文京 歴史散歩

文京区内の富士山を歩く

<歴史散歩>文京富士見 富士塚コース

 富士山は、2013年にユネスコの世界遺産に登録されましたが、文京区内にも富士山があります。
 富士山の世界遺産登録は、「富士山─信仰の対象と芸術の源泉」という名称の文化遺産で、文京区内にある富士山も、「信仰の対象」に関係したものです。
 富士山の信仰の歴史は古代に遡りますが、江戸時代になって江戸を中心に富士講と呼ばれる富士信仰が広まり、各地に富士山を模した塚、富士塚が造られ、信仰の対象となりました。
 中でも本郷・駒込は富士講が盛んだった地域で、富士講の中興の祖と呼ばれる行者・食行身禄が活動した拠点でもありました。
 文京区内では3つの富士塚が知られ、富士山を祀る富士浅間神社や身禄ゆかりの地など、富士信仰の跡を辿ることができます。

(写真は、文京シビックセンターからの富士山の眺めです)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>文京富士見・富士塚コース

A.本郷・富士神社


本郷・富士神社
 本郷3丁目の交差点から春日通りを湯島天神方面に100メートルほど行くと、ビルに挟まれて文京区本郷七丁目遊び場があります。この細長い敷地の奥にある、小さな祠が富士神社です。
 この一画は、昭和40年までは本富士町と呼ばれていました。江戸時代は加賀藩邸内で、本富士町となったのは明治5年のことです。町名の由来については「駒込富士の元地であったから」と、昭和6年の本郷區勢要覧は記しています。
 加賀藩主・前田利常が本郷に屋敷地を拝領したのは元和2~3年(1617~8)の頃といわれます。
 寛文2年(1662)に浅井了意が著した『江戸名所記』 には、駒込富士神社の神は本郷から来たもので、本郷が前田家の下屋敷となったので駒込に遷座したと書かれています。これが本郷區勢要覧の「駒込富士の元地」の意味です。


江戸名所記に描かれた山頂の富士社

明治期の赤門。右奥の森が椿山

東京帝大構内図。赤門(右下)の奥に椿山が描かれている

 『江戸名所記』によれば、その神は本郷に百年ばかりあったということですから、縁起は室町時代に遡るのかもしれません。
 「かの所に小さき山あり。山の上に大なる木あり。その木のもとに六月朔日に大雪ふりつもる。諸人、この木のもとに立寄れば、かならず祟りあり。この故に人みなおそれて、木のもとに小社(ほこら)をつくり、時ならぬ大雪のふりける故をもって、富士権現を勧請申けり」と由緒について書いています。
 六月朔日は旧暦6月1日です。富士権現は静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間神社のことで、祭神は木花之佐久夜毘売(木花開耶姫)、またの名を浅間大神ともいいます。
 それからは毎年6月1日には、貴賤や上下を問わずに参詣するようになり、前田家の屋敷となってからも6月1日には老若群集した、といいます。
 小山は、昭和39年(1964)まで、赤門を入ってすぐ右手の赤門総合研究棟の場所にありました。 加賀藩邸の絵図にも富士山と記されていますが、 もともとは遺跡で椿山古墳と呼ばれています。
 文政8年(1825)の随筆集『兎園小説』によれば、大雪が降ったのは慶長8年(1603)のこととされていますが、駒込・富士神社の由緒によれば、起立は天正2年(1574)となっています。


嘉永7年奉納の手水鉢

富士浅間大神の石碑
 現在、本郷7丁目に富士神社がある場所は、江戸時代は盲長屋と呼ばれた加賀藩士の住居でした。 明治になって本富士町となり、長屋は町家となります。その後、赤門付近にあった社が移されて富士神社が創られたものと思われますが、詳しいことは不明です。
 富士神社には嘉永7年(1854)に奉納された手水鉢があり、もとは加賀藩邸内の富士社にあったものと思われます。
 また、南長家一同による大正10年6月の献碑があり、発起人に長屋住人と思われる明治商業銀行本郷支店の人々が名を連ねています。明治商業銀行は明治29~大正12年に存在した銀行で、この頃に現在の神社が造営されたのかもしれません。
 祠の右には、富士浅間大神と書かれた石が建っています。富士権現の祭神、木花之佐久夜毘売です。

B.願行寺


願行寺門前

不動堂隣の富士講碑
 東京大学本郷キャンパスに沿って北に上がると、門の内側に椿山古墳のあった赤門があります。本郷通りをさらに北上し、東京大学正門、農学部正門を過ぎ、右に路地を入って地震研究所に向かった左が願行寺です。天和2年(1682)の火事により、馬喰町より移転した浄土宗の寺院です。
 願行寺山門をくぐると正面に不動堂があり、その右手に富士講の石碑が建っています。駒込・谷中の講社によって嘉永2年(1849)に建立されたものです。
 富士講は、富士山を信仰する人たちによって組織された団体、講社のことです。富士信仰は山の神を崇拝する山岳信仰で、中世の修験道が始まりと考えられています。富士講の開祖は江戸初期の修験道の行者、長谷川角行で、富士の人穴(洞穴)で修行したといわれます。
 江戸時代、富士講は江戸や関東で広まり、代参人が講員を代表して富士山に登り、参拝をしました。願行寺にある石碑は、この時に奉納された記念碑で、富士山を象った笠印が刻まれているのが富士講碑の特徴です。

C.海蔵寺


海蔵寺門前

食行身禄の墓所
 願行寺門前の道を北上し、日本医大前交差点から郁文館夢学園西の道を進んでいくと、曹洞宗の寺院、海蔵寺があります。寺社書上には天文元年(1632)駒込本村に起立とされ、享保3年(1718)に火災で焼失したため、現在地に移転したと書かれています。
 富士講の中興の祖で、享保18年(1733)に富士山7合目5勺の石室で入定した行者・身禄の墓があり、分骨・埋葬されたといわれています。富士山を象った溶岩の山上に墓碑があります。

D.駒込・富士神社


駒込・富士神社

駒込富士の石碑
 海蔵寺から本郷通りに出て、東京メトロ南北線本駒込駅、吉祥寺門前と北上を続けると富士神社入口の交差点があります。すぐ東にあるのが駒込富士神社です。
 社伝によれば、創建年月は不詳ですが、延文年間(1356~61)には、すでに富士塚と呼ばれていたといいます。天正2年(1574)に本郷に創建された富士社が、寛永5~6年(1628~9)に加賀藩前田家の下屋敷となったために、この地に遷されて合祀したと伝えています。
 富士塚は、富士神社古墳と呼ばれる遺跡で、全長45メートル、高さ5.5メートルの前方後円墳だったのではないかと考えられています。
 昭和12年の『本郷區史』は、『東京府神社明細帳』『東京通志』を引用して、この地にはもともと富士大神(浅間大神)を祀った富士塚があって、寛永5年(1628)に本郷の前田家下屋敷内にあった富士神社をこの地に遷して、これと合祀したとしています。


江戸名所図会に描かれた富士詣の賑わい
 鳥居を入ると正面に富士塚があり、参道の急な階段の上に昭和36年(1971)に再建された社殿があります。参道の両側にはいくつもの富士講碑が建っていて、元禄・享保・寛政・文政・明治などの元号が刻まれています。また、谷中・根津・舩松町と書かれた講社もあり、近在だけでなく江戸市中からの参詣があったことがわかります。
 このことは『江戸砂子』『江戸名所図会』などにも書かれていて、6月1日の祭礼には参詣の人々が群集したといいます。6月1日は登山参拝の開山日で、駒込富士神社では新暦となった現在、6月30日~7月2日に開山祭を開いています。また、閉山祭に相当する鎮火祭が8月28~29日に行われます。


火消の富士講碑

人穴を模した洞穴
 駒込富士神社の祭神・木花之佐久夜毘売(木花開耶姫)は、富士山の噴火を鎮める水の神であることから、町火消の信仰を集めました。参道脇の富士講碑には、駒込から巣鴨・池之端にかけての「九番組」、千駄木周辺の「れ組」や、纏(まとい)を描いたものが並んでいて、火消の信仰の厚さが窺われます。
 また、「加州」と書かれた富士講碑があります。これは、合祀された本郷の富士社のあった前田藩の大名火消、加賀鳶が奉納したものです。富士塚の中腹には人穴を模した洞穴も見えます。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

E.白山富士


白山富士

富士塚の祠

白山神社内の富士講碑
 本郷通りから本駒込2丁目の住宅街を抜け、中山道を越えて東洋大学白山キャンパス南門前の路地を南に入ると、白山公園の向かいに、黒い金網の柵に囲まれた小山があります。白山富士と呼ばれる富士塚です。
 由緒によれば、白山神社の創建は天暦2年(948)ですが、現在地に遷座したのは明暦元年(1655)のことです。冨士浅間神社については、寺社書上に、古来、小さな祠があったのを文化13年(1816)に富士講信者が再建して、高さ3丈(約9.1m)の山上に安置したと記されています。
 その後、浅間神社は再び廃れて白山神社に合祀されましたが、昭和51年(1976)に復興され、紫陽花を植えて造園しました。
 富士塚のある浅間神社境内には普段、立ち入ることができません。しかし、6月に開かれる白山神社あじさい祭りの期間中だけ公開され、浅間神社を参詣することができます。奇しくも、旧暦の富士登山参拝山開きの時期と一致しています。
 富士塚は白山神社境内の一画にありますが、裏側の白山神社社務所の隅にはわずかに富士講碑が残っていて、近くの指ヶ谷の講社が奉納したものがあります。

F.御殿坂(富士見坂)


御殿坂。右手が富士山の方角

大坂(御殿坂)について書かれた新編江戸志
 白山神社から薬師坂を下り、白山通りの白山下交差点を渡って蓮花寺坂を上ると白山台です。続いて東京大学附属小石川植物園の脇を小石川谷に下る御殿坂となりますが、この坂はその昔、富士見坂とも呼ばれていました。
 『新編江戸志』には、「享保の頃までは、此坂の向ふに富士見ゆるゆへに富士見坂といふを、世木立茂りて、富士など見ゆるべきにあらず」とあり、富士山が見えたのは享保(1716~35)頃までで、それからは森の陰になって見えなくなったとあります。
 谷を挟んだ小石川台には、高層マンションも立ち並び、富士山を見ることができません。かつて富士山が見えたのは、坂下よりやや右手、播磨坂の方角です。

G.藤坂(富士坂)


藤坂。富士山は坂下の方角
 御殿坂を下り、千川通りを渡ると小石川台に登る播磨坂があります。坂を上り、小石川五丁目交差点で春日通りを越えると、急な下り坂の細道があります。藤坂です。
 藤坂の名前の由来は、坂下に藤寺と呼ばれる伝明寺があることで、境内には藤棚があります 。坂上から富士山が望まれたことから、富士坂ともいわれました。
 富士山はほほ坂下の方角ですが、建物の陰になって見えません。

H.大塚・富士見坂


富士見坂。富士山は坂下の方角
 春日通りを茗荷谷駅方面に向かい、跡見学園、お茶の水女子大学の前を通り過ぎると、大塚三丁目交差点に出ます。ここから、不忍通りを護国寺に向かって下るのが富士見坂です。
 富士山は坂下の方角で、近年まで見ることができましたが、現在は建物のために見えなくなっています。

I.音羽富士


護国寺境内にある音羽富士

参道にある富士講碑

人穴を模した洞穴

山頂の石造りの祠

江戸名所図会に描かれた護国寺境内の富士山
 富士見坂を下り、右にある護国寺の仁王門をくぐると、石段の右手に鳥居が見えます。その先にある森が、音羽富士と呼ばれる富士塚です。
 富士道と書かれた道を上っていくと、頂上に富士浅間神社と書かれた碑と小さな石造りの祠があります。山の斜面にはたくさんの富士講碑が並べられていて、富坂町・水道町・巣鴨・牛込・市ヶ谷・麹町・谷中などの講社や、音羽から牛込にかけての「う組」の町火消のものがあります。
 奉納された石碑からは、富士塚が文化14年(1817)に再建されたことを窺わせます。1合目の上には 人穴を模した洞穴が造られていて、中の壁に祭神の木花之佐久夜毘売が描かれています。

(行程:8km)
(文・構成) 七会静

富士講(ふじこう)

 富士山南麓の人穴で修行をした長谷川角行を開祖とする、富士山を信仰する一派です。農民や町人で講社を組織しましたが、江戸中期以降、江戸・関東周辺で爆発的に広まりました。
 幕府が、キリシタン禁制のための宗門改、檀家制度により宗教統制を行ったことで、民衆は形骸化した仏教などの既成宗教を離れ、富士講などの民衆宗教が人気を集めるようになりました。
 富士信仰は自然崇拝と修験道を始まりとする山岳信仰で、富士講の信徒たちは江戸八百八町や各地に講社を作り、代表者を立てて富士山を登山参拝しました。また、富士山を模した富士塚を造り、浅間神社を祀って参詣しました。
 富士講が隆盛すると幕府は取り締まりを強化し、講社を禁止したり、修験者による祈祷などを禁止したりました。
 明治になると修験道廃止令もあって富士講は次第に衰退しましたが、現在でも活動を続けている講社もあります。

長谷川角行(はせがわかくぎょう)

 天文10年(1541)生まれ。諸国を遍歴し、富士山山麓の人穴で苦行を重ねて霊力を得たという修験道の行者で、永禄6年(1563)に角行を名乗りました。
 生涯は伝説に包まれています。元亀3年(1572)に初めて富士登山をし、天和6年(1620)、人穴を訪れた江戸の者に風先侎(ふせぎ)を授け、江戸で流行っていた病を治したといいます。これをきっかけに弟子とともに江戸で布教し、多くの病人を救いました。
 これにより江戸に富士信仰が広まり、のちに富士講へと発展したことから、富士講の開祖とされています。富士の人穴に戻り、正保3年(1646)に没したといわれます。

食行身禄(じきぎょうみろく)

 寛文11年(1671)生まれ。本名は伊藤伊兵衛といい、伊勢国一志郡に生まれ、13歳で江戸に出ました。富士行者・月行の弟子となり、元禄元年(1688)、富士に初登山しました。
 油商・呉服商などで成功し、財を成しましたが、晩年、全財産を使用人や親類に分け与え、一介の油売りの行商人となって布教に専念しました。
 享保17年(1732)の大飢饉で入定を決意し、翌年7月に富士山7合目5勺の烏帽子岩の岩窪で断食に入りました。身禄入定は江戸で大評判となり、身禄派の富士講が飛躍的に広まることになりました。

人穴(ひとあな)

 火山の麓に溶岩流によって造られる洞穴で、富士山にある「富士の人穴」が有名です。
 富士の人穴は『吾妻鏡』に登場し、浅間大菩薩(浅間大神)の御在所だという古老の話が出てきます。また、富士講の開祖、長谷川角行が修行したことでも知られます。
 溶岩によってできた洞穴の壁は岩の突起が多く、人間の体内のように見えることから人穴と呼ばれています。
 富士山麓には富士の人穴と同じような溶岩洞窟が多数あり、胎内めぐりと称して富士登山をする富士講の講員が訪れたといいます。そうした洞穴には、富士山の祭神、浅間大神である木花之佐久夜毘売(木花開耶姫)が祀られています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

ページ
トップ

コース
ガイド