江戸名所図会

『江戸名所図会』の大塚・雑司ヶ谷を歩く

<歴史散歩>『江戸名所図会』大塚・雑司ヶ谷コース

 江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。
 寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸後期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
 「巻之四 天権之部」には、大塚から音羽・雑司ヶ谷にかけての寺などが紹介されています。
 レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。
 『江戸名所図会』で紹介されている、江戸時代の大塚・音羽の名所を巡り、弦巻川沿いに雑司ヶ谷にも足を延ばします。

(下は、嘉永6年(1853)刊行の『雑司ヶ谷音羽絵図』です)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>
『江戸名所図会』大塚・雑司ヶ谷コース

A.本傳寺


『江戸名所図会』大塚本傳寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』大塚本傳寺
 大法山本傳寺は、静岡県蓮永寺末の日蓮宗の寺院で、春日通りと不忍通りが交わる大塚3丁目交差点近く、不忍通り沿いにあります。
 元和年中(1615~24)の開創とされますが、『江戸名所絵図』には、昔は禅宗で重光山善性寺といい、元和年間に改宗して、寺号を本傳寺と改めたと書かれています。寺中に圓殊院、通玄院、万祥坊があり、通玄院は波切不動の別当でした。
 波切不動堂は、江戸時代には大塚3丁目交差点付近の大塚仲町にありましたが、明治末から大正頃に現在の本傳寺境内に移転しています。

本傳寺・本堂


『江戸名所図会』波切不動堂

Google earthで再現した『江戸名所図会』波切不動堂

波切不動尊

 本傳寺境内にある波切不動堂は、明治まで大塚3丁目交差点付近にありました。
 明治43年(1910)に傳通院・大塚窪町間の路面電車、東京鉄道・大塚線が開通したのを皮切りに、大塚駅前までの延伸、大正10年(1921)には駕篭町・大塚仲町間の東京市電・護国寺線の開通、護国寺前までの延伸があり、道路拡張の際に、波切不動堂を本傳寺境内に移転したものと考えられます。
 大塚窪町と大塚仲町はのちに都電・大塚三丁目、駕篭町は都電・千石一丁目になりますが、昭和56年(1971)にいずれも廃止になっています。
 明治末期の地図からは、現在の小石川消防署大塚出張所に隣接する三井住友銀行大塚支店の敷地に波切不動尊があったことがわかります。
 本傳寺寺中の重高山通玄院持で、波切不動尊と同じ敷地にありました。明治43年(1910)の『礫川要覧』には、通玄院の堂宇と連なっていたと書かれています。

波切不動があった付近

本傳寺境内の波切不動堂

明治31年(1898)の波切不動(中央)
 波切不動尊の由来については諸説あり、寛延4年(1751)の『南向茶話』は、大塚と巣鴨の双方から霧が並びことから竝霧(なみきり)というようになり、これが波切になったといいます。
 また、本傳寺の縁起書によれば、建長年間(1249~56)、宗祖が伊勢国の小幡川(現在の宮川)に水が溢れて渡れずにいたところ、老翁が現れて宗祖を導いて渡してくれたといいます。小幡の山寺に来ると不動尊が水に濡れていて、川を渡してくれた老翁が霊験であったことを知ります。山寺の僧は不動尊を背負って宗祖の跡を追い東国に赴き、富士見塚(現在の大塚)の農家に宿泊しますが、翌朝、尊像が重くて動かせなくなり、ここに安置したといいます。これが波切不動尊です。 宗祖について、『江戸名所図会』は日蓮(1222~82)としています。
 また、後年、江戸城主の太田某がこの不動尊を篤く信仰していましたが、三浦から海を渡る際、嵐に遭遇しました。祈念したところ、不動尊が舳に現れて波を切ってくれたことから、波切不動といわれるようになったともいいます。
 ほかに、火災があった時に関口の川(江戸川、現在の神田川)に入って本尊を火から守ったことから波切不動尊といわれるようになったという説もあります。
 『江戸名所図会』の絵からは、門前に茶店などが並んで賑わっている様子が窺えます。


大慈寺があった付近

大塚公園にある庚申塔

嘉永7年(1854)の大慈寺(右上)

大慈寺

 大塚3丁目交差点から春日通りを東京メトロ丸ノ内線・新大塚駅方面に進んだ右、東邦音楽大学附属東邦高等学校のあたりに臨済宗の寺院、普門山天寿院大慈寺がありました。
 鎌倉から室町時代にかけての開山で、寛永年中(1624~45)に中興したといいます。『江戸名所図会』は、千姫の侍女・刑部卿局を開基としています。
 大慈寺は明治中頃に廃寺となりましたが、小石川仏教会編の『小石川の寺院』によれば、大塚公園にある庚申塔が大慈寺にあったものだといいます。
 一方、大塚公園にある大塚上辻地蔵講の説明板には、大塚5丁目9番の路傍に300年前からあったものだと書かれています。大塚公園は新大塚駅の手前、春日通りの右側にあります。

B.鳩巣室先生之墓(大塚先儒墓所)


大塚先儒墓所

室鳩巣の墓

東京名所圖會に描かれた大塚先儒墓所
 大塚公園から春日通りを渡り、崖を降りて大塚坂下通りから1本西にある路地を南に進むと、吹上稲荷神社の手前右に大塚先儒墓所への入口があります。門扉には鍵が掛かっていますが、吹上稲荷神社社務所で申し込んで墓所内を見学することができます。
 大塚先儒墓所は、徳川幕府に仕えた儒学者たちの墓地で、家族を含め64基の墓があります。
 もとは幕府の馬を捨てたところで、御厩畠、馬棄場と呼ばれていましたが、延宝(1673~81)頃、林羅山の門人で水戸藩の儒学者だった人見道生(ひとみどうせい)の屋敷だったともいいます。林羅山は、徳川家康以下四代の将軍に仕えた儒学者で、昌平坂学問所のもととなる私塾を上野に開いています。昌平坂学問所は江戸幕府直轄の学問所で、現在の史跡・湯島聖堂です。
 人見道生が亡くなり、敷地に葬ったのが先儒墓所の始まりで、享保19年(1734)に室鳩巣(むろきゅうそう)をはじめ、寛政の三博士と呼ばれた柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(おかだかんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)らの儒学者が葬られ、儒者捨場と呼ばれるようになりました。
 儒教では、神道や仏教のような葬儀を行わず、遺体を埋葬するだけだったので、このように呼ばれました。
 明治維新後、昌平坂学問所が廃止され、先儒墓所も荒廃しましたが、明治後期になって保存運動が起き、大正3年(1914)、史跡に指定されました。
 室鳩巣の墓は、先儒墓所の奥に妻と並んであります。鳩巣は号で、名を直清といいます。江戸谷中に生れ、朱子学の大家として加賀藩に勤めたのち、幕府の儒官となり、第8代将軍・徳川吉宗を補佐しました。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

C.護持院


『江戸名所図会』大塚護持院

Google earthで再現した『江戸名所図会』大塚護持院

江戸白銀町の知足院(右下)。左が日本橋と一石橋

神田橋御門外の護持院(中央・濠の右)。左上が江戸城
 大塚先儒墓所から不忍通りに出て、富士見坂を下ると、右に豊島岡墓地の大きな門があります。ここは、かつて豊島ヶ岡御陵と呼ばれ、明治以降の皇族専用の墓地となっています。
 江戸時代は護国寺領で、ここに筑波山護持院がありました。
 護持院は、明治元年(1868)に廃止され、明治6年(1873)、明治天皇第一皇子死産により、その墓所として召上げられました。この時、それまで権現山と呼ばれていた丘陵を豊島岡に改めました。
 護国寺境内に護持院ができるのは享保2年(1717)のことで、それ以前は神田橋御門と一ツ橋御門の外、現在の神田錦町3丁目付近にありました。
 護持院の前身は、徳川家康の庇護を受けて中興された常陸国の真言宗の寺、知足院で、慶長15年(1610)、知足院の僧、光誉が江戸白銀町(現在の千代田区岩本町付近)に寺地を拝領して、江戸知足院を開基したことに始まるといわれます。光誉は大和国長谷寺の出身で、常陸国知足院に入山後、江戸常府と江戸城護持の祈禱を命じられました。
 天和2年(1682)に火災に遭い、貞享元年(1684)、湯島切通に移転しますが、第5代将軍・徳川綱吉の信仰篤く、元禄元年(1688)、神田橋御門外に移されて大伽藍を建設、寺領1500石の筑波山護持院元禄寺に改められます。 護持院は綱吉と生母・桂昌院の厚い庇護を受け、隆盛を極めますが、享保2年(1717)、類焼により全焼。住持退隠の願いにより、第8代将軍・徳川吉宗は護国寺に寺号と食禄を賜い、護国寺本坊に護持院が入ることになりました。
 このため護国寺は本堂を観音堂に移しますが、『江戸名所図会』からも、江戸城護持の祈願所として本坊に入った護持院の権勢が窺えます。 明治維新の廃仏毀釈で護持院は廃寺となりますが、筑波山の護持院(徳川綱吉の時に知足院を改称)も維新後、廃寺となっています。
 神田橋御門外の土地は、火災後、火除地となり、護持院ヶ原と呼ばれましたが、維新後、学習院などの学校敷地となりました。

豊島岡墓地正面

護持院があった付近*

*の写真は、平成16年11月、三笠宮崇仁親王墓所の一般参拝の際に撮影したものです。


D.護国寺


『江戸名所図会』護国寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』護国寺
 神齢山悉地院護国寺は豊島岡墓地に接して西にあります。
 天和元年(1681)、第5代将軍・徳川綱吉が生母・桂昌院の頼みにより建てた寺院で、大和国長谷寺末、真言宗豊山派の大本山です。
 綱吉は、上野国碓氷八幡宮別当大聖護国寺の住持、亮賢に命じて、高田御薬園に大聖護国寺を建立、寺領300石を与えました。 高田御薬園は現在の護国寺周辺で、江戸初期の地図から薬園があったことが確かめられます。
 元禄7年(1694)に300石を加増、同10年(1697)に観音堂を造営し100石を加増、同16年(1703)に500石を加増し、併せて1200石の大伽藍を構成し、将軍祈願所として御府内屈指の巨刹となります。
 享保5年(1720)には、焼失した神田橋門外の護持院を本坊に迎え、護国寺は観音堂に移って、両寺併せて2700石に拡大します。

江戸初期。右に御薬種畑(御薬園)、左が小日向


『江戸名所図会』護国寺全景(合成)。右から、護持院・護国寺・本浄寺

惣門

富士塚

西國三十三所寫石標

仁王門

『江戸名所図会』内の富士
 『江戸名所図会』で護国寺境内の全体図を見ると、護持院の正面に惣門があり、護国寺本堂(観音堂)の正面に仁王門があります。両門とも現存していて、元禄年間建築の惣門には「護国寺」と書かれた扁額、元禄以降に建てられた仁王門には「神齢山」の扁額が掲げられています。
 惣門を入ると、左に小池があり、右手へ流れる川を渡る橋がありました。 まっすぐ進むと護持院本坊で、明治元年(1868)の護持院廃止後は、護国寺に復しましたが、明治16年(1883)の失火で焼失しました。
 仁王門を入り、参道を進むと石段があります。明治43年(1910)発行の『礫川要覧』には、石段の手前、銅製水盤の右に築山の富士があると書かれています。現在もある富士塚です。「一合毎に護講社若しくはう組等と記したる石表を建つ、山脚に胎内くぐりとて洞窟を穿てり山下に池あり、東門(惣門)の池も通ず」と書かれています。『江戸名所図会』には、護国寺境内西国札所写三十三所観音の図の最後に、弁天の池の近くに富士が描かれていますが、もとは境内の西にあったのかもしれません。
 また、西国札所写三十三所観音について、『礫川要覧』は、石段の上左に「西國三十三所寫さんけいみち」と刻した石標があるが、三十三所を模したものは残っていないと書いています。 『江戸名所図会』には、本堂より西の山間にあり、四季の花々が人々の目を楽しませたとあり、石段の上から左にありました。 石標は現在、本堂裏に移されています。

『江戸名所図会』護國寺境内西國札所寫三十三所觀音の圖(合成)。左の方に富士が描かれている


大師堂(旧薬師堂)

薬師堂(旧経堂)

今宮神社(音羽1丁目)

鐘楼

本堂(観音堂)

月光殿(重文はこの裏の建物)
 石段を上った右奥には、大師堂が描かれています。護国寺草創時の本堂でしたが、大正15年(1926)の火災で焼失してしまいました。現在ある大師堂は、本堂左にあった薬師堂を移築したもので、元禄14年(1701)のものです。
 大師堂のすぐ上には、江戸中期建築の鐘楼があります。梵鐘は護国寺創建翌年の元和2年(1682)に寄進されたものです。
 『江戸名所図会』には、石段を上った左に経堂が描かれています。大正15年(1926)の火災で大師堂に薬師堂を移築したことから、代わりに経堂を薬師堂として本堂の左に移築しました。元禄4年(1691)の建築です。
 石段を上り切った正面奥にあるのが、本堂の観音堂です。元禄10年(1697)の建立で、国重要文化財に指定されています。
 『江戸名所図会』には、本堂の裏手に今宮神社が描かれています。由緒によれば、元禄10年(1697)、桂昌院が京都柴野今宮神社から分霊したといわれ、伊勢神宮・八幡神社・春日大社・今宮神社・熊野大社の5つを祀っていることから、今宮五社と呼ばれました。門前町の鎮守だったといいます。
 今宮神社は、小日向神社に合祀されて移転した田中八幡神社の跡、音羽1丁目1番に、明治6年(1873)、遷座しています。

 仁王門の西には現在、日本大学豊山中学校・豊山高等学校があります。明治36年(1903)年に護国寺によって開校された豊山中学校が前身で、昭和29年(1954)に日本大学付属になりました。
 さらにその西には、文京区立青柳小学校などの公共施設と墓地がありますが、明治になって陸軍省埋葬御用地となったものです。
 また現在、本堂西にある国重要文化財の月光殿は、昭和3年(1928)に品川御殿山から移築したものです。もとは近江国の三井寺(園城寺)の塔中、日光院の客殿だったもので、桃山時代の建築です。

ま・めいぞん(坂・グルメ)


『雑司ヶ谷音羽絵図』に描かれた護国寺門前町

現在の護国寺門前
 護国寺門前には、南北に門前町がありました。嘉永6年(1853)の音羽絵図には、仁王門前から神田上水にかけての通りの両側に、音羽町1丁目から9丁目までが並んで描かれています。神田上水端には櫻木町、護国寺に沿った通りには、東青柳町と西青柳町がありました。
 『御府内備考』によると、元禄10年(1697)、江戸城の音羽・青柳・桜木という3人の奥女中が、護国寺領に幕府より町家を拝領し、その名が町名になったといいます。
 また、『江戸名所図会』は、求凉亭(酒井忠昌)いわくとして、京都の清水寺を写して門前を音羽町・青柳町・桜木町と名づけ、京の1条から9条までと同じように音羽町を1丁目から9丁目までとし、昔の本堂には清水寺同様に舞台を設けたと書いています。
 清水寺の山号は音羽で、寺の縁起について語る能『田村』には、音羽の滝、緑の青柳、そして桜木の花の名所が詠われています。
 護国寺門前の南北に伸びる町屋は、東西を小日向台と目白台に挟まれた、鶴巻川と水窪川沿いに造られました。町名から音羽谷と呼ばれますが、町屋が形成される以前は鼠ヶ谷と呼ばれていたといいます。小日向台から音羽谷に下る急坂に鼠坂がありますが、これと関連があるかもしれません。
 護国寺門前町は江戸有数の岡場所として繁栄しました。享保8年(1723)、私娼取締りによって茶屋が取り払われますが、文化・天保(1804~45)の頃には、音羽町7丁目から9丁目は再び岡場所として隆盛を極めます。しかし、天保13年(1842)に廃止となってからは寂れたといいます。

E.星谷の井旧地


星谷と呼ばれた首都高の走る谷
 護国寺前から不忍通りを西に進むと、護国寺の丘に沿って右にカーブする首都高速道路池袋線の高架のある道路とに分かれます。この道が、星谷の井のあった護国寺の西の谷です。
 『江戸名所図会』には、この谷は星谷(ほしやと)と呼ばれていて、かつて星祭を執り行う行者がいたと書かれています。星祭は星供(ほしく)とも呼ばれ、災いを除くために北斗七星などの星々を供養する法会のことで、真言宗では正月・冬至・節分に行われます。
 星谷の西にある本浄寺の裏に、星産と呼ばれる塚があり、その傍らの旱魃にも枯れることのない湧水が、星谷の井だったといいます。しかし、『江戸名所図会』の頃には、埋もれてわずかに痕跡を残すだけでした。
 明治43年(1910)の『礫川要覧』には「今は、その故蹟も詳ならざるを遺憾す」とあり、『江戸名所図会』に書かれた本浄寺の裏という以外に手掛かりはありません。
 『江戸名所図会』には、埋れた湧水の跡には、符水・薬水を求める人がいて、湧水の下流に星谷橋が架かっていたと書かれていることから、寛政(1789~1801)から天保(1831~45)の頃には、本浄寺の東を川が流れていたと思われます。本浄寺のある谷の西側は崖地で、崖崩れや洪水によって星谷の井が埋れてしまったのかもしれません。


『江戸名所図会』本浄寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』本浄寺

本浄寺

 本浄寺は、『江戸名所図会』に「護国寺の西、小篠坂(こしのざか)にあり」と書かれています。小篠坂(こざさざか)は、首都高速道路池袋線の高架のある道路のことで、この道路を挟んだ護国寺墓地の向かいに本浄寺があります。本堂は、階段を上った丘の上です。
 『江戸名所図会』は山号を大野山としていますが、現在は真要山と称しています。日蓮宗の寺院で、開基は日要上人(1575~1623)、宝永3年(1706)に谷中より移ったといいます。

本浄寺

F.鬼子母神出現所(清土鬼子母神)


清土鬼子母神

星の井

『江戸名所図会』清土星の清水

Google earthで再現した『江戸名所図会』清土星の清水
 本浄寺の南、路地の入り組んだ一角に、清土(せいど)鬼子母神があります。
 雑司ヶ谷鬼子母神に祀られている鬼子母神像が発掘されたと伝えられている地で、境内にはお堂と、鬼子母神像を浄めたとされる星の清水のあたりに三角の井戸、星の井(星の清水)があります。
 縁起によれば、永禄4年(1561)、土地の者が池水に星が現れたのを見て、その地を掘ったところ、鬼子母神像が現れたといいます。像は東陽坊に納められ、天正6年(1578)、稲荷社があった地に建てられた草庵に安置されました。これが雑司ヶ谷にある鬼子母神堂です。
 東陽坊はのちに大行院となり、鬼子母神の別当となりますが、その後、法明寺に合併しました。
 清土鬼子母神は、現在、日蓮宗の寺院、法明寺の境外堂です。
 『江戸名所図会』の絵に描かれている水流は弦巻川で、境内の西、文京区と豊島区の区界を流れていました。鳥居、祠とともに、三角に井桁を組んだ星の清水が描かれています。

G.清立院(清龍院)


『江戸名所図会』清立院・日親堂・請雨松・實城寺

Google earth再現『江戸名所図会』清立院・日親堂・請雨松・實城寺

清立院
 清土鬼子母神の北の道、かつての弦巻川に沿って道なりに西に進むと、大きく右にカーブします。商店街を通り抜けて住宅街に入ると、右手の雑司ヶ谷霊園の西端、丘の上に御嶽山清立院(せいりゅういん)があります。
 正長元年(1428)の創立と伝えられ、もとは真言宗でしたが、法華を勧請、日蓮宗の寺院となったといいます。
 『江戸名所図会』には、日親(1407~88)の影像を祀った日親堂とともに堂前に請雨松(あまごいのまつ)が描かれています。本尊・日蓮(1222~82)の影像に霊験があり、旱魃のときに農民たちが集まって雨乞いをしたといいます。


宝城寺

宝城寺

 清立院の西の坂を挟んで、不動山宝城寺があります。同じ日蓮宗の寺院で、創立は天正(1573~93)か寛永(1624~45)の頃とされています。元禄15年(1702)に牛込原町から移転しました。

H.本納寺


本納寺
 宝城寺から再び、かつての弦巻川に沿った道に戻り、都電荒川線の踏切を渡ると、左に大鳥神社があります。境内を抜けた西にあるのが、日蓮宗の寺院、妙永山本納寺です。
 慶安3年(1650)の草創で、かつては法明寺の末寺でした。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

I.雑司ヶ谷鬼子母神堂


『江戸名所図会』法明寺・雑司谷鬼子母神堂

Google earthで再現した『江戸名所図会』法明寺・雑司谷鬼子母神堂

雑司ヶ谷鬼子母神
 本納寺門前の道を西に進むと、雑司ヶ谷鬼子母神堂があります。本堂から北にある日蓮宗・法明寺の境外堂で、目白台にある清土鬼子母神で発掘されたと伝えられる、木像鬼子母神像を勧請仏としています。
 鬼子母神堂の建立は天正6年(1578)。鬼子母神像が最初に納められた東陽坊、のちの大行院が別当となりましたが、その後、法明寺が大行院を合併して今に至っています。現在の本殿は、寛文4年(1664)に建立され、天明8年(1788)、本殿背面に妙見堂が建立されました。 本堂は平成28年(2016)に国重要文化財の指定を受けました。

妙見堂

石像仁王尊

武芳稲荷

都電荒川線近くにある大鳥神社

上川口屋

銀杏(大公孫樹)
 境内の武芳稲荷(たけよしいなり)の近くにある銀杏の木は樹齢700年と伝えられる古木で、子授け銀杏と呼ばれていました。
 参道から境内に入った左右に石像の仁王が立っています。『江戸名所図会』の絵にも、本堂正面の鳥居近くに石二王、左手に稲荷の祠が描かれています。石像仁王尊(石二王)は、和田戸山(新宿区戸山公園付近)にあった盛南山という寺から遷されたといいます。
 稲荷の祠は、『江戸名所図会』には稲荷明神祠と書かれ、天照太神宮と八幡太神宮を合祭、祭神は地主神(土地の神)だとしています。絵からは武芳稲荷がこれにあたりますが、縁起には、この地に鬼子母神堂が建立される以前から、稲荷の社跡があった森だったと書かれています。
 『江戸名所図会』の本堂右手に描かれているのは、鷺明神の祠です。明治維新後、神仏分離令により境内を出て欅並木の料亭敷地内に仮遷座。大鳥神社と改称して、明治20年(1887)、本納寺の向かいにある現在地に遷りました。鷺明神の勧請は正徳2年(1712)、疱瘡の守護神とされました。

明治末の大門通り(欅並木)

大門通り(欅並木)
 本堂前の参道には、創業1781年と書かれた看板の下がる駄菓子屋があります。天明元年創業の川口屋で、屋号をめぐるトラブルから、現在は上川口屋となっています。『江戸名所図会』には、同じ場所に飴屋と書かれた川口屋が描かれています。
 鬼子母神前から鉤型に南に曲がる欅並木の大門通りは、今も昔と変わりません。『江戸名所図会』には、「門前両側に酒肉店(りょうりや)多し。飴をもて此地の産とし、川口屋と称するものを本元とす。その家号を称ふるもの、いま多し」と記し、川口屋の飴は、風車、麦藁細工の獅子とともに、この地の名産だとしています。

『江戸名所図会』雑司谷の会式詣

雑司ヶ谷の御会式で、鬼子母神堂に参詣する人たち
 『江戸名所図会』には、鬼子母神の年中行事が書かれています。このうち、10月8日の会式詣(えしきもうで)は現在も行われていて、10月16~18日の3日間、御会式と呼ばれる大祭となっています。
 御会式は、日蓮宗の各寺で日蓮の忌日、10月13日を中心に営まれる法会で、鬼子母神の本坊である法明寺で行われます。『江戸名所図会』には、鬼子母神での会式詣は10月8~16日まで行われ、最近では23日まで参詣があると書かれています。
 『江戸名所図会』には、会式詣で賑わう本堂の様子が描かれています。群衆の正面には機関木偶(からくりにんぎょう)等の飾り物が設けられ、日蓮の生涯を見世物仕立てにしています。
 小日向水道端・本法寺寺中、廓然寺の住職であった十方庵敬順は、『遊歴雑記』の中で、会式の間、日蓮の事蹟を人形に仕立て、山川・家宅・寺社・国々の模様を作るために、本尊等を片付けて堂内を飾り立て、山川・渓谷・樹木・人形をからくりの仕掛けで動かしているが、その仕方は河原の見世物と変わらないと批判しています。日蓮の人形をもてあそび、僧坊を貸座敷にして財貨を貪り、見物人は手すりによって仕掛けの善し悪しを論じて、題目のひとつ唱える者さえいないと嘆いています。

『江戸名所図会』蕎麦細工の獅子

鬼子母神参道の観光案内所。麦藁細工角兵衛獅子が飾られている

麦藁細工の角兵衛獅子*

名産品だった風車*
 もう1枚には、門前で麦藁細工の角兵衛獅子が売られている様子が描かれています。
 この角兵衛獅子には、高田四ツ谷町に住む貧しい娘が、母に孝行ができるよう鬼子母神に祈願し、麦藁で角兵衛獅子を作ったところ、参詣客におおいに売れて、母を養うことができるようになったという謂れがあります。

*写真は、豊島区在住の郷土史家・矢島勝昭氏が、史料を基に江戸時代の麦藁細工の角兵衛獅子と風車を再現したものです。


J.法明寺


法明寺

鐘楼
 鬼子母神の本坊、威光山法明寺は、鬼子母神の境内から北に進んだところにあります。
 弘仁元年(810)の開創といわれる古刹で、真言宗威光寺を名乗っていました。正和元年(1312)、日蓮宗に改宗し、威光山法明寺に寺号を改めたと伝えられます。
 法明寺は、昭和20年(1945)に戦災で全山焼失し、戦後に再建されています。境内には、本堂・祖師堂(安国堂)・鐘楼・山門がありますが、梵鐘は寛永21年(1644)鋳造、享保17年(1732)再鋳で、縁に、曲尺、桝、天秤、算盤などの度量衡が描かれています。
 本妙寺の門前にある、真乗院・蓮光院・玄静院・観静院はいずれも寺中にあった塔頭で、法明寺は多くの支院を擁した大寺でした。


嘉永7年(1854)の大行院(上中)・蓮成寺(上右)

雑司ヶ谷を流れる弦巻川。左上が池袋、右下が護国寺

大行院

 『江戸名所図会』には、鬼子母神別当の大行院(だいぎょういん)についても書かれています。
 大行院が廃寺になった時期は不明ですが、江戸から明治にかけての地図 、明治23年(1890)の小川尚栄堂『東京名所図絵』には、大行院の記載があります。
 古地図から、大行院は豊島区立南池袋小学校にあったと思われます。

蓮成寺

 大行院の東には、法明寺の13世日延上人が開創した蓮成寺(れんじょうじ)がありました。古地図から、東京音楽大学に隣接する法明寺墓地付近にあったと思われます。
 蓮成寺は、明治28年(1895)、山形県朝日町に移転しています。

弦巻川

 法明寺前を流れる弦巻川は、池袋駅西口・元池袋史跡公園付近に源を発し、南流して弦巻通りを流れ、雑司ヶ谷の崖を削りながら、清土鬼子母神、護国寺を経て、目白台の東を高速道路に沿って流れ、江戸川橋付近で江戸川(神田川)に注いでいました。
 古は、布引川とも呼ばれたと『江戸名所図会』に書かれています。

大行院があった付近

蓮成寺があった付近

弦巻川跡の弦巻通り(雑司ヶ谷)

(行程:3km)

ま・めいぞん(坂・グルメ)

刑部卿局 (ぎょうぶきょうのつぼね)

 慶長8年(1603)に7歳で豊臣秀頼に嫁いだ第2代将軍・徳川秀忠の長女・千姫の侍女で、慶長20年(1615)の大坂城落城の際に千姫に付き添って徳川本陣に送り届けました。その後も、長く千姫の老女として仕えました。

林羅山 (はやしらざん)

 江戸初期の儒学者。天正11年(1583)京都に生れ、13歳で建仁寺に入り、儒教と仏教を学び、朱子学に傾倒、慶長12年(1607)に徳川家康に召し抱えられました。幕府の儒官として法令の制定や文書の起草、典礼の整備に努め、朱子学が幕府の官学となる基を築きました。
 寛永7年(1630)、第3代将軍・家光から上野忍ヶ丘に土地を拝領し、私塾・文庫と孔子廟を建てますが、明暦3年(1657)の大火で焼失し、失意して4日後に病没しました。

符水・薬水 (ふうすい・やくすい)

 符水は守り札とともに神に供えられた水で、霊力があるとされ、病気を治す時に用いられました。薬水も同じように霊水で、病気が治り長寿を得るという生命の水です。

十方庵敬順 (じっぽうあんけいじゅん)

 江戸時代後期の茶人で、文化年間(1804~18)に『遊歴雑誌』を著しました。本名は津田敬順、大浄、宗知とも呼ばれます。津田氏は織田信長の縁戚とされ、三河国本法寺に入り、代々、廓然寺を継いできたといいます。宝永2年(1705)、本法寺とともに廓然寺も江戸・小日向に移転します。
 敬順は本所に生れ、11歳で相模国江の島に旅し、天明元年(1781)茶道を学んで道を究め、琵琶を学ぶなど多芸多才であったといいます。また、茶人として各地を巡り、文化8年(1811)、51歳の時、子に寺務を譲って隠棲し、『遊歴雑誌』を著します。
 『遊歴雑誌』は、江戸周辺の名所旧跡を踏査した紀行文で、5編1000章からなっています。

(文・構成) 七会静

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