弥生・根津の坂道
坂上から坂下。右側の石垣が東京大学本郷キャンパス
言問通りと交差する弥生坂上から、東京大学本郷キャンパスに沿って不忍池方面に下る、なだらかで長い坂で、途中に東京大学弥生門、弥生美術館があります。
暗闇坂がある一帯は、江戸時代は
加賀藩と
水戸藩の大名屋敷地で、弥生門周辺には両藩の地境の石垣が残っています。
「江戸本郷の加賀屋敷」から抜粋。ポイント4が暗闇坂に沿った加賀藩・水戸藩地境の石垣。坂上はそれぞれ両藩の敷地内だった
明和7年(1770)の本郷谷中小石川丸山絵図。水戸藩の地境に石垣のようなものが描かれている
明治11年。加賀藩跡地に大学医学部と書かれている。上は水戸藩跡地
明治16年。文部省用地と東京共同射的会社の境に暗闇坂の原型が確認できる
明治29年。言問通りと暗闇坂ができている
東京大学総合研究博物館の「加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡」展図録所収の宮崎勝美「江戸本郷の加賀屋敷」には、両藩の地境と現在の暗闇坂を重ねた図が示されています。この図からは、現存する石垣の坂上では、暗闇坂は両藩の敷地をまたがっており、ここに道があったとは考えられません。
この大名屋敷地に、東京大学医学部前身の
東京医学校が移転したのは明治9年(1876)11月で、明治11年(1878)の大日本東京全図本郷区には、加賀藩上屋敷が大学医学部、水戸藩中屋敷が陸軍省用地・警視局用地になったことがわかります。この地図には、暗闇坂も弥生坂もまだありません。
明治16年(1883)の地図には、大学用地と
東京共同射的会社の境に、現在の暗闇坂に相当する道のようなものができています。明治29年(1896)の地図に暗闇坂が描かれていることから、この頃までに道が整備されたと考えられます。
加賀藩・水戸藩地境の石垣
坂下。左が東京大学本郷キャンパス
坂下から坂上。左手の森は東京大学浅野キャンパス
不忍通りの根津一丁目交差点から、言問通りを本郷通りに向かって西に上る坂道です。
坂上の南は東京大学本郷キャンパス、北は弥生キャンパスです。
明治11年。水戸藩跡地に陸軍省用地・警視局用地と書かれている。弥生坂はまだない
明治29年。弥生坂ができているが、坂下は未完成
大正5年。坂下が言問通りと繋がっている
弥生坂のある場所は、江戸時代は水戸藩中屋敷の敷地内で、明治11年(1878)の大日本東京全図本郷区では、警視局用地になっています。
明治29年(1896)の地図には、現在の弥生坂の位置に道が通っていますが、坂下はまだ言問通りに繋がっていません。大正5年(1916)の地図では繋がっていて、明治末から大正の初めに坂下が完成したと考えられます。
弥生坂の名称は、坂のある向ヶ岡弥生町に由来します。この地が向ヶ岡弥生町と名付けられたのは明治5年(1872)のことです。
明治40年(1907)の『東京名所図会』は、向ヶ岡は昔からこの辺りの呼び名で、弥生は、弥生云々と記された歌碑が水戸藩中屋敷にあったからだと書いています。
この碑は「向岡記」と題された水戸藩主・
徳川斉昭の随想と和歌で、向ヶ岡の伝説や自然について書かれています。
向ヶ岡の名称の由来ついては、江戸時代中期の『江戸砂子』に、奥州街道から不忍池を隔てて向こうに見える丘、ということから名付けられたと書かれています。
「向岡記」には、文政11年(1823)のやよひの十日に、満開の桜の木の下に碑文を書いたと記されています。
東京大学浅野キャンパスにある向岡記碑
坂上から。左は東京大学弥生キャンパス
弥生坂は鉄砲坂とも呼ばれていました。明治10年(1877)から11年(1888)まで、坂の南に
東京共同射的會社射的場があったことによります。
坂上から坂下。坂下は不忍通りの地下鉄千代田線・根津駅方面に繋がる
弥生坂の北、根津小学校の南にある坂です。
文京区教育委員会によれば、明治時代、坂上に東京大学の外国人教師の官舎があり、坂を上り下りしたことから、異人坂と呼ばれるようになったといいます。
明治16年。左端の崖が異人坂のある場所で、道はまだない(右上が谷中方面)
異人坂のある向ヶ岡弥生町は、江戸時代は
水戸藩中屋敷で、明治になって官有地となりました。
異人坂ができたのは、明治後期と古地図から推測できます。
異人坂のある辺りは住宅地で、異人坂の名に相応しい、風情のある坂道です。
坂下から
明治40年。根津清水町に下りる崖際の道が
途切れているように見える
明治43年。崖際の道(異人坂)が繋がっている
現在の地図。かつての異人坂は右手の道(下の
写真)を上ってから、左にジグザグに下りて
いた(出典:国土地理院)
左が現在の異人坂。右に上りの坂道がある
階段上から。途中で左に折れる
弥生2丁目の高台から根津1丁目に下りていく、くの字に曲った階段です。
階段下から北に根津神社、西に東京大学野球場、南に根津小学校がありますが、塀や建物に隠れています。周辺には住宅やマンションなどが建ち並んでいます。
小石川谷中本郷絵図。
お化け階段のある崖上は水戸屋敷だった
明治12年。水戸屋敷は警視局用地になるが、
階段はまだない
明治29年。向ヶ岡弥生町から根津須賀町に
下りる道ができている
お化け階段のある場所は、江戸時代は
水戸藩中屋敷と根津門前町の境にある崖で、古地図からは水戸屋敷が官有地に変わった後、明治の中頃に崖の上と下を繋ぐ道ができたことが確認できます。
文京区によると、上りと下りで段数が異なったことから、お化け階段と呼ばれました。段数を数えると、下りは1段少なく見えてしまうからだといいます。
現在は拡幅されて新しい階段がついています。
階段下から。左が古い階段
階段下。一番下に小さな段差がある
上から階段下を見ると、段差が見えない
坂下から。右に根津神社の表参道口がある
根津神社の南を西から東へ、表参道口に下りていく坂です。
新坂のある場所は、江戸時代、水戸藩中屋敷と
根津神社の境にある崖で、古地図から明治の中頃に崖の上と下を繋ぐ道ができたことがわかります。
明治12年。坂はまだ出来ていない(左上が根津神社、右が門前町)
明治29年。新坂が出来ている(左が坂上)
文京区教育委員会によれば、明治になって新しく造られた坂なので、新坂と呼ばれたといいます。
また、権現坂、S坂とも呼ばれ、根津権現(根津神社)の表門に下る坂であることから権現坂、森鴎外の小説『青年』に「割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている」と書かれていることが、S坂の由来としています。
明治40年(1907)の『東京名所図会』は、権現坂と呼んでいます。
坂上から。左が根津神社
根津神社表参道口
坂下から。坂を上った左に根津神社がある
根津神社の北参道・西参道口に面した坂で、名称は根津神社の裏門があることに由来します。
坂上は本郷通り向丘一丁目交差点、坂下は不忍通り千駄木二丁目交差点に繋がっています。坂の北側には日本医科大学付属病院があります。
元禄13年(1700)。甲府中納言殿が綱豊の
屋敷地。裏門坂に相当する細い線は間道か?
正徳2年(1712)。根津大権現の北に道(根津
裏門坂)が出来ている
根津神社が、本郷図書館などのある千駄木・団子坂上の旧社地から、現在の地に遷座したのは宝永3年(1706)のことです。
以前は甲府徳川家・綱豊の屋敷地でしたが、宝永元年(1704)、綱豊が将軍後継のために第5代将軍・綱吉の養子となり、家宣に改名して江戸城西丸に移ったため、屋敷地を家宣の産土神(うぶすながみ)である根津権現の社地に寄付しました。宝永2年(1705)に造営が始まり、翌年竣工しました。
坂上から。右の森が根津神社
根津神社社殿
古地図からは、根津神社造営以前に根津裏門坂はなく、間道のようなものが描かれているだけです。根津裏門坂が登場するのは竣工後で、根津神社造営の際に整備されたと考えられます。
東大浅野キャンパス前の坂
弥生坂のある言問通りから南東に下る坂です。東京大学工学部などのある浅野キャンパスの門の前を通ります。
浅野キャンパスの構内には
弥生二丁目遺跡があり、坂上には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑があります。
坂上から。左が東京大学浅野キャンパス
坂下は、不忍池のある台東区池之端です。
東大浅野キャンパス内の弥生二丁目遺跡
「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑
2丁目4・7の間の坂
東大浅野キャンパス前の坂と暗闇坂の間にある坂です。住宅街の中をクランク状に曲っていて、坂上は言問通りの弥生坂に繋がっています。
坂上から
(文・構成) 七会静