文京 坂物語

切支丹坂・庚申坂・新坂(今井坂)

~キリシタン坂の今昔~


切支丹坂(緑) 、庚申坂(赤)、新坂(青)、
小日向1丁目5・8番の間の坂(ピンク)
*国土地理院地図を加工
 東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅から南に500メートルほど行った、貞静学園短期大学南、小日向1丁目23番付近には、江戸時代、切支丹屋敷と呼ばれるキリシタンを収容した牢屋がありました。
 この切支丹屋敷に通じる坂道が切支丹坂と呼ばれてきましたが、切支丹坂と呼ばれる坂には複数あり、時代によって遷り変わっています。

 切支丹屋敷は、正保3年(1646)、江戸幕府宗門改役(切支丹奉行)井上政重の下屋敷を改造したもので、寛政4年(1792)まで存在していました。
 獄舎は周囲を高い板塀で囲まれていましたが、棟割長屋になっていて、井戸もあり、牢屋というよりは収容所に近いものだったようです。

切支丹坂(坂上右に切支丹屋敷)

明治16年の地図には、現在の切支丹坂はまだない

現在の切支丹坂が確認できる、明治29年の地図

現在の切支丹坂

 現在、切支丹坂と呼ばれているものは切支丹屋敷跡にあり、当時の切支丹屋敷の敷地内になります。三井文庫所蔵の切支丹屋敷図には、谷川を挟んだ向かいの庚申坂から獄門橋を渡って表門・屋敷内に向かう道が描かれていて、この道が現在の切支丹坂に相当すると考えられます。
 切支丹屋敷廃止後、跡地は武家屋敷地となり、切支丹屋敷地内の道は廃道となりました。明治16年(1883)の地図では付近は畑になっていますが、『切支丹屋敷研究』の中で真山青果は、「明治初年の授産勤農事業が明治新政府の新政策として実行された」結果だろうと書いています。授産勤農事業とは、明治維新によって失業した士族に、土地の開墾と農業への就業を奨励したことです。
 同書の中で真山青果は、現在の道が新たに開通したのは明治20年頃としていますが、明治29年(1896)東京市小石川區全圖で新道を確認することができます。
 また、真山青果は、この道が切支丹坂と呼ばれるようになったのは明治末年頃よりのことだろうと書いていますが、明治43年(1910)発行の『礫川要覧』は、庚申坂を切支丹坂と呼び、新道の坂を「今無名の小坂なり」としています。大正9~12年(1920~23)に書かれた『江戸から東京へ』でも、矢田挿雲は庚申坂を切支丹坂と呼んでいます。
 昭和10年(1935)発行の『小石川區史』は、新道の坂を切支丹坂と呼び、「今の位置は当時よりやや変っている」と書いていて、昭和初期には現在の切支丹坂の呼称が定着していたと思われます。


庚申坂(切支丹屋敷はカメラ後方)

切支丹坂とある宝暦13年(1763)江戸図。上に切支丹屋敷、左が上水

傳明寺門前の庚申塔

本多飛騨の名のある正保元年(1645)江戸図。縦の道が庚申坂で、
坂を下りた先に切支丹奉行・井上筑後守下屋敷が描かれている

江戸時代の切支丹坂ー庚申坂

 明治まで、切支丹坂と呼ばれていたのは現在の庚申坂でした。
 先の『礫川要覧』を始め、江戸中期以降の『続江戸砂子』『新編江戸志』『御府内備考』『東都小石川絵図』は、通称・誤称を含めて庚申坂を切支丹坂と呼んでいます。
 『新編江戸志』には、「切支丹屋敷へ行く坂ゆへに俗に切支丹坂といふ」と書かれ、『改撰江戸志』は、「世に庚申を誤りて切支丹と唱ふ」と書いています。
 庚申坂について『新編江戸志』は、坂の下り口に榎の古木が二本あり、享保(1716~36)頃まで、そこに庚申の石碑があったのが由来としています。石碑がなくなり、人々は庚申坂の名を忘れてしまったが、松平大学頭の屋敷では今でも庚申坂と呼んでいると書いています。
 松平大学頭の屋敷は、庚申坂の北、約700メートルにある教育の森公園にありました。常陸額賀藩初代藩主・松平頼元がここを屋敷としたのは、万治2年(1659)のことです。額田藩は2代藩主・頼貞の元禄13年(1700)年に移封されて、陸奥守山藩となります。
 切支丹屋敷があったのは、正保3年(1646)から寛政4年(1792)までです。
 宝暦13年(1763)の分間江戸大絵図 には、庚申坂を指すと思われる「切支丹坂」の文字が見えますので、この頃には切支丹坂の呼称が定着していたと思われます。
 『新編江戸志』の記述が正しいとすれば、屋敷のできた万治2年(1659)当時は庚申坂と呼ばれていて、それが切支丹坂に変るのは江戸時代中期からのことと考えられます。

 庚申坂の名は、庚申塔があったことに由来します。
 庚申塔は、路傍に祀る庚申塚に建てられた石塔で、青面金剛(しょうめんこんごう)と三猿が彫られているのが一般的です。日本で庚申信仰が始まるのは平安時代からですが、それが一般庶民に広がり、庚申塔が盛んに建てられるようになるのは、江戸時代になってからといわれます。
 この坂が庚申坂と呼ばれたのは、江戸時代前期から中期にかけてのことだったのでしょうか。
 庚申坂に近い伝明寺門前には寛文10年(1670)建立の銘のある庚申塔があります。 庚申坂にあったという庚申塔と関係があるのかもしれません。

 『新編江戸志』によれば、庚申坂には丹下坂、今井坂の別称があったといいます。それぞれの名の由来について、本多丹下、その後に今井某の屋敷があったからと書いています。
 丹下坂については、正保元年(1645)江戸図 の庚申坂付近に本多飛騨守成重(元亀3-正保4、1572-1647) の屋敷を確認することができます。天正11年(1583)からの徳川家康に仕え、慶長18年(1613)に越前国丸岡城主、4万石の大名となっています。成重は、通称を丹下といいました。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

新坂(別名・今井坂。左方向に切支丹屋敷)

右下の新坂は途中左に折れて、庚申坂に繋がっていた(明治9年地図)

新坂上に蜂谷と書かれた屋敷のある明治9年(1772)の地図

もう一つの切支丹坂ー新坂(今井坂)

 今井坂は、庚申坂の南、巻石通りにある文京区立金富小学校脇の新坂の通称でもあります。
 新坂は正徳3年(1713)、小浜藩主・酒井忠音の屋敷を上地して、その中央を貫いて新しく造った道で、現在とは異なり、明治初めまで坂上は庚申坂上に続いていました。 このことから、真山青果は、庚申坂上までを新坂と呼んでいたという説を唱えています。つまり、新坂は今井坂とも呼ばれていたため、坂上の庚申坂をも今井坂と呼んでいたというものです。
 『新編江戸志』には、庚申坂は「新坂の西」にあると書かれています。現在の新坂からは庚申坂は西ではなく北にありますが、明治初めまであった坂上の道に対しては北西になり、この道までが新坂だとする真山説と符合しています。
 『続江戸砂子』(享保20、1735)は、今井坂の名の由来を、坂上の蜂谷孫十郎屋敷にあった、平安時代の武将・今井四郎兼平にちなむ兼平桜だとしています。しかし、『新編江戸志』はこれを否定しており、今井坂の名の由来はよくわかっていません。

 ところで、この新坂について、『江戸砂子』(享保17、1732)は「新坂 又切支丹坂といふ、小日向上水のうえ」と書いています。
 今井坂(新坂)が坂上で庚申坂に続いていたために、庚申坂も今井坂と呼ばれたという真山青果説に従えば、逆に、切支丹坂(庚申坂)が坂上で新坂に続いていたために、新坂も切支丹坂と呼ばれたというのも成り立つかもしれません。
 当時、新坂と庚申坂を厳密に分けずに、両坂を一つの坂と考えた人がいたのも有り得ることです。


七軒屋敷新道があった辺り。左上・藤坂は蛙坂の誤記?(明治16年地図)

庚申坂をキリシタンサカとするた嘉永2年(1849)『東都小石川絵図』

七軒屋敷新道の切支丹坂

 『改撰江戸志』には、「切支丹坂は切支丹屋敷の脇、新道の坂をいへり。わずかの坂なり。世に庚申坂を誤りて切支丹坂と唱ふ」と書かれています。
 真山青果は、この切支丹屋敷脇の新道とは、元禄14年(1701)に開通した七軒屋敷新道のことで、文化(1804~18)の頃には、この新道の坂が切支丹坂と呼ばれるようになっていたと述べています。
 ここで注意を引くのは、『改撰江戸志』がこの切支丹坂を「わずかの坂なり」と書いていることです。
 明治16年(1883)の地形図からは、東の庚申坂から川を渡ると西に崖があることがわかります。七軒新道は、この崖を西に登り、崖上を北に折れて進み、途中西に折れてから、蛙坂からの道を再び北に折れていました。
 『改撰江戸志』にいう「わずかの坂」は、庚申坂に対面する西への上り坂だったのかもしれません。この坂は元禄以前には、切支丹屋敷内の表門の道の一部だったとも考えられます。

 安永4年(1775)から寛政8年(1796)の間に成立したとみられる『改撰江戸志』、文化8年(1811)の『小日向志』が、七軒屋敷新道の坂を切支丹坂とする一方、寛政8年(1796)までの成立とみられる『新編江戸志』 、嘉永2年(1849)の『東都小石川絵図』は、庚申坂を切支丹坂としていました。
 切支丹屋敷の廃止は寛政4年(1792)ですが、享保10年(1725)に牢屋敷を焼失してから久しく、切支丹坂の呼称に混乱が生じていたのでしょう。
 明治になって七軒屋敷新道が消滅すると、庚申坂だけが切支丹坂として残ることになりました。


切支丹坂とされる小日向1丁目5・8番の間の無名坂

服部坂の東の道を切支丹坂とする嘉永5年(1852)『小日向絵図』

薬罐坂に繋がる明治4年(1871)『東京大絵図』の切支丹坂

薬罐坂に登る切支丹坂

 小日向には、もう一つ切支丹坂と呼ばれた坂があります。小日向1丁目5番と8番の間にある、巻石通りから登る現在は無名の坂で、嘉永5年(1852)の尾張屋版『小日向絵図』と明治4年(1871)『東京大絵図』等に切支丹坂と記されています。
 この坂を上っていくと薬罐坂の道に当ります。寛文年中(1661~73)の地図を見ると、切支丹屋敷の近くには、東の庚申坂からと、南の薬罐坂からの2つの道があります。この薬罐坂からの道は、そのまま切支丹屋敷に続いているように見え、真山青果も切支丹屋敷南西に庚申坂からとは別に門があったのではないかと推測しています。
 この薬罐坂へと続く無名坂が、切支丹屋敷への道、切支丹坂と呼ばれていても不思議ではありません。

寛文年中と現在とを重ねた地図。
中央の四角は年代ごとの切支丹屋敷で、
緑が創建時、水色が元禄、ピンクが享保以降。
*国土地理院地図を加工

『御府内往還其外沿革図書』延宝年中圖

『御府内往還其外沿革図書』宝永2年圖

切支丹屋敷への道

 江戸時代、切支丹屋敷に通じる道はいくつかありました。
 北側の切支丹屋敷裏門に通じる蛙坂は、七軒屋敷新道ができる元禄14年(1701)に開通しています。また、切支丹屋敷南側の荒木坂は『御府内往還其外沿革図書』の延宝年中(1673~81)圖にすでに描かれていますが、切支丹屋敷表門に通じるのは宝永2年(1705)の圖からです。

 巻石通りの小日向交差点から国際仏教学大学院大学の崖に沿って入り、東京メトロ丸の内線の線路脇を庚申坂下に向かって進む谷あいの道は、寛文年中(1661~73)の地図にも現れています。
 坂道ではないこの道を除けば、切支丹屋敷への坂道として江戸時代に存在したのは、これまで紹介した切支丹坂、庚申坂、新坂(今井坂)、七軒屋敷新道、小日向1丁目5番と8番の間の坂、蛙坂、荒木坂がわかっています。
 切支丹坂という名称は、切支丹屋敷への坂道というように使われていたのでしょうか。時代によって切支丹坂は遷り変わり、あるいは同時期に複数存在していた可能性もあります。
 ただ、切支丹屋敷への坂道の中で、蛙坂と荒木坂が切支丹坂と呼ばれた記録はありません。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

真山青果 (まやませいか)

 明治から昭和の劇作家・小説家。明治11年(1878)、仙台に生まれ、上京して小栗風陽(おぐりふうよう)に師事、自然主義作家として認められますが、不祥事から文壇を去り、松竹に入社して劇作家となりました。代表作に、戯曲『玄朴と長英』『元禄忠臣蔵』『平将門』、小説『南小泉村』があります。 昭和23年(1948)没。

矢田挿雲 (やだそううん)

 大正から昭和の小説家・俳人。明治15年(1882)、金沢に生れ、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、在学中より正岡子規門下となりました。大正4年(1915)、報知新聞記者となり『江戸から東京へ』を連載しました。代表作に小説『太閤記』があります。昭和36年(1961)没。

庚申信仰 (こうしんしんこう)

 庚申は干支の「かのえさる」のことです。庚申の日に仏教では帝釈天・青面金剛(しょうめんこんごう)、神道では猿田彦を祀って徹夜をする行事を庚申待(こうしんまち)といいます。
 道教の説では、庚申の夜、体内にいる三尸(さんし)という虫が、人の眠るのを待って天に上り、中国の最高神・天帝に悪事を告げるといいます。悪事を告げられると命を縮められてしまうため、眠らずに徹夜で身を慎むようにしました。この庚申信仰は、日本では平安時代に貴族の間で行われるようになり、室町時代には仏教と結びついて庚申供養塔なども造立されました。
 これが民間に広まり、江戸時代にかけて講組織などで仲間とともに徹夜で祭事を営むようになりました。
 神道の猿田彦とは、猿と庚申の甲(さる)が結びついたと考えられ、庚申塔(庚申供養塔)には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫刻したものが多く見られます。

TOP