門総合研究棟となっています。
 現在の駒込富士神社の社殿は、戦災で焼失したものを昭和36年(1971)に再建したものです。


『江戸名所図会』六月朔日 冨士詣

現在の『江戸名所図会』六月朔日 冨士詣

 『江戸名所図会』の冨士浅間社には、「六月朔日 富士詣」と題された、もう1枚の画があります。境内の祭礼の様子が描かれていて、「前夜より詣人(けいじん)多く甚(はなはだ)賑へり。此日、麥藁(むぎわら)細工の蛇ならびに團扇(うちわ)、五色の網などを鬻(ひさ)ぐ」と説明されています。
 冨士浅間社の祭神はコノハナサクヤヒメで、木花咲耶姫・木花之佐久夜毘売などの字が充てられますが、富士山を神格化した富士大神(浅間大神)と同一視されています。六月朔日(さくじつ)は6月1日のことで、霊峰・富士の礼拝登山の始まる山開きの日であったことから、富士浅間神社の祭礼となっていました。
 旧暦6月1日のこの祭礼は、現在は6月30日~7月2日に行われていて、『江戸名所図会』の絵のように境内は露店で賑わいます。麥藁細工の蛇も、神竜という名の御守として売られています。

麥藁細工の蛇
 麥藁細工の蛇について、江戸時代後期の『江戸塵拾』は、宝永(1704~10)の頃に、喜八という百姓が作って祭礼で売り始めたもので、珍しいので人々が買い求めたと書いています。その年の秋、江戸に疫病が流行りましたが、この麥藁蛇を持っていた家は1軒も病気にならず、その後、疫病除けとして、富士浅間社の祭礼の名産品になったといいます。
 江戸庶民に富士信仰が広まるきっかけを作ったのは、長谷川角行という修験道の行者でした。天和6年(1620)に、護符を授けて江戸の疫病を救ったと伝えられており、麦藁細工の蛇もこの古事にあやかったものかもしれません。

(行程:4km)

徳川家宣(とくがわいえのぶ)

 第6代将軍。寛文2年(1662)、第3代将軍・徳川家光の三男の甲府藩主・徳川綱重の長男として生まれました。庶子のため家臣・新見正信に養育されますが、綱重に世継ぎがなかったことから、寛文10年(1670)、綱重の嗣子となります。元服して綱豊となり、延宝6年(1678)、家督を継ぎます。
 宝永1年(1704)、第5代将軍・綱吉に嫡子がいなかったために綱吉の養嗣子となり、名を家宣と改めて、宝永6年(1709)、将軍職を継ぎました。正徳2年(1712)歿。

太田道灌(おおたどうかん)

 室町時代の武将で、永享4年(1432)に生まれました。上杉定正の家宰(家長補佐)となり、康生2年~長禄元年(1456~57)頃、江戸城を築城しました。
 軍法にすぐれ、従兄弟・長尾景春の乱を鎮圧して、父・資清とともに扇谷上杉氏の実権を握りますが、文明18年(1486)、主君・定正の糟谷(神奈川県伊勢原市)の館で謀殺されました。文人としても知られ、数多くの逸話も残りますが、真偽は定かではありません。

源義家(みなもとのよしいえ)

 平安時代後期の武将で、長暦3年(1039)に生まれました。京都の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎を名乗りました。
 永承6年(1051)からの前九年の役に父・源頼義にしたがって参戦以来、数々の戦乱に勝利し、永保3年(1083)、陸奥守兼鎮守府将軍となりました。戦功により武士の信望を集め、東国における源氏の勢力の基盤を築きましたが、朝廷の警戒も招き、嘉承1年(1106)に歿しました。

絵本狂歌山満多山(えほんきょうかやままたやま)

 葛飾北斎による狂歌絵本で、享和4年(1804)に蔦屋重三郎により刊行されました。白山神社のほか、市谷八幡、王子稲荷、飛鳥山、護国寺などの江戸名所を、人々の風俗を交えて描いています。

江戸図屏風

 江戸時代初期の江戸市中と川越・鴻巣などの近郊を描いた六曲一双の屏風図です。制作年代は不詳ですが、第3代将軍・徳川家光(慶長9年~慶安4年、1604~51)の事蹟と、明暦3年(1657)の大火以前の江戸の様子が描かれた貴重な史料となっています。

長谷川角行(はせがわかくぎょう)

 天文10年(1541)生まれ。諸国を遍歴し、富士山山麓の人穴で苦行を重ねて霊力を得たという修験道の行者で、永禄6年(1563)に角行を名乗りました。
 生涯は伝説に包まれています。元亀3年(1572)に初めて富士登山をし、天和6年(1620)、人穴を訪れた江戸の者に風先侎(ふせぎ)を授け、江戸で流行っていた病を治したといいます。これをきっかけに弟子とともに江戸で布教し、多くの病人を救いました。
 これにより江戸に富士信仰が広まり、のちに富士講へと発展したことから、富士講の開祖とされています。富士の人穴に戻り、正保3年(1646)に没したといわれます。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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