文京の坂道

目白台の坂道

三丁目坂  幽霊坂(目白台1丁目)  豊坂  小布施坂  日無坂  幽霊坂(目白台2丁目)  薬罐坂  清戸坂
1-3丁目の坂 豊川稲荷神社の坂 日本女子大東の坂 腰掛稲荷神社の坂 桂林寺の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 三丁目坂(目白台3丁目)

三丁目坂。首都高速5号池袋線高架下付近から
音羽通り大塚警察署前交差点から、首都高速5号池袋線の高架下を通り、目白台に上っていく坂道です。坂下がかつて音羽町3丁目と4丁目の間だったことが坂名の由来です。
明治16年(1883)の地図には、三丁目坂の文字が見えます。

明治16年。中央を左右に横切るのが三丁目坂。弦巻川付近に三丁目坂と書かれている

明和9年。中央、左右に通る道が3丁目坂。組屋敷・武家屋敷が多い
護国寺の創建は天和元年(1681)で、元禄10年(1697)、護国寺領となって町屋が起立されましたが、家が建たなかったために音羽という江戸城奥女中が拝領し、それが町名になったといいます。再び町屋となったのは享保15年(1730)のことで、この頃より町屋が形成されたと考えられます。
明和9年(1772)の江戸図には音羽町三丁目と四丁目の間に目白台に上る道が描かれており、この頃にはすでに三丁目坂があったことが確認できます。
江戸後期の『御府内備考』には、長さ50間(約91メートル)、幅9尺余り(約3メートル)の坂と記されており、坂上には武家屋敷、組屋敷があったといいます。明和9年江戸図からもそれがわかります。
現在も坂上は住宅街になっています。

音羽通りから坂下。首都高速高架が見える

坂上から
 幽霊坂(目白台1丁目)

坂上から。右が目白台運動公園、左が和敬塾
目白通りから、和敬塾と目白台運動公園の間、目白台1丁目20と22の間の細い道を、神田川に向かって下りていく坂道です。
高い塀と樹木に挟まれ、人通りも少ない、幽霊坂の名に相応しい、薄暗く寂しい道です。
坂下には肥後細川庭園があり、江戸時代は大名下屋敷、幕末には熊本藩細川家下屋敷となりました。

坂の途中。左が目白台運動公園南出入口

坂下。右が細川庭園

坂下にある細川庭園

雜司ヶ谷音羽繪圖。
細川越中守、小笠原信濃守の間の道

明治16年・陸軍地図。
坂下右・細川邸が現在の細川庭園
安政4年(1857)の『雜司ヶ谷音羽繪圖』には、細川家下屋敷とその西に幽霊坂に当たる道が描かれています。
明治16年(1883)の陸軍地図には、同様に細川邸と幽霊坂に当たる道が描かれており、この道が、現在の目白台運動公園南出入口付近で小さなクランクになっていたことがわかります。
嘉永5年(1852)の『御府内場末往還其外沿革圖書』には「坂」とだけ記されていますが、延宝年中(1673~81)の図にこの道は坂下しかなく、天保5年(1834)の図から坂上までが描かれています。
目白台運動公園南出入口から目白通りまでの幽霊坂は、現在も私有地です。

御府内場末往還其外沿革圖書。延宝年中

天保5年。坂上まで道が通っている

嘉永5年。坂の右が細川越中守屋敷
 豊坂(目白台1丁目)

坂上。左は日本女子大学の施設
目白通りの日本女子大前交差点を南に下りる坂で、二度カーブして、坂下は豊島区高田1丁目に突き当たります。

坂上から最初のカーブ

坂上から二番目のカーブ

坂下

明治40年。豊坂はまだない

明治43年。小布施邸の右が豊坂

明治44年。豊川町の文字の左が豊坂

雜司ヶ谷音羽繪圖。大岡主膳正が岩槻藩下屋敷
豊坂ができたのは明治後期のことで、明治40年(1907)の小石川區全圖にはありませんが、明治43年(1910)の地図には豊坂が描かれています。
豊坂の名称について、文京区教育委員会は坂下から東に100メートルほどのところにある豊川稲荷神社が由来だとしています。
豊川稲荷神社がある地は、江戸時代後期、岩槻藩大岡家下屋敷でした。岩槻藩大岡家は三河国西大平藩大岡家と同族で、大岡越前守で知られる西大平藩初代藩主・大岡忠相は、三河国にある豊川稲荷を信仰し、現在の千代田区霞が関にある江戸屋敷にその分霊を勧請しました。

豊川稲荷神社の狐。奥が社

神社内の石仏。左は正徳5年のもの
豊川稲荷は仏教の神・吒枳尼天を祀っている曹洞宗の寺院で、稲荷神を祀る神道の稲荷神社とは異なります。したがって目白台の豊川稲荷神社も、本来は神社ではなく、三河国を発祥とする岩槻藩大岡家が、大平藩大岡家同様に屋敷内に勧請した豊川稲荷と考えられます。
現在の豊川稲荷神社境内には3体の石仏が置かれていて、内2体は正徳5年(1715)と宝暦8年(1758)のものです。もとからあったものかどうかはわかりませんが、豊川稲荷との繋がりを感じさせます。
江戸から明治の古地図からは豊川稲荷の存在を確認できませんが、地名としての高田豊川町が誕生するのは明治2年(1869)のことです。それまでは小石川四ツ家町と呼ばれていました。高田豊川町はその後、昭和41年(1966)まで存在していました。
高田豊川町の由来について、明治43年の礫川要覧は、豊川(稲荷)社と高田(村)の名を併せて町名としたと書いています。
一方、明治40年の東京名所図会は、豊川の名が何に拠るのか詳らかではないとしています。
 小布施坂(目白台1丁目)

坂上から。坂下は神田川に続く
目白通りの目白台一丁目遊び場の横から南に下る細い坂道で、坂下は神田川へと続いています。小布施坂の東から神田川にかけては、現在、環状4号線の道路建設が行われています。

緑色フェンス右側が環状4号線の敷地、左が小布施坂

坂下から

中間部。階段のある急坂

環状4号線(目白台)整備計画図。右が護国寺方面の不忍通り、左が神田川と早稲田方面。中央、トンネルの上方が小布施坂

日本女子大附属豊明小学校の左が現在の小布施坂(出典:国土地理院)
文京区教育委員会によると、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いたといいます。また、坂名については、明治時代に小布施新三郎の屋敷がこの一帯にあったからだといいます。
小布施新三郎は株取引を行う証券業者で、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を通して莫大な資産を得ました。
明治43年(1910)の地図には豊坂と日無坂の間に小布施邸があり、現在の小布施坂とほほ同じ位置に間道が描かれています。
遡って、明治16年(1883)の地図に小布施邸はなく、小布施坂に相当する間道がありますが、坂上は大きく東に曲り、現在の日本女子大学附属豊明小学校内に抜けています。また、坂下も東にずれています。

明治43年。小布施邸の左に小布施坂に相当する間道がある

明治16年。池を回るように丘から下りる間道がある
さらに、嘉永5年(1852)の『御府内場末往還其外沿革圖書』と安政4年(1857)の『雜司ヶ谷音羽繪圖』には、稲垣摂津守下屋敷と、西を日無坂に接する大岡主膳正下屋敷が描かれていますが、両屋敷地の境に道は描かれていません。また、境界も小布施坂よりは東にあるように見えます。
あるいは、両屋敷地の境とは、稲垣摂津守下屋敷の南の境界をいっているのでしょうか。

雜司ヶ谷音羽繪圖

御府内場末往還其外沿革圖書
 日無坂(目白台1丁目・豊島区高田1丁目)

坂上から。急な階段状の坂になっている
目白通りと不忍通りが交わる目白台二丁目交差点から入り、目白台1丁目と豊島区高田1丁目の区境を南に下る坂道が日無坂です。坂上は豊島区の富士見坂と合流しています。
安政4年(1857)の『雜司ヶ谷音羽繪圖』に大岡主膳正下屋敷の西にヒナシサカがあり、嘉永5年(1852)の『御府内場末往還其外沿革圖書』でも確認できることから、日無坂が江戸時代後期にはあったことがわかります。

雜司ヶ谷音羽繪圖。ヒナシサカの文字

御府内場末往還其外沿革圖書
明治40年の『東京名所図会』には、「其の路甚だ狭隘にして、小車を通ずるを得ず。僅かに一人づつの歩を容るるのみ」と書かれていて、現在も歩行者だけが通ることのできる階段状の狭い急坂になっています。
『東京名所図会』は、左右に樹木などが繁っていて日が差さないので、日無坂と呼ぶのではないかと書いています。日無坂は東坂とも呼ばれています。

坂上。右が富士見坂、左が日無坂

階段状の中間部

坂下から
 幽霊坂(目白台2丁目)

坂上から。右が日本女子大学
日本女子大学の西にある、小さな緩やかな坂道が幽霊坂で、遊霊坂とも書きます。坂上は目白通り、坂下は不忍通りです。
小さな坂道ですが歴史は古く、延享から宝暦(1744~1764)頃の江戸図に描かれています。また、安政4年(1857)の『雜司ヶ谷音羽繪圖』の本住寺の東の道に、ユウレイサカと書かれています。

延享から宝暦頃の江戸図。本住寺の東が幽霊坂

雜司ヶ谷音羽繪圖。ユウレイサカの文字がある
明治40年の『東京名所図会』には、幽霊坂から疎籬(あばらまがき)を隔てて本住寺の墓地が見えるので、土地の人がそう呼んできた、と坂名の由来について書いています。疎籬は、まばらに結った隙間の多い垣根のことです。
本住寺は、弘安4年(1281)創建と伝えられる日蓮宗の寺で、現在はありませんが、明治時代の地図にその存在を確認できます。

坂下から
 薬罐坂(目白台2丁目・3丁目)

住宅街にある薬罐坂。坂上から
目白台2丁目と3丁目の境、三丁目坂からの道と交差する付近から不忍通りに向かって北に下りる坂道です。住宅街の道で、付近には戦前に建てられた古民家があります。

不忍通りに出る坂下

明治末から昭和にかけて建築された村山家住宅

御府内場末往還其外沿革圖書。中央南北に走るのが薬罐坂。その北に鬼子母神出現所がある
坂名は、昔、野狐のことを野干(やかん)と呼んだことから、人を化かす野狐が出没する坂、やかん坂に由来するといわれます。薬罐は同音の語句を当てたものです。同じように夜寒坂とも書かれます。
嘉永5年(1852)の『御府内場末往還其外沿革圖書』には藥鑵坂(薬罐坂)の文字が見えます。

 清戸坂(目白台2丁目)

坂上の目白台二丁目交差点から護国寺方面
不忍通りの護国寺西交差点から、目白通りと交わる目白台二丁目交差点まで緩やかに上っていく坂道です。
清戸(きよと)坂の名称の由来について、東京都の標識は、坂上を横切る目白通りが、江戸時代に清戸道(きよとみち)と呼ばれていて、この清戸道へ護国寺から上る坂道なので、清戸坂と呼んだとしています。清戸道は、将軍が現在の清瀬市中清戸にある鷹場に通う道として造られたとしています。

正保年中江戸絵図。左下から右の道が清戸道、左下から分岐して右上への道が清戸坂

国土地理院地図に新板江戸外絵図を重ねたもの。左上から右下にかけての道が清戸道、
中央から分岐して右上への道が清戸坂。現在の目白通り、不忍通りとほぼ重なる
中清戸に建てられたのは尾張徳川家の御鷹場御殿で、延宝4年(1676)のことと考えられています。それ以前は現在の東久留米市にありました。
延宝以前、正保元年(1644)年頃の江戸を描いた正保年中江戸絵図、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図には、清戸道に相当する道が描かれていて、中清戸での鷹狩以前に、この道がすでにあったことを窺わせます。
小平市の名主だった小川家文書には、「(尾張徳川様が)新しい御鷹場を拝領され、御殿を清戸村へ移されたので、道筋をお調べになって、雑司ヶ谷を通っておいでになる」と書かれていて、延宝以降に、清戸道が尾張徳川家の鷹狩の往還に使われたことがわかります。

清土鬼子母神

坂下から坂上へ

雜司ヶ谷音羽繪圖。清戸坂の北に清土村百姓町と書かれている
正保年中江戸絵図には清戸坂も描かれていて、江戸時代前期からあったことがわかります。
坂下にある現在の護国寺には御薬園、幕府の薬草園がありました。
清戸坂は清土(せいど)坂とも呼ばれ、坂道の北側に、雑司ヶ谷清土村があったことが由来だとされています。

東京都の標識
 1-3丁目の坂(目白台1-3丁目)

豊川稲荷神社の坂

目白台1丁目の幽霊坂と豊坂の間にある坂道で、坂下は神田川に架かる豊橋に出ます。坂の途中に豊川稲荷神社があります。
一帯は江戸後期、岩槻藩大岡家の屋敷地内で、大正末から昭和初めにかけて、宅地造成によって出来た道です。

坂上から。坂下は神田川に続く

豊川稲荷神社

日本女子大東の坂

日本女子大学の東の塀に沿った坂道で、目白台2丁目4から不忍通りに下りていきます。
坂の東には住宅街が広がっています。

坂上。坂下は不忍通り

腰掛稲荷神社の坂

薬罐坂下から、目白台3丁目を東に上る細い坂道で、坂上に腰掛稲荷神社があります。
腰掛稲荷神社の創建は不詳ですが、徳川家康または家光が鷹狩の際に腰掛けて休憩した場所に、祠を建てたのが始まりとされています。
江戸後期の『御府内場末往還其外沿革圖書』、『雜司ヶ谷音羽繪圖』には、坂道と腰掛稲荷神社が描かれています。

坂上から。坂下は不忍通り

腰掛稲荷神社

腰掛稲荷にある菊花石

3丁目26・25の間の階段

桂林寺の坂

鉄砲坂の北にある坂道で、音羽通りから桂林寺への参道になります。
桂林寺は寛永5年(1628)創建の臨済宗妙心寺派の寺院で、現在地に移転したのは、享保12年(1727)のことです。嘉永5年(1852)の『御府内場末往還其外沿革圖書』には、この参道が描かれています。

鉄砲坂から桂林寺前に下りる坂

桂林寺門前
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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