文京 歴史散歩

八百屋お七の足跡を訪ねる

<歴史散歩>八百屋お七コース

 恋人の吉三郎逢いたさに、火の見櫓に上って半鐘を鳴らす──歌舞伎や浄瑠璃で有名な八百屋お七は、実在の人物といわれています。
 舞台となるのは本郷から駒込にかけて、実話は歌舞伎や浄瑠璃とは少々違っていて、火の見櫓には上りません。恋人逢いたさに放火をして、火あぶりの刑となっています。
 お七が火刑となったのは旧暦の天和3(1683)年3月29日のことといわれ、事件直後の貞享年間(1684~87)に書かれた作者不詳の『天和笑委集』、3年後の貞享3年(1686)に出版された井原西鶴の『好色五人女』、歌学者・戸田茂睡の延宝8年(1680)~元禄15年(1702)の日記『御当代記』、74年後の宝暦7年(1757)に書かれた講釈師・馬場文耕の『近世江都著聞集』に事件のことが触れられています。
 わかっているのは、本郷・駒込界隈でお七という娘が放火をして天和3(1683)年3月に晒されたということだけです。
 放火の動機は、年末の大火で焼け出されて寺に避難したところ、そこで出逢った若者に恋い焦がれてしまい、再び火事になれば寺で逢えると考えて、自らの手で放火をしてしまったという切ない娘心。重罪を犯したお七は鈴ヶ森で火あぶりの刑となり、江戸庶民の同情をおおいに買ったというのが、一般にいわれていることです。
 お七は八百屋の娘とされますが、お七の住まいや大火の火元、恋人の名前、避難先の寺などについては、『天和笑委集』『好色五人女』『近世江都著聞集』でそれぞれに異なっていて、本当のことはよくわかっていません。

(図は、月岡芳年の錦絵『松竹梅湯嶋掛額』に描かれた、八百屋お七の火の見櫓の場面です)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>八百屋お七コース

A.吉祥寺


駒込吉祥寺の門前
 都立駒込病院の裏手、東京メトロ南北線本駒込駅の北にある曹洞宗の寺院で、創建は長禄2年(1458)と伝えられます。
 太田道灌が江戸城築城の際、土中より吉祥増上と刻印された金印を得て、和田倉門内に吉祥庵を創建したのが始まりで、天正19年に神田台に移転したと寺社書上に書かれています。神田台は本郷1丁目から後楽1丁目にかけてといわれます。
 吉祥寺は明暦3年(1657)の大火で焼失し、再び現在の本駒込3丁目に移転しました。当時、学寮30軒、塔頭5寺、衆徒1700人余りという大伽藍で、現在も広大な敷地を有しています。
 学寮の一つが駒澤大学の前身となる旃檀林(せんだんりん)で、由緒のある寺ですが、井原西鶴の『好色五人女』巻四「戀草からけし八百屋物語」で、お七が吉三郎と出会うのが、ここ駒込吉祥寺です。


戀草からけし八百屋物語の該当箇所
二人の出会いは次のように書かれています。

この人火元ちかづけば母親につき添 年比頼をかけし旦那寺 駒込の吉祥寺といへるに行て 當座の難をしのぎける (略)やごとなき若衆の銀の毛貫片手に左の人さし指に有かなきかのとげの立けるも心にかゝると 暮方の障子をひらき身をなやみおはしけるを母人見かね給ひ ぬきまゐらせんとその毛貫を取て暫なやみ給へども 老眼のさだかならず見付る事かたくて氣毒なる有さま お七見しより我なら目時の目にてぬかん物をと思ひながら近寄かねてたゝずむうちに 母人よび給ひて是をぬきてまゐらせよとのよしうれし
(お七は火の手が近づいたので、母親に付き添ってかねがね帰依していた檀那寺、駒込の吉祥寺に行って当座の難をしのいだ。(略)上品な若衆が銀の毛抜きを手にして、左の人差し指の小さなとげが気になる、と夕暮れに障子を開けて苦労しているのをお七の母が見かね、抜いてあげましょう、と毛抜きを取ってしばらく苦心したが、老眼でよく見えない困った様子をお七が見て、私ならよく見える目で抜いてあげられるのに、と思いながら、近寄りかねて佇んでいると、母が呼んだ。これを抜いてあげなさい、と言われて嬉しかった)


比翼塚の碑
 檀那寺は菩提寺のこと、納所坊主(なっしょぼうず)は、寺の会計・庶務に当たる僧のことです。吉祥寺の境内を入った左には、「お七 吉三郎 比翼塚」の碑が建っています。

 吉祥寺の門前は本郷通りです。江戸時代には日光街道の脇街道として、将軍が日光東照宮に参拝するのに使われたことから、日光御成道と呼ばれました。本郷追分で中山道から分かれ、埼玉県の幸手宿で日光街道と合流しました。岩槻街道とも呼ばれます。

B.駒込土物店跡の碑


駒込土物店跡の碑
 岩槻街道を本郷に向かって戻ると、東京メトロ南北線本駒込駅付近の天栄寺の門前に、「駒込土物店跡」と「江戸三大青物市場遺跡」の二つの碑が建っています。江戸時代、駒込は神田、千住とともに江戸三大市場のひとつでした。
 かつて駒込一帯は百姓地で、江戸時代初期、この地にあったサイカチの木の下で近郊の農民が青物市を開いたのが始まりといわれます。 土物とは土のついたままの根菜類のことで、土物が多かったことから駒込の青物市場は土物店(つちものだな)と呼ばれました。

 お七は本郷にある八百屋の娘とされていますが、おそらく駒込土物店で仕入れた野菜を売っていたのでしょう。実際には八百屋の娘ではなかったとしても、駒込土物店が近いことから家業を八百屋としたのかもしれません。
 青物市場は明治以降も続きましたが、昭和12年(1937)、巣鴨の豊島青果市場に移転しました。

C.円乗寺


円乗寺参道。左が地蔵堂
 岩槻街道から中山道への道を抜け、白山上から薬師坂を下り、坂下から浄真寺坂に入ったすぐ左が参道入口です。
 天正9年(1581)の創建と伝えられる天台宗の寺で、江戸三十三観音第11番札所になっています。参道入口には「八百屋お七墓所」と書かれた石碑と地蔵堂があり、参道正面にある本堂の左手に八百屋お七の墓があります。
 円乗寺は、八百屋お七の死から74年経った宝暦7年(1757)に書かれた、講釈師・馬場文耕の『近世江都著聞集』に登場します。

近世江都著聞集の該当箇所
お七 生年は寛文八年十月なりと 公の留め書に見へたり お七 十四歳の春二月 この時 天和元年也とかや 丸山本妙寺と云寺より出火して本郷辺 駒込辺 一宇も不レ残消失に及けり 此節八百屋太郎兵衛も延焼に及けるに小石川圓乗寺は太郎兵衛現在の弟肉縁なれば 親子三人其儘圓乗寺へ行て 爰に落着けり (略)此寺に滞留中 お七はこゝろならずも互に相見る事の日を添て 山田がとりなり 稲舟のいなにはあらぬ恋の山 ふとおもひ初て 人目の関を忍びつゝ ぬる夜の数の重りて いつしかわりなき中となりにけり

(お七の生年は寛文八年十月だと公文書に見える。お七が十四歳の春の二月、この時、天和元年だったという。丸山本妙寺という寺より出火して、本郷と駒込あたりは一軒残らず焼失してしまった。この折、八百屋太郎兵衛の家も類焼したため、小石川圓乗寺が太郎兵衛の弟の血縁だったので、親子三人で圓乗寺に行き、ここに落ち着いた。(略)この寺に滞在中、お七は知らず知らず互いを目にし、日が経つにつれて山田のなりふりに、稲舟のいな〔否〕ではない恋心がうず高く積もって、すぐに恋しはじめ、厳しい人の目をかいくぐって夜の逢瀬を重ね、いつしか深い仲となったということだ)

 『近世江都著聞集』によれば、火事で焼け出されたお七の一家が避難したのは駒込吉祥寺ではなく小石川円乗寺で、お七は小姓の山田左兵衛と出会って恋に落ちたといいます。
 馬場文耕は、八百屋お七の実話を知る人はいないとして、火付改の中山勘解由の文庫にあった日記を見せてもらって書いた、これこそが実説だと主張していますが、約40年前に歿している老中・土井利勝が登場するなど、信憑性には疑問が持たれています。


八百屋お七の墓
 円乗寺にはお七の墓石が3基並んでいて、中央は古い供養塔、右はお七を演じた歌舞伎役者の岩井半四郎が寛政年中に建てたもの、左は270回忌に町内有志によって建立された供養塔で、妙栄禅定尼の戒名が刻まれています。
『近世江都著聞集』には、円乗寺にすでにお七の石碑と秋月妙栄禅定尼の苔むした塚(墓)があり、近年狂言の役者が回向供養していると書かれていますので、宝暦7年(1757)にはすでに中央の供養塔があり、4代目岩井半四郎が歌舞伎でお七を演じ、円乗寺に墓参りをしていたことがわかります。
 円乗寺が、天和の大火でお七の一家が避難した寺であったかどうかはわかりませんが、お七の菩提寺となっていたことは確かなようです。

 寛政年間は1789~1801年で、4代目岩井半四郎は1800年に歿しています。寛政年中の供養塔について、立札には「寛政(1793)年 初代岩井半四郎建立 百十二回忌供養塔」と書かれています。お七の命日は旧暦の天和3(1683)年3月29日とされ、112回忌は寛政6年(1794)になりますので、立札によればその前年に供養塔が建てられたということになります。
 なお、初代岩井半四郎は上方歌舞伎の人で元禄12年(1699)に歿していますので、立札の記載は誤りと思われます。あるいは、4代目岩井半四郎が岩井家初の女形だったので、そのことを指しているのかもしれません。
 町内有志によって供養塔が建てられた270回忌は、昭和27年(1952)でした。

D.大円寺


大円寺山門

ほうろく地蔵
 浄真寺坂を上り、中山道を渡って白山上方面に戻りながら、右に道を入ると金龍山と書かれた赤い山門が見えます。慶長2年(1957)に創建された曹洞宗の寺で、山門をくぐると正面に八百屋お七ゆかりの焙烙(ほうろく)地蔵があります。
 江戸時代前期の歌学者・戸田茂睡の日記『御当代記』の天和3年(1683)の項に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて、廿日時分よりさらされし也」という記述があります。
 これに先立って、師走から正月にかけて付け火が多発し、早期発見のために火の見鐘楼を一町に2つずつ設け、火付改の中山勘解由父子を中心に取り締まり、避難路を確保するために大八車や地車、車長持の使用を禁止したと書かれています。

 八百屋お七の一家が焼け出されたのは、天和2年(1682)12月28日の火事といわれています。天和の大火、俗にお七火事ともいわれ、この火元となったのが駒込大円寺です。
 大円寺の焙烙地蔵は、天和の大火に関連してお七を供養するために建立されたもので、享保4年(1719)に寄進されたと伝えられています。焙烙は素焼きの土鍋のことですが、古くは中国・殷の火刑のことを焙烙(ほうらく)と呼んでいました。
 大円寺は江戸三十三観音第23番札所ともなっています。

E.セウセン井ン跡


セウセン井ン(正泉院)があった付近
 八百屋お七の事件直後の貞享年間(1684~88)に書かれた作者不詳の『天和笑委集』 には、12月28日の火事で家を失った一家は正仙院という寺に身を寄せたと書かれています。

極月廿八日の類火に、家を失ひける故、としの始に立寄べき宿もあらず、しばしが内かねてたのみ参らせたりし、正仙院といへる御寺に立越え、身の難儀を語り、偏に頼おもふよしを云、住持安く請て一間をあたへ、いつ迄も是に有て、世間しづかならんとき、家地に歸(帰)り給へと、いたつてたのもしくもてなし、くるしき心露なかりし故、ばんじをわすれ打とけ居たりし、爰に此寺の内に生田庄之介と云て、住寺てうあいの美少年あり (略)七がすがたをほの見そめしより、つかの間も忘れやらず、おきふし立居に思ひあこがれ、よそめのいとまだにあれば、物かげよりさしのぞきながめかし


新板江戸外絵図のセウセン井ン(左下)。右が北

江戸方角安見図鑑の正泉院(左端)。右が北

 正仙院で庄之介を見そめたお七は、新しく普請した家に戻ってから庄之介逢いたさに放火をしますが、この寺がどこにあったのかは不明です。ただ、天和2年(1682)の大火の約10年前の寛文11~13年(1671~73)に刊行された新板江戸外絵図には岩槻街道沿いにセウセン井ンがあり、天和の大火の直前の延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑、直後の元禄2年(1689)の江戸図鑑綱目には正泉院があることから、この寺が『天和笑委集』にいう正仙院なのかもしれません。

 大円寺から裏手の道を岩槻街道に抜けて本郷に向かうと、東側に十方寺、長元寺、浄心寺と江戸前期の地図に見える寺院が続きます。古地図に当てはめますと、正泉院があったのは浄心寺の南の辺りになります。

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F.願行寺


願行寺門前

本郷追分のバス停

願行寺について書かれた寺社書上
 岩槻街道をさらに南下すると、中山道と合流する本郷追分です。追分の手前には、岩槻街道沿いに都営バスの本郷追分停留所があり、唯一、本郷追分の名を残しています。
 このバス停の手前から東に入る道を抜けると、東京大学地震研究所の通りに出ます。これを南に進むと明応3年(1494)開山の浄土宗の古刹があります。
『近世江都著聞集』には、お七の父、八百屋太郎兵衛は願行寺門前に八百屋を営んでいたと書かれています。しかし、『寺社書上』の願行寺の説明には、天和2年12月28日の火事で類焼したために馬喰町から駒込に移ってきたと書かれており、この火事以前に八百屋を願行寺門前に構えていたとする『近世江都著聞集』の記述は矛盾しています。


本郷追分。正面が高崎屋

追分一里塚跡の説明板
 願行寺門前を過ぎて、再び岩槻街道に戻ると、本郷追分の分岐に宝暦年間(1754~64)から続く酒屋の老舗・高崎屋があります。
 高崎屋の角を中山道に入ったところに追分一里塚跡の案内板があります。一里塚は中山道の起点、日本橋から一里の距離にあることを示します。

G.本郷森川宿


森川宿があった付近

森川町の説明板

江戸前期地図の森川宿
 本郷追分から南、中山道に沿った西側に本郷森川宿がありました。
 お七の家が本郷にあったことは、馬場文耕の『近世江都著聞集』と井原西鶴の『好色五人女』に書かれていますが、『天和笑委集』によれば、お七の父、八百屋市左衛門は森川宿で乾物青物を商っていたといいます。
 森川宿は明治になって周辺の地域を集めて森川町となりますが、昭和40年(1965)の住居表示法で消滅しました。


組屋敷のあった付近

江戸方角安見図鑑の中山勘解由組屋敷(右)。右が北
 森川宿の岩槻街道を挟んだ向かいには御先手組の与力・同心の組屋敷がありました。延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑には当時、火付改の中山勘解由の組屋敷だったことが記されています。

H.本妙寺跡


本妙寺があった付近

本妙寺坂上から菊坂、本妙寺跡方面
 森川宿から南は本郷です。住宅街の入り組んだ道を南に進んだ本郷5丁目16番付近に、かつて本妙寺がありました。本妙寺は、明暦3年(1657)の大火、いわゆる振袖火事の伝承で知られる法華宗の寺です。
 八百屋お七の一家が焼け出された火事について、井原西鶴の『好色五人女』には火元は書かれていません。『天和笑委集』には12月28日の火事と書かれていますが、火元は明らかではありません。
 馬場文耕の『近世江都著聞集』では、火元は丸山本妙寺とされています。丸山は付近の地名です。

 一般に八百屋お七の一家が焼け出された火事は、天和2年(1682)12月28日の天和の大火と考えられています。ところが天和元年(1681)12月28日にも火事があって、この火元は丸山本妙寺だといわれています。 『近世江都著聞集』に書かれているのは、あるいは天和元年の火事のことかもしれません。
 本妙寺は、明治43年(1910)に巣鴨に移転したため、 現在、この地に本妙寺はありませんが、菊坂を挟んだ向かいにある本妙寺坂にその名を残しています。本妙寺の現在地は、豊島区巣鴨5丁目35番6号です。

I.加賀藩上屋敷


東京大学本郷キャンパス
 森川宿から本妙寺坂にかけて、岩槻街道を挟んだ東側の東京大学本郷キャンパスは加賀藩前田家の上屋敷跡です。『近世江都著聞集』には、お七の父は前田家の元足軽・山瀬三郎兵衛で、浪人となったため願行寺門前に八百屋を開き、八百屋太郎兵衛と名を改めたと書かれています。藩主らの住む藩邸の中心は東大正門から赤門の南にかけてで、その北と南に江戸詰めの藩士らが住む長屋が並んでいました。

 江戸時代の消防組織には、藩邸を中心とした大名火消、旗本を中心とした幕府直轄の定火消、町人による町火消の3つがありましたが、天和の大火の頃は大名火消と定火消の2つでした。 『御当代記』にも、「大名火消之者、火事あらば廻り合せ次第かけつけ、早々ふみ消し可レ申候、その内御公儀の本火消衆参候はば、相渡し退き可レ申候との事也」と書かれています。本火消は定火消を指しているものと思われますが、初め大名火消が消火にあたり、やがて幕府の本火消が到着したならば引き継ぐとしています。
 加賀藩の大名火消は加賀鳶と呼ばれ、江戸藩邸に出入りの鳶職人で編成されていました。江戸の大名火消の中でも特異な衣装と威勢の良さで知られ、火消の腕と喧嘩っ早さで人気だったといいます。八百屋お七の一家が焼け出された火事でも、加賀鳶が本郷の消火活動にあたったと思われます。


歌川豊國の「加賀鳶の図」(部分)。赤い長半纏に梯子、鳶口を持っている。背景は加賀藩上屋敷の築地塀で、右端から春日通りにあった辻番所、表長屋、火之見櫓。櫓の下は火消役所で、加賀鳶が待機していた

 東大構内と周辺には加賀藩邸の遺跡があります。
赤門  育徳園の西、岩槻街道に面した朱塗りの門が、国の重要文化財に指定されている赤門です。第13代藩主・前田斉泰が将軍・家斉の娘・溶姫(やすひめ)を正室に迎えるにあたって文政10年(1825)に建てられたもので、三位以上の大名に嫁いだ将軍家の子女の住まいを御守殿ということから、御守殿門と呼ばれます。
東御長屋井戸  龍岡門を入った右手に井戸の遺構があります。江戸詰めの藩士らが暮らした東御長屋の前にありました。
東御長屋石垣  龍岡門を出て東に曲がる道を山上会館龍岡門別館の裏手まで行くと、塀の下に石垣が見えます。これが東御長屋の石垣で、長屋の下水排水溝も見えます。
加賀藩石垣  山上会館龍岡門別館の裏手に道をクランクに進み、鉄門から無縁坂に向かう道の塀の下の石垣が、加賀藩上屋敷の石垣です。
山上会館脇石垣  育徳園の東、山上会館の近くに、工事の際に発掘された加賀藩邸時代の石垣が移築されています。
育徳園心字池  通称・三四郎池と呼ばれています。正式名称は心字池で、育徳園という加賀藩邸の庭園内にあった池です。夏目漱石の小説『三四郎』の舞台になったことから、三四郎池と呼ばれるようになりました。
加賀藩・水戸藩地境の石垣  弥生門周辺に残る当時の石垣です。
蛇塚  正門を入った左手には、蛇塚と呼ばれる灯籠があります。不義を犯したために蛇を使って折檻死させられた、奥女中を弔ったものだと言い伝えられています。

(行程:4km)
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

天和笑委集(てんなしょういしゅう)

 天和2年11月から翌年2月にかけて江戸で起きた大火の見聞記。貞享年間(1684~88)成立、作者不詳。全13巻、巻11~13で八百屋お七の事件を扱っています。
〔巻十一~十三 (要約)〕
 森川宿に栄えた商人がいた。駿河国富士郡の農民だったが、年貢が納められず田畑を地頭に押領されたため、東に下って商人となり、ようやく豊かになって森川宿に居を定め、乾物、青物の店を開いた。妻を迎え、子が生まれて豊かに暮らした。総領の吉左衛門に店を継がせ、弟の次郎を出家させ、末子の七は大事に育て、16歳となって賢く麗しく優しい娘となった。
 そうしたところ、12月28日の類火で家を失い、正仙院に身を寄せた。この寺の生田庄之介という住職が寵愛する17歳の美少年が、七を見初めた。庄之介は七の下女ゆきに近づき、七への恋文を託して仲立ちを頼んだ。かねてより庄之介に恋していた七は、ゆきから話を聞いて嬉しく、胸の内を明かそうと思ったが、しばらく庄之介を悩ませてから永遠の契りを交わそうと思い定めた。寺の世話になっていて畏れ多ので、二度と手紙を寄越さぬようにとゆきに返事を託した。手紙を開いた庄之介は打ち萎れたが、ゆきの励まされて日毎夜毎に恋文を渡した。
 さしものことに七は思いを定め、終生変わることのない愛ならば受け入れるとの返事をゆきに与えた。正月10日のその夜、ゆきの仲立ちで七と庄之介は寺の一間に入り、印の盃をして一夜を共にした。
 やがて二人は人目のないときに逢い、夜は互いに忍んで枕を並べ、睦まじき仲となった。
 焼け跡の普請も終わり、正月25日、八百屋市左衛門森川宿に帰ることになり、七は庄之介との別れに泣いた。三日も過ぎると互いに思いが増し、手紙を交わしたり、森川宿に庄之介が忍んで逢いに行った。1月が終わり春となったが、庄之介への思いに苦しむ七は病気のようになった。心配する母にも、許してはもらえまいと打ち明けることはできなかった。
 風の激しいときに家に火をつければ、正月のときのように正仙院に行き庄之介といっしょになれるとと思った七は、3月2日の夜半に裏口を抜け出し、近くの家の軒に火をつけた。付近の者がすぐに消し、うろついていた七を捕え、夜が明けて奉行所に引っ立てた。両奉行はありのままに白状すれば是非によっては命を助けると話したが、密会のためとなれば庄之介は尚更深い罪になるに違いないと、七は乱心したふりをした。獄屋に送られ、両奉行のたびたびの尋ねにも真実を語らず、ついに火刑となった。
 ゆきから仔細を聞いた庄之介が奉行所に行ってともに罪を負うと言うと、それでは七の貞節がむだになり、亡き跡を弔う人もいなくなるとなだめられ、仏の道に入るとの七への手紙を託した。
 3月18日、6人の者が鎌倉河岸、飯田町、麹町など引き廻され、神田筋違橋にさらし者となった。28日を迎え、七は形見として鬢の髪を母に遺した。辰の下刻、罪人たちは馬に乗せられ日本橋から鈴の森の浜辺に来ると、雷電七郎右衛門は磔刑、森伝右衛門は斬首、七、喜三郎、本間小兵衛、八蔵の4人は火刑となった。
 七の両親と長男は店を畳んで甲州に田畑を買い、農民となった。庄之介は七との密契が江戸中に知れ渡り、旅に出て高野山に上り、出家した。

好色五人女(こうしょくごにんおんな)

 井原西鶴作の浮世草子で、当時の5人の女性の事件をもとに書かれた創作。貞享3年(1686)刊。巻4で八百屋お七の事件が取り上げられています。
〔巻四 戀草からけし八百屋物語 (あらすじ)〕
 北風が激しく吹く師走。正月の用意を急ぐ押し詰まった暮れの28日夜半に、火事が起きて大騒ぎとなった。人々は家財道具を持って縁故を頼って避難した。
 本郷のあたりに八百屋八兵衛という商人がいた。昔は素性も賤しからぬ人で、お七という16歳の美しい娘がいた。お七は火の手が近づいたので、母に付き添ってかねがね帰依していた檀那寺、駒込の吉祥寺に行って難をしのいだ。寺には大勢の者が駆け込んでいた。指に刺さった棘を抜こうと難儀している上品な若衆がいて、お七が毛抜きを借りて抜いてやると、きつく手を握られた。お七は離れがたく思ったが、母が見ていたので仕方なく別れ、わざと毛抜きを持って帰り、返しにいくと追いかけて若衆の手を握り返した。これからは互いに思い合う仲となった。
 お七は次第に恋い焦がれて、若衆のことを御所坊主に尋ねると、小野川吉三郎という先祖は由緒正しき浪人で、優しく情け深い人だと話してくれたので、さらに恋心が募った。人目を忍んで恋文を届けると、吉三郎からも恋文が送られてきた。
 大晦日、元日、七草、十四日の夕暮れとなり、松の内も終わりになった。
 十五日の夜半、柳原から米屋の八左衛門が死んだと使いが来て、野辺送りに寺の僧たちが出かけた。今宵こそと、お七は夜更けに皆が寝静まってから吉三郎の寝所に行った。吉三郎は同じ16歳だった。二人は思いを遂げ、命終わるまでと誓った。
 明け方、捜しに来た母にお七は引き立てられた。
 油断ならないのは捨坊主だと、吉祥寺から引きあげて二人の恋を引き裂いた。けれど、下女が同情して恋文のやりとりは続いた。雪の日の夕方、吉三郎は松露、土筆を売る里の子に化けて八百屋を訪れ、土間に一晩泊めてもらい、お七との再会をはたした。
 吉三郎に逢う手段のないままに、風の激しい夕暮れ、お七は吉祥寺に避難したことを思い出して、あのようなことになれば吉三郎に逢えるかもしれないと出来心した。煙が上がったところを人に見つかり、放火を白状したお七は、神田、四谷、札の辻、浅草、日本橋と引き回されてさらし者になり、人々の同情を誘った。4月初め、「世のあはれ、春吹く風に名を残し遅れ桜の今日散りし身は」と吟じ、品川の道のほとりで煙となった。
 お七を思いつめて病気となった吉三郎はお七の死を知らされなかったが、百か日に寺の境内でお七の卒塔婆を見つけ死のうとした。これを聞いたお七の親が、出家して跡を弔ってほしいというお七の最期の言葉を伝え、吉三郎は剃髪して出家した。

近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)

 江戸中期の講釈師・馬場文耕が、宝暦7年(1757)に書いた見聞記。全11巻で、巻1~2に八百屋お七のことが書かれています。
〔巻一 八百屋お七が伝、巻二 松竹梅天和政要 (要約)〕
 前田家足軽の山瀬三郎兵衛は寛永年中に浪人となり、武士をやめて駒込追分の願行寺門前に八百屋を出し、八百屋太郎兵衛と名を改めた。寺社に祈願して一女をもうけ、お七と名づけた。生年は公文書に寛文8年10月とあり、たぐいなく美しく育った。14歳の2月、天和元年というが、丸山本妙寺よりの出火で類焼し、太郎兵衛の弟の肉縁にある円乗寺で、普請がすむまで暮らすことになった。
 円乗寺に旗本、山田十太夫の次男、左兵衛という小姓がいた。美男にして教養もあり優形で、お七は目にするうちに恋心が募り、人目を忍んで同衾する仲となった。
 秋になって焼け跡に新居が建ち、一家は願行寺門前に戻ったが、お七は左兵衛のことが忘れられなかった。親が吉祥寺の門番をしていたことから、吉祥寺の吉三郎と呼ばれたあぶれ者が近所にいた。八百屋にも来ていたが、お七の憂い顔を見て、小遣い稼ぎに左兵衛との恋文の仲立ちをした。悪事を思い立った吉三郎は、また火事になって家が焼ければ円乗寺に行けるから、火事を祈るとよいとお七をそそのかした。
 風の激しい夜、お七が家の物干しに上がって屋根裏に火をつけると、たちまち火事となった。吉三郎は、一家が逃げ出した隙に窃盗を働いたが、盗賊改の中山勘解由ら与力同心に捕えられた。
 拷問にかけられた吉三郎は火付けをしたのはお七だと告げ、詮議に召し出されたお七もすぐに白状して牢獄に入れられた。中山勘解由は、御定法通りお七を火あぶりとするよう老中方に具申したが、土井大炊頭利勝がお七に同情して、少女がこのような大罪をなしたとあれば天下の恥辱になるので、遠流というようにできないか、16歳とはいうが今一度吟味して、15歳以下ならば子供のしたことと、その罪を一段引き下げることもあるのではないか、と中山勘解由に話した。
 中山勘解由はお七の両親、名主、家主らを呼び出し、土井大炊頭利勝の話をすると、両親らは喜んで、お七は14歳になったばかりで、御屋敷に御奉公に出すために16歳としていたとし、名主も人別帳には14歳とあると偽った。
 これによりお七は出牢したが、妬んだ吉三郎が、色情からした火付けを子供のしたことと申すのかと中山勘解由を罵り、谷中感応寺の祖師堂の額に、お七が11歳、延宝4年4月に書いた筆書きがある、よもや神仏に虚言はすまい、と証拠を述べた。仕方なく中山勘解由が額を取り寄せると、吉三郎の通りだった。
 中山勘解由はどうしようもなく、かかる証拠を老中に申上げ、天和2年2月、お七を吉三郎とともに鈴が森にて火あぶりにした。

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