文京 坂物語

鍋割坂・浅利坂

~地図から消えた坂道~

 坂道には、古くからあったものもあれば、近年になって造られた道もあります。そうした中で、昔はあったのに、今は消滅してしまったという坂道があります。
 鍋割坂と浅利坂がそれです。
 鍋割坂は小石川植物園が江戸幕府の御薬園だった頃にあった坂道で、浅利坂は現在、住宅地となっている小日向1丁目に明治の中頃までありました。


鍋割坂(緑) *国土地理院地図を加工

浅利坂(桃) *国土地理院地図を加工

鍋割坂をナヘワリサカ(中央上)と記す、『東都小石川絵図』。
現在の小石川植物園に当り、左上に氷川社(簸川神社)と網干坂がある

明治29年の地図。小石川植物園内に鍋割坂は描かれていない

鍋割坂、またの名を病人坂

 鍋割坂は、嘉永7年(1854)の東都小石川絵図・東都駒込辺絵図で、その存在を確かめることができます。
 『御府内備考』は『改撰江戸志』を引用して、鍋割坂の別名、病人坂として紹介しています。
 「病人坂は氷川の方より施薬処へ登る坂なり、初(め)は名も無(き)坂なりしが、享保年中養生所出来しより病をうけしともがら、或は駕籠にのり又は杖を引てこの坂を往来したれば、世の人いつとなくかゝる名をおはせたりと」
 施薬処は、施薬院とも呼ばれた小石川養生所のことです。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』のモデルとなった小川笙船(しょうせん)の建言により、享保7年(1723)、幕府が貧者のために開設しました。
 『改撰江戸志』は、施薬処ができるまで無名の坂だったとしていますが、小川笙船の孫で、小石川養生所を引き継いだ小川顕道は、文化11年(1814)の『塵塚談』 で、「養生所前への坂を皆人病人坂という、本名は鍋割坂と云なり。(略)我等八九歳のころにはもはや鍋わり坂というもの一人もなし、皆人病人坂と号す」 と書いています。
 小川顕道は、元文2年(1737)生まれなので、延享(1744~48)の頃には鍋割坂の名は忘れられていたということになります。『改撰江戸志』は、安永4年(1775)から寛政8年(1796)の間に成立したとみられるので、著者の瀬名貞雄は、鍋割坂と呼ばれていたことを知らなかったのでしょう。
 また嘉永3年(1850)の『武江年表』享保7年の項にも、「小石川御薬園に養生所建(つ)、十二月より貧者の病者を停めて薬餌を与え給ふ、此所の坂を鍋割坂といひしが、これより後土俗病人坂といふ」と、病人坂以前は鍋割坂と呼ばれていたと書かれています。
 鍋割坂を含む御薬園と武家屋敷など付近一帯は、明治になって東京府の管轄となり、明治8年(1875)に文部省所轄の植物園、以降、東京帝国大学附属植物園に引き継がれ、 地図上から鍋割坂は確認できなくなります。


『新板江戸外絵図』(寛文11年、1671)の館林藩下屋敷付近(舘林宰相
殿の文字がある)を現在の地図に重ねたもの *国土地理院地図を加工

鍋割坂の誕生と遷り変わり

 この土地は、江戸時代前期、のちに5代将軍綱吉となる館林藩主・松平徳松の下屋敷でした。下屋敷となったのは承応元年(1652)のことです。
 それ以前は、白山神社、氷川神社(簸川神社)、女体社などの社地であったと考えられていますが、詳しくはわかっていません。
 下屋敷は白山御殿とよばれるようになりますが、延宝8年(1680)、綱吉が将軍となるとともに館林藩は廃藩となり、正徳3年(1713)には白山御殿は廃止されます。
 遡る貞享元年(1684)、白山御殿北詰に麻布御薬園が移され、7代将軍吉宗の享保6年(1721)、御薬園は御殿地全体に拡張され、翌年、この中に施薬院(小石川養生所)が設けられることになります。
 御殿地内に造られた武家屋敷、大名屋敷とともに御薬園の敷地は増減を繰り返しますが、 この様子は御府内場末往還其外沿革図書で確認することができます。

 年代順にこれを追うと、御殿地内に造られた道の盛衰がわかります。
 御殿地の周縁、南東にある御殿坂と北西にある氷川坂は延宝(1673~81)から幕末まで現在と同じようにあります。
 網干坂は江戸前期、坂上は氷川神社までしかなく、現在の階段状の参道がそれだったことがわかります。今の網干坂になるのは元禄11年(1698)の地図からで、しかも坂上の通りに直接、突き抜けていません。現在と同じようになるのは明治になってからのことです。
 正徳4~6年(1714~6)の地図では、このほかに3本の坂道を見ることができます。
 鍋割坂が登場するのはこの地図からで、坂上から坂下まで直線になっていますが、施薬院開設後の享保7年(1722)以降の地図では崖から下はやや北に曲がっています。
 正徳3年(1713)の地図に鍋割坂はないので、『塵塚談』にいう古の鍋割坂も、30年ほどの間の名称でしかなかったことになります。

御府内場末往還其外沿革圖書・延宝年中(合成)。左から氷川坂、名前不祥屋敷、道、舘林殿、御殿坂。館林藩下屋敷内に鍋割坂は描かれていない

同・元禄11年。氷川社の右に現在の網干坂が造られている。館林藩下屋敷が拡張されているが、鍋割坂はまだない

同・正徳4~6年。館林藩下屋敷は大名・武家屋敷地に。左から4本目が鍋割坂。3本目の道との間に御薬園がある

同・享保7年。鍋割坂の坂下が北(左)に移動している。御薬園はほぼ現在の植物園の大きさに拡張。鍋割坂の途中、右に施薬院が造られている

ま・めいぞん(坂・グルメ)

現在の地図に重ねた『御府内場末往還其外沿革図書』の鍋割坂
 *国土地理院地図を加工

鍋割坂の推定位置。 *国土地理院地図を加工
赤丸:小石川養生所の井戸、青丸:精子発見のイチョウ

小石川養生所の井戸跡。裏手に鍋割坂に通じる道があった

施薬院とともに消滅した鍋割坂

 明治維新によって施薬院はなくなり、その前の道も、それに続く鍋割坂も消滅してしまいました。
 鍋割坂が消滅した時期は不明ですが、明治39年(1906)の『新撰東京名所図会』は、「坂路今や杜絶して、南北の境界、之を失へり」 と書いています。
 さて、この鍋割坂を通る道ですが、江戸期の地図から、丘の上の道は精子発見のイチョウと養生所の井戸を結ぶ線のすぐ西にあったと推定されます。 坂下は小石川消防署裏付近だったのでしょうか。

鍋割坂の名前の由来

 ところで『御府内備考』は、『改撰江戸志』を引用して、小石川植物園の北西、現在の不忍通りにある千石三丁目交差点に下る坂道、猫又坂を鍋割坂と紹介しています。これが御薬園の鍋割坂を誤って記したものかどうかは不明です。『小石川志料』は、鍋割坂の所在は確かでないと書いています。
 『改撰江戸志』の中に「此所にて鍋を落してわりたるものありしかば、かゝる名のおこれりと」と鍋割坂の名の由来が書かれていますが、やや単純すぎるかもしれません。
 千代田区には九段南と隼町に、同じ鍋割坂と名の付いた坂道があります。この坂名は、鍋を伏せたような台地を割って切り通した形に由来するといいます。
 御薬園の鍋割坂の由来も同様に考えていいのかもしれません。翻って猫又坂も同じように白山台を切り通した坂道であることは興味深いところです。


中央下にアサリサカ。『東都小石川絵図』

浅利坂の推定位置(桃) *国土地理院地図を加工

御府内往還其外沿革圖書・宝永2年。浅利坂はまだない

同・宝永6年。切支丹屋敷南端に浅利坂が造られている

明治16年地図に描かれている浅利坂。周囲は畑になっている

町の境界線(中央)となった浅利坂(明治29年地図)

浅利坂があった住宅地。坂下付近

住宅地の中に消えた浅利坂

 浅利坂は、現在の小日向1丁目14番にあった坂で、嘉永7年(1854)の東都小石川絵図にアサリサカと記されています。
 明治中期までの地図には浅利坂の存在を確認することができますが、明治29年(1896)の東京市小石川全図では消滅し、以後は第六天町と茗荷谷町の地境としてだけ、その痕跡が残ります。現在の地番でいうと小日向1丁目14番8号と9号の境、16号と17号の境がこれに相当します。
 御府内往還其外沿革図書の地図からは、浅利坂が江戸前期までは火消御役屋敷の敷地であったこと、宝永2~6年(1705~9)に新しく造られた坂道であることがわかります。
 約90年間、存在した坂道ですが、名称の由来についてはわかっていません。明治39年(1906)の『新撰東京名所図会』は、「坂名は昔此地に住居せしものゝ苗字を取るといふ」と書いていますが、御府内往還其外沿革図書の地図から、それを確認することはできません。
 浅利坂が廃道となった理由は不明ですが、浅利坂が描かれている明治16年(1883)の地図からは、幕末まで武家屋敷地であった周囲が畑になっていることがわかります。
 浅利坂が廃道となった明治29年(1896)の地図では、浅利坂の北に代わりとなる新しい道が造られていることから、区画整理が理由だったのではないかと推察できます。
 武家屋敷地が畑に変わったことについて、真山青果は「明治初年の授産勤農事業が明治新政府の新政策として実行された」結果だとしています。 授産勤農事業とは、明治維新によって失業した士族に、土地の開墾と農業への就業を奨励したことです。
 この土地が区画整理されて、新道を通すともに浅利坂が廃止になったのではないでしょうか。新しくできた道が、現在の切支丹坂です。

(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

真山青果 (まやませいか)

 明治から昭和の劇作家・小説家。明治11年(1878)、仙台に生まれ、上京して小栗風陽(おぐりふうよう)に師事、自然主義作家として認められますが、不祥事から文壇を去り、松竹に入社して劇作家となりました。代表作に、戯曲『玄朴と長英』『元禄忠臣蔵』『平将門』、小説『南小泉村』があります。 昭和23年(1948)没。

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