文京 坂物語

菊坂・梨木坂・胸突坂

~菊坂のルーツと遷り変り~

 文京区でよく知られた坂に、菊坂があります。
 本郷通りから言問通りに下る坂道で、坂上は本郷三丁目交差点より北に60メートルほど行った、本郷4丁目37番と本郷5丁目1番の間です。坂下は言問通り菊坂下交差点で、距離600メートル、標高差12メートル、勾配2%の長く緩やかな坂道です。

菊坂(緑) 、胸突坂(赤)、梨木坂(青)、本妙寺前の坂(ピンク)
*国土地理院地図を加工
 菊坂界隈には、明治から大正にかけて、樋口一葉や坪内逍遥をはじめとした文人が暮らした旧居などがあることから、多くの文学ファンが訪れる地となっています。

菊坂の名前の由来

 菊坂の名称の由来について、寛延4年(1751)の『南向茶話』は次のように書いています。
 「菊坂はむかし菊作りし畑なりといふ」
 『御府内備考』 によれば、長禄年中(1457~61)に本郷辺が町屋となった頃、この辺一円に菊畑があり、菊花を作る者が多く住んでいたことから、その所の坂を菊坂と呼んだといいます。坂上は菊坂台町、坂下は菊坂町と呼ばれるようになりますが、中間方の大縄拝領地となったのが寛永5年(1628)、町方支配になるのは元禄9年(1696)のことです。


揚州周延『江戸風俗十二ヶ月之内
九月 染井造り菊ノ元祖』(部分)

二代目歌川広重『三十六花撰 東京染井きく』

歌川広重『東都名所年中行事
十月 雑司かや会式参り』

歌川国芳『江戸名所見立十二ヶ月之内
九月 巣鴨 智恵内』

月岡芳年『東京自慢十二ヶ月 九月 千駄木の菊』

江戸の菊ブーム

 園芸用の菊が、中国から日本に渡来したのは9世紀初頭のことで、高貴な花として貴族に愛好され、和歌にも歌いこまれました。
 江戸時代になって天下泰平となると、大名屋敷を始めとする武家屋敷に庭が作られ、園芸植物が育てられるようになります。徳川家康も植物が好きだったようで、大名たちが代々将軍家に献上する品の中には園芸植物も含まれていました。
 江戸時代前期、最初の園芸ブームが訪れ、寛永(1624~45)の頃には椿・菊、寛文・延宝(1661~81)にはツツジが流行しました。延宝9年(1681)には、日本最古とされる園芸書『花壇綱目』が大坂で出版され、この中には菊も取り上げられています。
 江戸では元禄5年(1692)、江戸一番の植木屋と言われた駒込染井村の伊藤伊兵衛三之丞が、ツツジ・サツキの専門書『金繍枕(きんしゅうまくら)』、3年後の元禄8年(1695)には、『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』を江戸と京都で出版しています。
 三之丞は三代目伊藤伊兵衛で、初代伊藤伊兵衛は津藩藤堂家下屋敷に出入りして庭木の手入れをしていたといいます。
 藤堂家下屋敷が染井に移るのは明暦3年(1657)の大火後で、同じく柳沢家下屋敷(現・六義園)、建部家下屋敷などが並び、近隣の農民が庭の世話をするようになりました。その中に初代伊藤伊兵衛もいて、それが染井の植木屋の始まりといわれます。
 江戸の菊栽培が本格化するのは正徳(1711~16)からといわれ、享保3年(1718)、京都で盛んだった菊の品評会が、江戸でも開かれるようになります。文化(1804~18)の頃からは、菊を使って人や動物・風景などをこしらえる、菊細工が行われました。
 こうして巣鴨・駒込の園芸業が繁栄し、大塚、雑司ヶ谷、高田へと広がっていきます。
 菊坂のある本郷は、園芸業の集まる巣鴨・駒込に隣接しており、また大名屋敷や旗本などの武家屋敷が多くあったことからも、園芸用の菊畑があって不思議ではありません。
 ただ、園芸菊の流行が寛永(1624~45)頃、染井の植木屋の始まりが明暦3年(1657)以降とすれば、『御府内備考』のいうように、長禄(1457~61)の頃の本郷辺に菊畑があったというのは、野菊でなければ疑問かもしれません。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

菊坂(坂下から坂上へ)

胸突坂(坂下から坂上へ)

梨木坂(坂下から坂上へ)

梨木坂を「きく坂」と記す、寛文11年『新板江戸外絵図』

同じく梨木坂が「菊坂」の延宝8年『江戸方角安見図鑑』

今の菊坂を「丸山キク坂」と記す、延享5年『分間延享江戸大絵図』

明治16年の地図は、胸突坂を「菊阪」、梨木坂を「奈須阪」としている

胸突坂を「ム子ツキサカ」と記す、安政4年『小石川谷中本郷絵図』

菊坂はいつからあったのか?

 寛文11年(1671)の『新板江戸外絵図』には「きく坂」の名が登場しています。
 しかし、この「きく坂」が示しているのは、今の菊坂ではなく梨木坂です。延宝8年(1680)の『江戸方角安見図鑑』も同様に梨木坂を「菊坂」としています。
 じつは、江戸期の絵図のほとんどは、梨木坂を「きく坂」としています。今の菊坂を「きく坂」としているのは、延享5年(1748)の『分間延享江戸大絵図』くらいしかありません。

菊坂と梨木坂

 『南向茶話』は、「菊坂」とともに梨木坂についても書いています。
 「梨木坂はいにしへ大木之梨木ありしよし、戸田茂睡老も此地に居住ゆへ梨本と称せられけるとなり」

 戸田茂睡は『紫の一本』(天和2年、1682)の作者で、その中で次のように書いています。
 「菊坂 小石川より本郷六丁目へ出るところの坂を云」「なしの木坂 本明寺の前の谷へつきて小石川へ下る右の方の坂を云、此坂より菊坂へ出る、此あたりは昔同心屋敷也」

 江戸時代、湯島から駒込にかけ、中山道に沿って本郷壱丁目から六丁目までがありました。六丁目は東大赤門前から本郷郵便局前にかけてで、胸突坂を上る道が本郷六丁目に通じていました。
 当時の地図を見ると、『紫の一本』にいう菊坂の「小石川より本郷六丁目へ出るところの坂」は、胸突坂・梨木坂のどちらかです。「小石川」は菊坂下交差点から言問通りを白山通りに出たところで、梨木坂が本妙寺方面からの坂であることを考えれば、「菊坂」は胸突坂を指していると考えるのが自然です。
 また、「本明寺の前の谷へつきて小石川へ下る右の方の坂」を梨木坂としています。この文は、「(坂上から)本妙寺の前の谷へ着きて小石川へ下る、(谷から見て)右の方の坂」と読み替えることができます。今の梨木坂です。
 『紫の一本』にいう「菊坂」は胸突坂のことで、梨木坂の後半の文、「此坂(梨木坂)より菊坂(下)へ出る」という記述にも合います。
 『御府内備考』も、菊坂台町の西にあるのが菊坂で、南にあるのが梨木坂としています。菊坂台町は現在の本郷5丁目10~14・31~32番で、胸突坂は西、梨木坂は南に当ります。
 これを裏付けるのが明治16年の地図で、梨木坂を奈須阪、胸突坂を「菊坂」と表記しています。明治20年の地図でも同様に確認することができます。
 なお、今と同じ胸突坂の表記をしているものに安政4年(1857)の『小石川谷中本郷絵図』があり、「ム子ツキサカ」と記されています。
 梨木坂の名前の由来について『南向茶話』は、昔、梨の大木があったからとしています。『御府内備考』は、梨木坂のほか、梨子坂・なし坂とも呼んでいます。この辺までで菊畑がなくなるので菊なし坂といったが、いつの頃からか、なし坂というようになったと書いています。


かつての本妙寺前の坂。坂上が本妙寺跡

もう一つの菊坂

 「菊坂」について、元禄3年(1690)の『増補江戸惣鹿子名所大全』は、「本郷丸山本妙寺の前なるさかをいふなり」と書いています。
 本妙寺は明治43年(1910)まで本郷丸山にあった寺で、今の菊坂の谷を挟んで本妙寺坂の向かい、本郷5丁目16番付近にありました。記述をそのまま受け取れば、「菊坂」は本妙寺から谷に下る坂のことになります。
 大正9~12年(1920~23)に書かれた『江戸から東京へ』の著者・矢田挿雲も、この坂を「菊坂」と称しています。
 『江戸砂子』『新編江戸志』は、「菊坂」を丸山より小石川へ出る坂としています。丸山は本妙寺のあった高台のことで、丸山から小石川に出る坂は胸突坂になります。
 さて、『紫の一本』『御府内備考』『江戸砂子』『新編江戸志』は胸突坂を「菊坂」とし、江戸期の地図の多くは梨木坂を「菊坂」と表記しています。分間延享江戸大絵図が今の菊坂を、『増補江戸惣鹿子名所大全』が本妙寺から下る坂を菊坂としているように、「菊坂」はそれほど厳密ではなく、丸山から今の菊坂の谷に下る坂は広く「菊坂」と呼ばれていたのかもしれません。


胸突坂を「菊坂」としている昭和31年の地図

今の菊坂はいつからか?

 では、「菊坂」が、現在の菊坂に定着したのはいつ頃のことなのでしょうか。
 明治40年(1907)発行の『新撰東京名所図会』 は、「菊坂はもと菊坂町より東に向ひ、台町に上る急坂の名なりしが方今は北に曲りて田町に下る坂道の称となれり」と書いています。
 方今(ほうこん)は現在のこと、田町は菊坂下から白山通りにかけての旧町名です。
 文章の前半は胸突坂のことを述べていて、昔の「菊坂」は胸突坂だとしていますが、文章の後半は、今、すなわち明治40年当時の「菊坂」が、どの道を指しているのか、はっきりしません。
 文章の後半を「現在は北に曲がる坂で、その坂より下って田町に至る道」と解釈すれば、梨木坂か、それより東の丸山本妙寺から谷に下る坂のどちらかになります。
 昭和31年(1956)に発行された地図 には、胸突坂が「菊坂」と表記されており、いずれにしても「菊坂」が今の菊坂に定着したのは、比較的近年のことではないかと推察できます。


『新板江戸外絵図』と現在を重ねた地図。(国土地理院地図を加工)
菊坂通りは本妙寺の東までで、中山道(本郷通り)に繋がっていない

菊坂町から本郷4丁目にまたがる現在の菊坂通り

菊坂町・菊坂通りから「菊坂」へ

 新板江戸外絵図を見ると、今の菊坂は、言問通りの菊坂下交差点から本妙寺坂下を過ぎて最初に左に入る道がある角、本郷5丁目4番まででした。この菊坂下交差点からの道が本郷通りまで伸びるのは、明治22年(1889)のことです。
 菊坂町は元禄9年(1696)に始まり、昭和40年(1965)まで続きます。町名変更前の地図を見ると、延伸前の道が菊坂町にすっぽり囲まれていたことがわかります。また、この道は、菊坂通りとも呼ばれていました。
 「菊坂」ではなかったこの道が、なぜ菊坂になったのか?
 ひとつには、菊坂町周辺が広く「菊坂」と呼ばれていたために、町の中を貫く道もまた菊坂と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 明治42年(1909)から昭和10年(1935)まで菊坂町(現・本郷5丁目18番)にあった女子美術学校(現・女子美術大学)の学校史は、その校地を「菊坂の地」としています。
 また、ひとつには、この道が菊坂通りと呼ばれていたために、菊坂と略称され、それが今の名となったのかもしれません。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

戸田茂睡(とだもすい)

 江戸前期の歌人・歌学者。寛永6年(1629)、駿河国(静岡県)生れ。岡崎藩本多家に仕え、晩年、浅草や本郷に隠棲しました。和歌革新の先駆者となり、『僻言調(ひがごとしらべ)』『梨本集』の歌学書のほか、江戸名所記『紫の一本』、雑記『御当代記』を著しています。宝永3年(1706)没。

矢田挿雲 (やだそううん)

 大正から昭和の小説家・俳人。明治15年(1882)、金沢に生れ、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、在学中より正岡子規門下となりました。大正4年(1915)、報知新聞記者となり『江戸から東京へ』を連載しました。代表作に小説『太閤記』があります。昭和36年(1961)没。

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