文京 坂物語

吹上坂・播磨坂・網干坂

~吹上坂の由来を追って~


吹上坂(桃)、播磨坂(緑)、網干坂(青)
 *国土地理院地図を加工
 桜の季節になると「文京さくらまつり」の会場となり、多くの花見客で賑わうのが、播磨坂です。春日通り小石川五丁目交差点から千川通り植物園前交差点にかけて下る、幅の広い坂道で、両側の歩道と中央分離帯の遊歩道が桜並木になっています。
 この播磨坂の南を並行して下る坂道が吹上坂で、坂上は春日通り茗台中学校前交差点、坂下は千川通り植物園前交差点で、播磨坂と合流しています。
 桜並木で知られる播磨坂に対して、目立たない存在の吹上坂ですが、戦後に造られた播磨坂よりも長い歴史を持っています。


吹上坂(別名・禿坂)。坂下の直線部分は昭和以降に造られた

『御府内往還其外沿革図書』寛政10年

小石川區全圖と現在を重ねた地図(国土地理院地図を加工)

ジグザグだった江戸時代の吹上坂

 『御府内備考』によれば、『改撰江戸志』に吹上坂の名が登場しています。そこには、次のように書かれています。
 「吹上坂は松平播磨守屋敷の坂をいへり」
 『改撰江戸志』が書かれた頃の『御府内往還其外沿革図書』寛政10年(1798)の地図を見ると、現在は一本道となっている吹上坂が、そうではなく、ジグザグしていたことがわかります。
 松平播磨守屋敷東側の道に「坂」と書かれていて、これが『改撰江戸志』にいう「吹上坂」なのかもしれません。
 松平播磨守屋敷東側の道は三百坂下通りからの道で、三百坂下通りは現在の小石川4丁目17番と18・19番の間の道に相当します。
 したがって、地図に書かれた「坂」は、小石川4丁目17番と7番の間、長さ40メートルばかりが「吹上坂」だったことになります。さらに、道のジグザグからは、小石川4丁目17番寄りだったと推測できます。
 明治43年(1910)発行の『礫川要覧』は、吹上坂について「久堅町七十四番地の東、同町より植物園の方向に下る坂なり。坂を下りしところに左方に極楽水あり」と書いています。

『御府内往還其外沿革図書』(赤)
と『礫川要覧』(緑)の吹上坂
(国土地理院地図を加工)
 明治29年(1896)発行の小石川區全圖を見ると、久堅町74番地はかつて松平播磨守屋敷のあった広大な土地で、東端は現在、宗慶寺のある付近です。
 『礫川要覧』にいう「吹上坂」を小石川區全圖でたどると、善仁寺門前を過ぎたあたりから始まり、西に曲がって旧宗慶寺門前で再び北に折れた後の直線区間までです。当時、極楽水と呼ばれていたのは宗慶寺境内にあった井戸で、『江戸名所図会』には、「境内、本堂の前にある井を云。上に屋根を覆ふ」と説明されています。現在の位置は播磨坂の清掃事務所付近です。
 旧宗慶寺門前から北に向かう道は、現在の宗慶寺裏手から小石川4丁目15番を播磨坂下に抜けていました。


江戸方角安見図鑑。左下から右上が吹上坂のジグザグ道

東京市計画道路。左下・吹上坂から御殿坂、浄心寺坂を繋いでいる

『御府内往還其外沿革図書』延宝年中之形

『御府内往還其外沿革図書』元禄年中之形

東都小石川絵図

吹上坂が一本道になるまで─坂下

 現在の吹上坂は、春日通り茗台中学校前交差点から、坂下は千川通り植物園前交差点までの一本道になっていますが、延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑では、坂上は三百坂下通り、坂下は善仁寺あたりで、善仁寺からは、現在の播磨坂方向に曲がり、旧宗慶寺前から小石川(千川)に下っていました。
 善仁寺から下の道が、現在のように真直ぐになるのは、昭和15年(1940)頃のことです。
 東京市は大正10年(1921)5月、現在の吹上坂上にあたる竹早町25番地から小石川植物園脇の御殿坂、白山下、浄心寺坂、根津裏門坂を経由して駒込千駄木町120番地に至る道路を計画しましたが、関東大震災や戦災もあり、吹上坂などの一部区間が整備されただけでした。

吹上坂が一本道になるまで─坂上

 吹上坂の道が、三百坂下通りから上、大塚道(現在の春日通り)に繋がった時期は不明ですが、寛文11~13年(1671~73)の『新板江戸外絵図』、延宝8年(1680)『江戸方角安見図鑑』には、三百坂下通りから先に道がありません。
 一方、『御府内往還其外沿革図書』延宝年中(1673~81)之形には、三百坂下通りから先に道が描かれています。同書が安政5年(1858)に完成したもので、道が御鷹匠同心大縄地と一括りにされた中にあることから、誤記の可能性も考えられます。
 同書・元禄年中(1688~1704)之形には道の両側に同心屋敷の具体的な名前が書かれていることから、延宝から元禄にかけて道ができたのかもしれません。
 東都小石川絵図を見ると、この三百坂下通りから上の道は十字に交差してなく、東寄りにクランクしています。同様に善仁寺の南でも東寄りに凹んでいて、直線道路にはなっていません。明治4年と明治9年の地図でも同様に確認できます。
 善仁寺南の凹みは松平播磨守の屋敷地が張り出していたものですが、明治29年の地図ではなくなっていることから、明治前期に直線に付け替えられたものと思われます。
 また、三百坂下通りのクランクは、昭和11年6月の航空写真にはありますが、昭和19年11月の航空写真ではなくなっています。昭和15年(1940)頃に善仁寺から下の道が直線になった際に、このクランクも解消されたものと思われます。
 こうして、春日通りから千川通りまでを一本道で貫く現在の吹上坂が完成しますが、江戸時代から昭和初期までは、松平播磨守屋敷と善仁寺の間、あるいはその坂下が、「吹上坂」と呼ばれていたものと思われます。

昭和11年の航空写真。坂下がコの時になっている(出典:国土地理院)

昭和19年の航空写真。坂下が直線になっている(出典:国土地理院)

ま・めいぞん(坂・グルメ)

播磨坂。左手がかつての「吹上坂」坂下

都市計画道路幹線街路。右上・環三と丸囲みされたのが環状3号線。
谷中から根津裏門坂、浄心寺坂、御殿坂を経て、播磨坂、江戸川橋へ

東京文理大学付近の区画整理計画。右・吹上坂と環3計画道路の播磨坂

戦後の地図に示された環3計画道路の播磨坂区間

震災後の計画道路。左下・環③の青線が吹上坂、御殿坂、浄心寺坂を結ぶ

戦後の環状3号線計画と播磨坂の誕生

 昭和15年(1940)頃に、善仁寺から下の道が直線になる以前、「吹上坂」下は、現在の播磨坂下にありました。
 播磨坂は、第二次世界大戦後に設置された戦災復興院が、昭和21年(1946)に立案した東京戦災復興都市計画に初めて登場します。この中で、都市計画道路幹線街路として32の放射線、8の環状線、その他の補助線が決定されますが、播磨坂はその中の環状3号線として計画されました。
 併せて、空襲の被害を受けた東京文理大学(旧東京教育大)付近の大塚3丁目・小石川5丁目・小石川4丁目の一部は、住宅復興の促進のために戦災復興都市計画の第一次土地区画整理施行地区に指定されます。
 この地区には環状3号線が計画されていたため、真っ先に区画整理されて道路が造られることになります。
 しかし、昭和24年(1949)6月、復興予算の優先順位とGHQの財政引き締め政策によって、戦災復興都市計画は大幅に見直されます。その結果、第一次土地区画整理施行地区にあった環状3号線だけが盲腸のように残りました。それが播磨坂です。
 環状3号線は、播磨坂などの一部区間を除き、完成には至っていません。

環状3号線になれなかった吹上坂

 ところで、東京を放射状と環状の幹線道路で結ぶという都市計画は、戦災復興都市計画が最初ではなく、大正12年の関東大震災の復興計画ですでに発案されています。当時の復興局による都市計画道路図には、8本の環状道路が構想されていて、現在の文京区内には環状2~4号線が示されています。
 この地図には、大正10年(1921)5月に東京市が計画した、吹上坂上の竹早町25番地から御殿坂、白山下、浄心寺坂、根津裏門坂を経由して駒込千駄木町120番地に至る道路も描かれていますが、これが環状3号線を示しているのかはっきりしません。
 ただ、戦後に計画された環状3号線が、この東京市計画ルートと吹上坂下から根津裏門坂までが重複していることは注目して良いでしょう。
 吹上坂下から西へは、戦後の環状3号線は、東京市計画のルートを外れて、現在の播磨坂から小日向、江戸川橋に抜ける計画でした。
 東京市計画の竹早町-駒込千駄木町ルートが戦争までに完成していれば、吹上坂が環状3号線になっていたかもしれません。吹上坂は環状3号線になれなかった道路といえますが、同じように播磨坂も環状3号線になることができませんでした。
 もし、計画通りに環状3号線が作られていたら、文京区内の様相は今とはだいぶ違ったものになっていたでしょう。

工事中の播磨坂(右)と吹上坂(左)。昭和33年

吹上坂の名の由来と吹上稲荷神社

 播磨坂が完成したのは昭和35年(1960)のことです。
 播磨坂の名称の由来は、松平播磨守屋敷跡に造られたことに由来しますが、吹上坂の名称の由来は、明治39~40年(1906~7)の『新撰東京名所図会』によれば、小名(こな)、昭和10年(1935)の『小石川區史』は、字(あざ)の名による、としています。小名は字を細分化した小字のことです。
 また、明治43年(1910)の『礫川要覧』は「坂の名の由来は詳ならざれども、昔し智香寺内に、吹上稲荷社祠あり、又大塚付近に吹上といふ地名ありしとのことなれば、これらに因めるものならんと想はるゝなり」と書いています。
 智香寺は、小石川5丁目9番の竹早テニスコート付近にあった浄土宗の寺で、現在は大塚3丁目28番に移っています。吹上稲荷社は、現在、大塚5丁目21番にある吹上稲荷神社だとしています。

 吹上稲荷神社の縁起はこれとは異なり、元和8年(1622)に徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神の御神体をいただき、江戸城吹上御殿に東稲荷宮を祀ったのが始まりとしています。のち神田橋外護持院、松平大学頭邸内(現・教育の森公園)、善仁寺、護国寺、大塚上町、大塚仲町を経て、明治45年(1912)に現在地に移ったといいます。
 社伝によれば東稲荷宮が吹上稲荷神社と改名されたのは、宝暦元年(1751)、善仁寺に移った時で、創祀の江戸城吹上御殿を名の由来としています。
 これが、善仁寺の前の坂が吹上坂と呼ばれるようになった謂れだといいます。


東都小石川絵図。左下・小石川大塚吹上の文字がある。右上が善仁寺

吹上という地名があった

 嘉永7年(1854)の東都小石川絵図には、現在の茗荷谷駅付近にあたる大塚道(春日通り)に、「小石川大塚吹上」の文字が見えます。『礫川要覧』にいう「大塚付近に吹上といふ地名ありし」は、これを指していると思われます。
 吹上稲荷社祠があったという智香寺もこの近くにあります。
 一方、吹上稲荷神社社伝は、吹上坂の名の由来を善仁寺にあった吹上稲荷神社としていますが、ここからは離れており、「小石川大塚吹上」が吹上坂ないしは善仁寺境内の神社名に由来するとは考えにくいでしょう。
 寛延4年(1751)の『南向茶話』には、「小石川氷川明神南之向も旧名吹上と号するも小石川に望める地なり、此所只今は俗に阿房殿町と号する所なり」と書かれています。
 阿(安)房殿町には、元禄の頃まで北条安房守の屋敷がありました。明暦4年(1658)、北条安房守氏長は宗門改役を井上筑後守から引き継ぎますが、 のちに切支丹与力同心の大縄地として北条安房守の屋敷を召上げ、組屋敷となってからは阿房殿町と呼ばれるようになります。『南向茶話』の著者・酒井忠昌は、古くはこの一帯を吹上と呼んでいたといいます。
 『新撰東京名所図会』は『武江図説』を引用して、松平大学頭屋敷より松平播磨守屋敷の辺りまでを吹上といい、古は吹上村といったと書いています。
  阿房殿町から吹上坂あたりまでが、吹上と呼ばれていたのかもしれません。

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網干坂。『南向茶話』によれば小石川を挟んだ向こうの丘が吹上だった

吹上周辺イメージ図。緑線:網干坂、緑丸:簸川神社、黄四角:阿房殿町、
黄丸:智香寺、赤線:吹上坂 *国土地理院地図を加工

網干坂と吹上との関係

 この一帯が吹上と呼ばれた理由について、『南向茶話』は江戸城吹上御殿と共通する地形を挙げています。
 徳川家康が江戸に入国の頃、江戸城は新橋から日比谷・皇居前・大手町にかけての大きな入り江に面していました。現在の神田川もこの入り江に流れ込んでいました。
 江戸城吹上御殿はこの入り江を望む高台にあり、入り江からの風が吹き上げることから、この地が吹上と呼ばれるようになったといいます。酒井忠昌は例証として、駿河・富士川辺の吹上、武州荒川辺の吹上とともに、小石川・氷川明神南の吹上を挙げています。
 氷川明神は現在の簸川神社で、古くはこの辺まで入り江が入り込んでいて、小石川の河口になっていたといいます。簸川神社の隣に網干坂がありますが、この入り江で魚を獲った網を干したのが、坂名の由来とされています。
 海や川から風が丘に吹き上がる地──それが吹上の地名の由来だと酒井忠昌はいいます。
 吹上坂には禿坂(かむろざか)という別名がありますが、禿は髪型のおかっぱ頭のことで、河童のいそうな池や川のある場所に付けられる名称です。


吹上稲荷神社の三葉葵

智香寺の三葉葵

吹上稲荷神社と三葉葵

 吹上の名の由来に関して、吹上稲荷神社社伝は、神座の前に錦の三葉葵の紋があることを徳川家との関係の深さの証としています。
 『礫川要覧』にいう智香寺内の吹上稲荷社祠は、江戸末期の地誌『小石川志料』を根拠としており、『新撰東京名所図会』は「智香寺境内に正一位吹上大明神ありたること。小石川志料に見えたれば、明治以後ここ(大塚仲町)に移転せしにや」と書いています。
 ここで留意すべきは、智香寺もまた徳川家とは因縁の深い寺院で、寺紋はやはり徳川家の三葉葵だということです。
 江戸時代、智香寺と、隣接していた光岳寺はともに浄土宗の寺で、伝通院の末寺になります。両寺と伝通院の寺号は、いずれも徳川家康の生母・於大(おだい)の方の法名、傳通院殿蓉誉光岳智香(光)大禅定尼から採られています。
 伝通院は於大の方の菩提寺ですが、智香寺と光岳寺は、於大の方を荼毘に付した葬礼所の跡地に建てられたもので、開基はともに正保元年(1644)です。両寺は昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失し、現在、智香寺は文京区大塚3丁目、光岳寺は調布市富士見町に移転しています。
 『礫川要覧』には、「正一位吹上山稲荷大明神との額をかゝげたりし稲荷祠は、明治の初年神仏混交禁止の際撤退したり」とあります。智香寺境内にあった吹上稲荷神社は、明治元年の神仏分離令により、大塚仲町に遷移したとしています。吹上稲荷神社社伝は、護国寺境内から大塚上町に仮遷したのち、大塚仲町に遷座したとしています。


大塚仲町(現在の大塚3丁目交差点付近)にあった明治期の吹上稲荷神社

大塚坂下町に移った大正期の吹上稲荷神社

吹上の名を残す吹上坂と吹上稲荷神社

 明治29年(1896)の地図には、大塚仲町に吹上稲荷神社の所在を確認できます。
 大塚仲町から現在地に移るのは、明治43年(1910)から大正10年(1921)にかけての路面電車開通と、それに伴う道路拡幅のためと考えられます。大正13年(1924)の地図では、現在、吹上稲荷神社がある大塚坂下町(現・大塚5丁目21番)に移っているのが確認できます。

吹上稲荷神社の神狐
 吹上稲荷神社境内には、宝暦12年(1762)の石造の狐一対があります。狐を奉納したのは上町、御組屋敷、中町(仲町)、坂下町、久保町(窪町)の氏子です。
 玉垣は昭和32年の建立で、上町・竹早町・清水谷町・三軒町・仲町・坂下町・豊島ヶ岡・窪町・大塚町の氏子が奉納していますが、もとの大名屋敷地が加わったのを除けば、宝暦12年の氏子と変わっていません。御組屋敷は、竹早町に相当します。

簸川神社境内の幟建
 ところで、『礫川要覧』に吹上稲荷神社があったという智香寺は、氏子の竹早町にありましたが、吹上稲荷神社社伝に神社があったという善仁寺は、この氏子を構成する町域には含まれていません。
 善仁寺周辺は旧町名の久堅町で、今も昔も網干坂にある簸川神社の氏子です。簸川神社境内には元禄5年(1692)と文政8年(1825)に善仁寺門前の氏子が奉納した石造の幟建があり、吹上稲荷神社社伝に神社が善仁寺に移ったいう宝暦元年(1751)以降も、善仁寺門前が簸川神社の氏子のままだったというのは、少し不自然かもしれません。


現在の吹上稲荷神社
 現在、吹上の名を残しているのは吹上坂と吹上稲荷神社だけですが、吹上坂からは遠く離れた吹上稲荷神社の毎年9月に行われる祭礼では、春日通りに沿った小石川4丁目から大塚5丁目にかけての氏子たちが集まり、吹上坂との由縁を伝えています。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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