千川が埋め立てられた昭和15年の地図
千川通りの道路計画が二重の赤線で示されている。川は植物園付近まで暗渠になり、氷川下町・丸山町・巣鴨町はまだ残っている |
富嶽三十六景・礫川雪ノ旦(左上に題) |
礫川牛込小日向絵図(右に題) |
礫川小学校(小石川2丁目) |
礫川公園(春日1丁目) |
小石川極楽水にある宗慶寺(小石川4丁目)
了誉聖冏が草庵、無量山寿経寺を開いたといわれる地に建つ |
消えた川の行方
小石川台と白山台の谷を流れていた小石川は、昭和9年(1934)に埋め立てられて暗渠になります。
埋め立てられた小石川の上を通っている道路が、現在の千川通りです。
「小石川は江戸川の支流で、通稱(称)を千川と云ふ。源を長崎町に發し上流を谷端川と呼び、西北から迂回して丸山町で本區に入り、千川となって林町白山御殿町臺(台)地と大塚臺地との間を南東に流れ、柳町附近で本郷臺下より來る指ヶ谷の溝(どぶ)水を併せ、南流して小石川町で神田川に注いでゐ(い)る」
昭和10年の『小石川區史』には、小石川について、豊島区長崎付近から南大塚までの上流を谷端川、文京区内を千川と呼んでいたと書かれています。
丸山町は豊島区と接する現在の千石3丁目の旧町名です。林町白山御殿町台地は白山台のことで、白山御殿町は小石川植物園、林町は植物園北の千石2~3丁目にありました。大塚台地は小石川台のことで、柳町は小石川1丁目にある柳町小学校近辺の旧町名です。
江戸川は神田川のことで、飯田橋より上流を指していました。
現在、千川通りと呼ばれているのは、文京区内の千石3丁目交差点から富坂下交差点までで、旧河川名の名残です。
千川通りの下には千川幹線と呼ばれる基幹の下水道が流れていて、今も地下河川としての役目を果たしています。
小学校と公園に名を残す礫川
葛飾北斎の『富嶽三十六景』には「礫川雪ノ旦」と題した浮世絵があります。一面雪景色の中で料亭の二階から富士山を望んでいる様子が描かれています。
「礫川雪ノ旦」は「こいしかわゆきのあした」と読みますが、礫川は小石川のことです。礫は小石のことで、コイシカワを礫川とも書いていました。
江戸後期の小日向繪圖には、やはり礫川の字が使われています。
礫川はレキセンとも読んで、明治6年開校の礫川小学校と、東京メトロ後楽園駅隣に昭和40年に造られた礫川公園 にその名を残しています。
いにしえの小石川
文献上で小石川が初めて登場するのは道興の紀行文『回國雜記』で、文明19年(1487)のことです。
『回國雜記』を遡ること40年、文安5年(1448)の『熊野領豊島年貢目録』には「五百文小石河四人」と、小石河の文字が見えます。
応永27年(1420)の『武蔵国江戸之書立』から、これが小石川のことを指していると考えられています。書立は箇条書きにした文書のことです。
鎌倉時代より以前についてはよくわかっていませんが、室町時代になると浄土宗の拠点が小石川に創られ、応永22年(1415)に了誉聖冏(りょうよしょうげい)が伝通院の前身となる草庵、無量山寿経寺を小石川極楽水に開いて、この頃から小石川の「有史」が始まります。
『回國雜記』の道興が小石川を訪れた翌年、湯島を訪れた僧侶、尭恵(ぎょうえ)は『北国紀行』の中で、野梅が盛んに薫る寒村だと書いていて、その頃の小石川近辺が武蔵野のまだ開けていない土地だったことがわかります。