湯島の坂道
坂下から坂上方向。右の木立が湯島聖堂、左に神田川がある
神田川に沿って外堀通りを、お茶の水交差点から昌平橋交差点に向かって下る坂です。北側に東京医科歯科大学、
湯島聖堂があります。
水道橋から御茶の水、浅草橋を経て隅田川に合流する神田川の流路は、江戸時代初期に開削されたもので、江戸時代以前の
平川(神田川)は、水道橋付近から南流して、大手町で
日比谷入江に注いでいました。
正保年中江戸絵図。神田川北岸に道が描かれている
坂上から。右に神田川があり、土手道だったことがわかる
江戸時代後期の地誌『江戸名所図会』には、慶長年間(1596~1615)に
水戸藩邸の前の堀を東に掘り続け、その土で土手を築いたと書かれています。
また、その後、
仙台藩により、舟が通るように川の拡幅工事が行われたといいます。その時期を明暦から万治(1655~61)としていますが、
万治年録、
寛文年録には万治3~4年(1660~61)に普請されたと書かれています。
『台徳院御実紀』などからは、神田川が最初に開削されたのは元和2年(1616)のことで、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図には、相生坂に相当する道が描かれています。
『台徳院御実紀』からは、元和2年から遅くとも元和6年(1620)秋までには堤が築かれ、道ができていたと考えられます。
相生坂とは一般に対になった坂のことで、並行していたり、二つに分岐したりする坂をいいます。東京都内には、ほかに相生坂と呼ばれる坂がいくつかあります。
神田川北岸の相生坂の対岸にある、千代田区の淡路坂にも相生坂の別称があります。文京区教育委員会は、この二つの相生坂を対にして、相生坂の名称の由来としています。
二つの相生坂を坂下で結ぶ昌平橋は、かつて相生橋と呼ばれていました。この橋が昌平橋と呼ばれるようになるのは、湯島に
孔子を祀る聖堂(
孔子廟)が造営される、元禄3年(1690)以降のことです。昌平の名は、孔子の故郷である魯の昌平郷に由来します。
寛文11年(1671)新板江戸外絵図。あたらしばし(相生橋)と書かれている
元禄10年(1697)江戸図。筋違橋と並んでアヒヲヒハシと書かれている
相生坂の坂下に橋が架けられたのは江戸時代初期で、当初は一口(いもあらい)橋と呼ばれ、淡路坂も一口坂と呼ばれていました。
一口の名は、江戸城内にあった一口稲荷(太田姫稲荷)を、駿河台に遷座したことが由来と考えられています。現在、
太田姫稲荷神社(旧称・一口稲荷神社)は駿河台1丁目にありますが、それは昭和6年(1931)以降のことで、それ以前は淡路坂上にありました。
一口橋が、その後、相生橋とも呼ばれていたことは、『江戸名所図会』『御府内備考』
『武江年表』などに書かれていて、元禄年間(1688~1704)の地図からも確認できます。
この橋は、日本橋からの街道が、
日光・
奥羽街道と
中山道に分かれる分岐点にあります。また、聖堂前の道と中山道との分岐点でもあります。
あるいは、これが相生橋の名の由来で、二つの相生坂の坂下にあるから相生橋と呼ばれるようになったのではなく、相生橋が坂下にあったから、一口坂と聖堂前の坂が相生坂と呼ばれるようになった、と考えることもできます。
相生坂とも呼ばれる淡路坂
淡路坂上の一口稲荷神社跡
かつて相生橋だった昌平橋
現在の太田姫稲荷神社
江府名勝志。セウヘイ(ショウヘイ)坂の文字
東都富士見三十六景・昌平坂乃遠景。左に神田川が描かれている
明治16年。東京師範学校の前に昌平坂と書かれている
相生橋および聖堂前の坂(相生坂)が昌平橋、昌平坂と呼ばれるようになるのは、元禄3年(1690)の聖堂造営後のことです。
『御府内備考』は、『江戸志』を引用して、元禄4年(1691)2月2日、これまで相生橋、芋洗橋と呼んでいた橋を今後は昌平橋と呼ぶように、(幕府から)仰せ下されたと記しています。
また、『湯原日記』を引用して、元禄3年(1690)12月16日、聖堂の下前後の坂をこれからは昌平坂と呼ぶように、定められたと記しています。
この「聖堂の下前後の坂」が現在の相生坂を指すのかは不明で、同じような記述は江戸時代中期の『江戸砂子』などにも見られますが、古地図では、聖堂の東、現在は湯島聖堂の敷地に取り込まれた坂を昌平坂と記しています。
ただ、享保18年(1733)の『江府名勝志』は、相生坂をセウヘイ坂としており、また、歌川国芳の『東都富士見三十六景』には、昌平坂として相生坂が描かれていることから、江戸時代中期から近年まで、相生坂を昌平坂と呼んでいたことがわかります。
文献上、相生坂の名が登場するのは明治以降で、明治23年(1890)の『東京地理沿革誌』に「師範学校前通を東へ下れば相生坂あり、後に昌平坂と云へり」とあります。師範学校は昌平坂学問所(聖堂)の跡に建てられたもので、後の東京教育大学、現在の筑波大学の前身にあたります。
明治40年(1907)の『東京案内』には「南神田川に沿ひて東より西による坂を相生坂と云ひ」とあり、昌平坂に代って相生坂の名が定着したことがわかります。
坂上から。右が湯島聖堂の塀、坂下は相生坂
湯島聖堂の東、本郷通りから外堀通りに下る坂です。坂下は相生坂です。
明治40年(1907)の『東京名所図会』によれば、もとは無名の坂でしたが、寛政10年(1798)の聖堂再建の際に、これより西にあった昌平坂(旧昌平坂)が構内に囲い込まれたため、この道を昌平坂と呼ぶようになったといいます。
元禄4年に描かれた聖堂之画図。右に旧昌平坂がある
坂下から。左が湯島聖堂
天和3年(1683)江戸図。聖堂造営以前で、坂はない
元禄2年(1689)。聖堂造営後の旧昌平坂。「此辺昌平坂ト云」と書かれている
宝永1-4年(1704-7)御府内往還其外沿革図書。聖堂の東は旧昌平坂
宝永7-8年(1710-11)。旧昌平坂の東に現在の昌平坂ができている
天保4年(1833)。聖堂再建で旧昌平坂は消滅。現在の坂にシヤウヘイサカの文字がある
聖堂再建以前の古地図には、旧昌平坂の記載があり、延享5年(1748)の江戸図に昌平坂と記されています。
この旧昌平坂が登場するのは、元禄3年(1690)の聖堂造営前後のことで、天和3年(1683)の江戸図には、この道はまだありません。また、現在の昌平坂もありません。
天保4年(1833)の江戸図には、現在の道に昌平坂の名が登場しています。
江戸時代後期に編纂された
『御府内往還其外沿革図書』からは、この道が造られたのは宝永年間(1704~11)と推測できます。
いずれにしても、この頃に現在の昌平坂が造られたと考えられます。
昌平坂の名は、元禄3年(1690)に湯島に造営された聖堂に由来します。聖堂は、寛永9年(1632)、儒学者・
林羅山が上野忍ヶ岡に建てた
孔子廟を湯島に移設したもので、
孔子の故郷である魯の昌平郷から採られています。「聖堂の下前後の坂を今より昌平坂と唱ふべきよし定らる」と、江戸時代後期の『御府内備考』は書いていますが、これが旧昌平坂と相生坂のどちらを指すのかは不明です。
昌平坂には、団子坂の別名がありますが、由来はよくわかりません。
坂下の石標
坂上から。右が湯島聖堂の塀、左に神田明神がある
本郷通りを湯島聖堂前交差点から神田明神下交差点に下りていく坂です。北に
神田明神、南に
湯島聖堂があります。
正保元年(1644)頃とされる正保年中江戸絵図には、神田明神とその前に湯島坂に相当する道が描かれています。
正保年中江戸絵図。神田明神から本郷へは直線になっていない
寛文11年(1671)新板江戸外絵図。現在の形になっている
神田明神が、江戸城から神田台を経て現在の地に遷座したのは元和2年(1616)のことで、遅くともこの時には、湯島坂に相当する道があったのではないかと考えられます。
明治40年(1907)の『東京名所図会』には、湯島坂を「往昔より此名あり」としていて、享保18年(1733)の『江府名勝志』にはユシマサカの文字が記されています。
湯島坂には、明神坂、本郷坂の別名があります。
江府名勝志。ユシマサカと書かれている
坂下から
坂上から。谷の向こうに見えるのは横見坂
本郷通りから新妻恋坂(蔵前橋通り)に下る坂です。湯島1丁目7番と8~11番の間の道で、坂上には東京医科歯科大学があります。坂下は蔵前橋通りを挟んで横見坂の坂下と繋がっています。
正保年中江戸絵図。樹木谷坂はまだない
新板江戸外絵図。明暦大火後に広小路が造られた
江戸外絵図と国土地理院地図の合成。樹木谷坂は広小路より東になる
江戸方角安見図鑑
文京区教育委員会によれば、徳川家康が江戸入府をした当時、坂下の谷に樹木が繁茂していたことが坂名の由来だといいます。
樹木谷坂の存在は、正保元年(1644)頃の正保年中江戸絵図では確認できませんが、寛文11年(1671)の江戸外絵図では、現在の位置より西に、谷を挟んだ広小路が描かれています。
定火消屋敷があることから、広小路が明暦3年(1657)の大火後に設けられた
火除地であることがわかります。
延宝8年(1680)の『江戸方角安見図鑑』は、この広小路を「ゆしまの廣こうぢ」と呼び、「谷」を挟んで「受木山と云」と記しています。受木山は樹木山のことと考えられます。
御府内往還其外沿革図書 延宝年中(1673~81)
御府内往還其外沿革図書 天和3年(1683)
江戸時代後期に編纂された
『御府内往還其外沿革図書』の延宝年中(1673~81)の図には、この広小路が描かれています。天和3年(1683)の図では、広小路が消え、東の端に道ができています。
『御府内往還其外沿革図書』のその後の図を追っていくと、この道が樹木谷坂になったことになります。
しかし、実測を基に描かれた寛文11年(1671)新板江戸外絵図からは、樹木谷坂は明暦大火後の広小路よりも東に位置しています。また、天和2年(1683)12月28日の大火により、この一帯が再び延焼したことがわかっています。
天和4年正月。右に湯島天神、神田明神
貞享元年五月。中央が天和大火後の広小路
天和4年正月(1684)江戸図は、この一帯に「湯島より
天沢寺前まで広小路に成る」と書き入れていて、貞享元年5月(1684)江戸図は、湯島四丁目から湯島天神にかけて広小路が拡大したことを示しています。
『御府内往還其外沿革図書』が江戸時代後期に編纂されたことを考慮すると、天和3年(1683)の図が正確ではないことも考えられます。
江戸後期の『御府内備考』によれば、天和の大火後、元禄3年(1690)に聖堂が造営された後、宝永年間(1704~11)に湯島四丁目の町屋が開かれています。あるいは、その頃に樹木谷坂の道が造られたのかもしれません。
樹木谷坂には、地獄谷坂の別名があります。
江戸時代前期の『紫の一本』は、もとは地獄谷と呼ばれていたが、その名を忌みて樹木谷というようになったと書いています。
また、江戸時代後期の『御府内備考』の地獄谷の項には、「もと樹木谷なるを誤りてかく唱しかといへり」と書かれています。つまり、もとは樹木谷と呼ばれていて、江戸時代後期になって地獄谷と呼ばれるようになったのではないかということです。
樹木谷以前に地獄谷と呼ばれていたという
『紫の一本』の記述からは、樹木谷を先とする『御府内備考』の記述は誤りといえますが、あるいは、古くから二つの名称が併存していたのかもしれません。
樹木谷は、現在、新妻恋坂がある谷です。
『御府内備考』は、樹木谷について「(湯島)三丁目の横小路をいふ」とも記していますが、この道が現在の樹木谷坂を指していると思われます。
坂上から
妻恋神社の前を清水坂から東に下る坂です。坂下は昌平橋通りです。
新板江戸外絵図。妻コヒイナリ太神宮の文字がある。左上は神田明神
坂名の由来となった妻恋神社は、社伝などによれば、
日本武尊(やまとたけるのみこと)が陣営を張った
行宮(あんぐう)の跡に、日本武尊とその妃、
弟橘媛命(をとたちばなひめのみこと)を祀ったのが起源とされています。
『江戸名所図会』には、日本武尊が「吾妻はや」と弟橘媛を恋い慕ったという故事から、妻恋明神と名付けられたと書かれています。
妻恋神社の創建時期は不明ですが、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図には妻コヒイナリ太神宮が描かれています。
妻恋神社の祭神は日本武尊、弟橘媛命、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の三座で、倉稲魂命は稲の神、稲荷神です。『江戸名所図会』は、妻恋明神の創建の後に、稲荷が合祀されたのだろうとしています。
正保年中江戸絵図。上に神田明神、右下が湯島天神。
雲仙寺の下が今の妻恋坂で神社はまだない
『江戸名所図会』によれば、万治年中(1658~61)に回禄(火災)があって現在地に遷ったもので、往昔は妻恋台の下にあって、数度の兵火で荒廃、天正年中(1573~92)に再興されたといいます。
新板江戸外絵図および、正保元年(1644)頃とされる正保年中江戸絵図には、すでに妻恋坂が描かれています。享保17年(1732)の『新撰江戸砂子』に妻恋坂が出てくることから、万治以降、江戸中期までに、妻恋坂と呼ばれるようになったことがわかります。
また、『新撰江戸砂子』には大超坂の別称も紹介されています。
『東京名所図会』によれば、ここに大超和尚が開山した霊山寺があり、それが大超坂のいわれといいます。霊山寺は、明暦3年(1657)の大火で浅草に移転した後、本所に移り、現在に至っています。
正保年中江戸絵図には、霊山寺の名は見えませんが、坂が寺に挟まれていたことがわかります。
大超坂は、大長坂、大帳坂、大潮坂とも書かれます。
明治時代の妻恋坂
坂下
坂下から
蔵前橋通りをサッカーミュージアム入口交差点から、妻恋坂交差点に下りる広い坂です。坂上は本郷通り、坂下は昌平橋通りです。
新妻恋坂を含む蔵前橋通りは、関東大震災後の
帝都復興計画によって造られた道で、昭和3年(1928)の大日本職業別明細図には完成した新妻恋坂が描かれています。
坂名は、北に並行する古くからの坂道、妻恋坂に由来します。
大正13年復興計画図。赤い太線が計画道路。
中央縦の道が新妻恋坂(蔵前橋通り)
昭和3年大日本職業別明細図。
新妻恋坂は計画よりやや南(左)に寄っている
坂上から
清水坂上から。坂下の清水坂下交差点から湯島坂に上る道が見える
蔵前橋通りの清水坂下交差点から北に上る坂道で、坂上は湯島天満宮に続きます。
寛文11年新板江戸外絵図。中央に妻恋神社、右下が神田明神
明治16年測量原図。妻恋神社から神田明神西を通る道はまだない
昭和3年大日本職業別明細図。清水坂から湯島坂に抜ける道ができている
明治16年(1883)の測量原図には、清水坂は妻恋坂以北の坂上部分しかなく、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図以降、変わっていません。
坂下部分ができるのは、関東大震災後の
帝都復興計画によって新妻恋坂が開通するのと同時で、昭和3年(1928)の大日本職業別明細図で確認することができます。
明治45年本郷区地籍図。清水坂はまだない
昭和7年本郷区地籍図。清水坂と新妻恋坂が開通している
明治45年本郷区地籍台帳。
妻恋町9番地に3名の所有者の名がある
昭和7年本郷区地籍台帳。
妻恋町8、9番地の所有者に清水廣吉の名がある
文京区教育委員会によると、明治以降、この一帯を所有していた清水精機会社が土地を提供して坂道を整備したといいます。坂名もこの会社名に由来するとしています。
明治45年(1912)の本郷区地籍台帳・地籍図からは、清水坂下に当たる妻恋町9番地に3名の名があり、清水精機会社はありません。
しかし、昭和7年(1932)の本郷区地籍台帳・地籍図には、開通した清水坂の両側、妻恋町8~9番地に清水廣吉の名があります。
清水廣吉は、昭和4年(1929)出版の『昭和の日本:御大典記念』によれば、明治40年に清水式精米麦機を発明し、製作販売を行っています。妻恋町会々長とともに、関東大震災の帝都復興事業計画の湯島地区・土地区割整理委員を務めています。
清水廣吉は、清水式精米麦機の発明後、大正年間に妻恋町で事業を始め、大正12年(1923)の関東大震災に遭遇したと思われます。
清水坂は、大正13年(1924)の復興地図に計画されており、清水廣吉の主導のもと、新妻恋坂とともに復興事業によって造られ、その功績を讃えて清水坂と名付けられたものと考えられます。
大正13年復興計画図。三組町縦の細い赤線が清水坂
坂下から。手前は蔵前橋通り
坂下、蔵前橋通りから
蔵前橋通りから、湯島2丁目2番と1番の間を上っていく坂で、清水坂の西に並行しています。坂下は蔵前橋通りを挟んで、樹木谷坂の坂下と繋がっています。
延宝(1673~81)以前の絵図からは存在が確認できないことから、樹木谷坂と同じ宝永年間(1704~11)頃、横見坂が造られたのかもしれません。(
「樹木谷坂」の項を参照)
延享から宝暦(1744~1764)頃に出版された絵図には、湯島天神から
霊雲寺東を通り、湯島四丁目に至る道があり、横見坂と樹木谷坂に相当する坂が描かれています。
横見坂は、江戸時代後期の『御府内備考』には、「里俗に横根坂と相唱申候」と書かれており、明治45年(1912)の本郷区地籍図には、横ネ坂と表記されています。
横見坂は、明治4年(1871)の江戸地名集覧にその名が見え、坂名の由来について、文京区教育委員会は、坂を上る時に西横に富士山が見えることから横見坂と名付けられたとしています。横根坂の由来はわかりません。
延享-宝暦頃の江戸図。右上・湯島天神、右下・神田明神、中央上・
霊雲寺。霊雲寺を南に下った道にある段々が横見坂、樹木谷坂
明治45年本郷区地籍図。左に横ネ坂と書かれている。右に妻恋神社
坂上から
坂上から
妻恋神社の東、湯島3丁目2と6の間を妻恋坂から北に上る坂で、一部は階段になっています。
江戸時代後期の『小石川谷中本郷絵図』には、立爪サカと記されています。
また、同じく江戸時代後期の『御府内備考』では芥坂と記され、「妻恋坂の中腹より北へ通る小坂なり、その辺芥を捨る所なれば里俗呼名となせり」と、ゴミ捨て場だったので芥坂(ごみざか)と呼ばれていたと書いています。
小石川谷中本郷絵図。中央、妻恋稲荷の右に立爪サカの文字。下に神田明神
測量原図。中央、妻恋稲荷の右に芥坂の文字。下が神田明神
明治16年(1883)『測量原図』にも芥坂と記され、明治23年(1890)『東京地理沿革誌』には、「町内の東端に石階の坂あり、芥坂と唱ふ。是より府下の過半を望み頗(すこぶ)る佳景の所とす」と書かれていて、芥坂が石段だったことがわかります。
安政6年(1859)の歌川広重の錦絵「妻恋ごみ坂の景」には石段が描かれていて、上野寛永寺の五重塔を望む「佳景」が見えます。中間・小人・駕籠方の
三組の者たちが鼻を押さえている様子も滑稽です。
立爪坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図に描かれている古い道です。
坂下
正保年中江戸絵図。雲仙寺の上が妻恋坂と立爪坂
歌川広重「妻恋ごみ坂の景」
坂上から
昌平橋通りの三組坂下交差点から西の湯島台に上っていく坂で、坂上は三組坂上交差点です。
大正11年(1922)。三組坂はまだない
大正13年(1924)。赤い線が復興計画道路。左から2本目の縦線が三組坂
昭和3年(1928)。三組坂が開通している
三組坂は、大正12年(1923)に起きた関東大震災後の
帝都復興計画によって造られた道で、坂下の昌平橋通りの整備と一体で開通しています。
坂名は開通当時の町名、湯島三組町から採られています。
湯島三組町の起こりは徳川家康死去の元和2年に遡ります。家康に仕えていた中間・小人・駕籠方の
三組の者たちが江戸に戻され、当地に屋敷地を与えられました。当初は駿河町といいましたが、元禄9年に商家の許可を得て、三組町となりました。
坂下から
坂上から。手前が三組坂
三組坂の中腹、湯島3丁目8と19の間を北に下りていく坂です。
ガイ坂は、寛文11年(1671)新板江戸外絵図に描かれている古い道です。
新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。左・妻恋稲荷、右・湯島天神。立爪坂の右、小細工同心の下がガイ坂。江戸外絵図に三組坂はない
小石川谷中本郷絵図。妻恋坂の右にガイサカ。新板江戸外絵図のガイ坂の道は描かれていない
御府内沿革図書・延宝年中之形。切絵図のガイ坂がある。江戸外絵図の道は描かれていない
東京五拾区縮図。切絵図のガイ坂がある。新板江戸外絵図のガイ坂の道が描かれている
測量原図。切絵図のガイ坂は消滅している
江戸時代後期の『小石川谷中本郷絵図』には、立爪坂(芥坂)の北にガイ坂と記された道があります。
『御府内場末往還其外沿革図書』にも、同じ場所にマス目になった道が、延宝年中(1673~81)からあったことがわかります。この道は明治3年(1870)『東京五拾区縮図』にも描かれており、明治11年(1878)までの地図で確認できますが、明治16年(1883)『測量原図』では消滅しています。
この道があったところは、現在の湯島3丁目4~5番付近に相当し、現在のガイ坂とは異なります。
現在の道が、ガイ坂と呼ばれるようになった由来はわかりません。また、ガイ坂には芥坂(ごみざか)の別名があります。
坂下から
坂下から
中坂の南、湯島3丁目20と21の間にある階段です。坂上は、湯島天神と妻恋神社を結ぶ道です。
坂上から
実盛坂は、湯島台の急峻な崖地に造られた坂で、大正12年(1923)までの地図には、この道はありません。昭和3年(1928)『大日本職業別明細図』には、この道が描かれていて、大正末から昭和の初め、大正12年(1923)に起きた関東大震災をきっかけに造られたのかもしれません。
大正12年。天神町1丁目46に実盛坂はまだない
昭和3年。実盛坂の道ができている
文京区教育委員会によれば、坂名は、平安時代末期の武士、
斎藤実盛から採られています。坂下の近くにあった実盛塚と首洗いの井戸の伝承が由来です。
伝承は、『御府内備考』に引用された、江戸時代中期の地誌『江戸砂子』『改撰江戸志』や、酒井忠昌の『南向茶話』の記述が基になっています。
『改撰江戸志』は、実盛塚と首洗いの井戸は同じ屋敷内にあると書いています。
明治40年(1907)の『東京名所図会』は、実盛塚があった場所を湯島三組町86番地の石崎氏の宅地としています。この場所は、現在の三組坂下、湯島3丁目14~15付近にあたります。
もっとも、『改撰江戸志』はこの伝承に疑問を示していて、『東京名所図会』も、実盛が越前国篠原での
木曽義仲との戦いで討死にした史実を挙げ、実盛塚の伝承を否定しています。塚から腐食した刀が掘り出されたという話を紹介し、古に埋められた別人の塚だろうとしています。
坂下から。坂上を右に曲ると、湯島天神がある
昌平橋通りの湯島中坂下交差点から西の湯島台に上っていく坂で、坂上は湯島中坂上交差点です。坂上を右に曲がると湯島天神正面の鳥居があります。
新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。
中央、タテの道が中坂。右上が湯島天神
小石川谷中本郷絵図。
中サカの文字がある。右上に湯島天神
中坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図にも描かれている古い道です。
江戸時代後期の『御府内備考』は、坂名の由来を「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」としています。
明和9年(1772)の『江戸砂子』には「中坂 ゆしまの社半町ほど南、下谷へ下る坂」とあり、『小石川谷中本郷絵図』には中サカと記されています。
坂上から
白梅の咲く頃、坂上から
湯島天神境内から東に下る階段です。坂上で、北に下りる傾斜の緩やかな天神女坂と分岐しています。
新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。湯島天神から下(東)
に下りる段々が石坂。坂上から右(北)への道が女坂
江戸時代後期の『文政寺社書上』によれば、湯島天神の創建は文和4年(1355)です。寛文11年(1671)の新板江戸外絵図には、すでにこの坂が描かれており、古くからの坂だったことがわかります。
傾斜の緩やかな女坂に対し、急な階段の天神石坂は、天神男坂とも呼ばれています。男坂と対になる天神女坂の呼称が、江戸時代中期の史料に見られることから、同時期には男坂と呼ばれていたと考えられます。
江戸時代後期の『御府内備考』には、天神石坂は湯島天神境内に出入りするための坂だったが、本郷方面から上野広小路に抜けるための通り道になってしまった、と書かれています。
坂下から。坂上は湯島天神
坂下から。左に女坂の立て札がある
湯島天神境内から東に下る坂で、坂上で天神石坂と分岐して北に向かいます。急な階段の石坂(男坂)に対し、傾斜の緩やかなことから天神女坂と呼ばれています。
江戸時代後期の『文政寺社書上』によれば、湯島天神の創建は文和4年(1355)で、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図には、すでにこの坂が描かれています。古くからある坂だったことを窺わせます。(
「天神石坂」の図を参照)
『加賀藩史料』には、正徳4年(1714)10月20日に「水戸様御下屋敷より出火、茅町より湯島天神女坂迄類焼」と書かれており、すでに天神女坂と呼ばれていたことがわかります。
また享保年間(1716~36)には、湯島天神女坂下版元問屋相模屋与兵衛がいたことがわかっています。
坂上から。左は湯島天神
坂上から。坂下は春日通り
湯島天神の本殿裏の、境内から北に下る階段で、坂下は春日通りです。
いつからある坂なのか不明ですが、明治16年(1883)の測量原図には新坂と書かれています。
明治16年測量原図。湯嶋神社の上に新坂とある
坂下から
坂上から。右に湯島天神の鳥居が見える
湯島天神の北側を西から東に下る坂です。
江戸時代後期の『御府内備考』には、「切通は天神社と
根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふたるべし」と書かれています。
根生院は明治22年(1889)まであった真言宗の寺院で、現在は豊島区高田にあります。
正保年中江戸絵図。神社の絵の上が切通坂。その上の道が無縁坂。右上は不忍池
新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成
切通坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い坂です。
切通は山や丘を切り開いて通した道の事ですが、『御府内備考』は、切通坂は下谷から湯島台への行き来のために通されたもので、
奥州街道の脇道だという者がいると書いています。奥州街道は、切通坂の北にある無縁坂だとされています。
切通が造られた時期はわかっていませんが、昭和12年(1937)の本郷區史は、少なくとも天正18年(1590)の徳川家康江戸入国以前ではないかとしています。
昭和5年の『本郷区要覧』は、天正年中(1573~92)に徳川家康の重臣、
榊原康政が湯島切通町に屋敷を与えられたのは、奥州口の防備のためとしています。榊原家の屋敷地は、無縁坂と切通坂の間、現在の旧岩崎邸庭園から麟祥院北にかけての一帯になります。
明治16年。坂下は現在の湯島3丁目31・4丁目6の間まで
明治29年。右端の細い道と交わるところが現在の天神下交差点
明治時代の切通坂
明治16年(1883)の測量原図では、坂下は現在の昌平坂通りと交わる天神下交差点ではなく、一区画西にあったことがわかります。
明治29年(1896)の地図では上野広小路からの道と繋がり、現在の天神下交差点までの坂下ができています。現在、この坂下の北側は、渋滞緩和のための道路拡幅事業が進んでいます。
坂下、天神下交差点
放射第8号線(湯島天神下)整備計画図。事業延長の箇所が拡幅部分。左が本郷、右が上野広小路方面
坂上から。坂下は不忍池に続く
台東区池之端1丁目にある旧岩崎邸庭園の北側、湯島4丁目との区境にある坂です。坂下は不忍池、坂上は東京大学の開校当初の旧正門があった、鉄門に通じています。
無縁坂は森鴎外の小説『雁』の舞台として知られ、坂の途中に住む高利貸しの妾・お玉が、家の前を通る東京帝大医学部の学生・岡田に恋をする物語となっています。
新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。上(北)・湯島天神、左下・不忍池。
その右、無縁坂に正高院、高アン寺と書かれている
江戸方角安見図鑑。ムエン坂の文字がある。その下(北)に正高寺、高安寺
坂の歴史は古く、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図にすでに描かれています。
無縁坂の坂名は、往古、坂上にあった無縁寺に由来すると、江戸後期の『御府内備考』は書いています。また、江戸時代前期の『江戸鹿子』を増補した元禄3年(1690)の『江戸惣鹿子名所大全』にも、「ここにむゑん寺のあるゆへになづけしといふ」と書かれています。
昭和12年(1937)の『本郷区史』によれば、無縁寺は湯島両門町にある稱仰院の前身で、講安寺を開山した重達の隠居所だったといいます。
新板江戸外絵図には、坂の北側に正高院、高アン寺があり、いずれも稱仰院、講安寺のことです。両寺は、現在も坂の北側にあります。
延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑には、ムエン坂と書かれていて、早くから無縁坂と呼ばれていたことがわかります。
江戸時代後期の文政町方書上には、無縁坂は昔の
奥州街道だったと書かれています。
坂下。左が旧岩崎邸庭園
北側(麟祥院方面)坂上から。長い下り坂になっている
通称・サッカー通りを、サッカーミュージアム入口交差点から北に向かう坂で、途中窪んで両側に上ります。
御府内往還其外沿革図書 元禄12-13年。
左・湯島五丁目から右・天沢寺(麟祥院の前身)へ道が通じている(上から2本目)
神田川から麟祥院に通じるこの道は、
『御府内往還其外沿革図書』やその他の江戸図から、天和2年(1683)の大火後、元禄12年(1699)頃までに造られたものと推測できます。
坂名はこの地が傘谷と呼ばれたことに因ります。江戸時代後期の『御府内備考』は、『改撰江戸志』を引用して、「此辺にて多く傘を製し出せしよりの名なりといふ、さもありしにや、今はそれらの商人も見へず」と書いています。谷は、地形が低地だったことに因ります。
湯島付近陰影起伏図。(出典:国土地理院)
右下(千代田区外神田)から中央・傘谷坂にかけて谷になっている
江府名勝志。中央に「此ヘンカラカサタニ」とある
小石川谷中本郷絵図。中央に「里俗傘谷ト云」とある
『御府内備考』は、傘谷は金助町の北の方にあり、傘谷の辺を地獄谷(樹木谷)ともいうと書いています。また、明治40年(1907)の『東京名所図会』は、傘谷は湯島新花町西境の低地、昭和12年(1937)の『本郷区史』は、傘谷は地獄谷と金助町の境と書いています。
明治から昭和期の金助町はサッカー通りの西側、湯島新花町は東側になります。江戸時代の町家はこれとは若干異なりますが、享保18年(1733)の『江府名勝志』と江戸時代後期の『小石川谷中本郷絵図』からは、新妻恋坂の北側、傘谷坂と横見坂に挟まれたあたりが傘谷と呼ばれていたことがわかります。
なお、いつ頃から傘谷坂と呼ばれるようになったかは不明です。
『御府内備考』には「町内西境傘谷通り前後弐ヶ所」に坂があると書かれていますが、これが傘谷坂を差しているのかはわかりません。
南側(神田川方面)坂上から。左にサッカーミュージアム
坂下から神田川(南)方向
坂下から麟祥院(北)方向
神田明神西の坂
湯島1丁目9・11と千代田区外神田2丁目の間にある坂です。蔵前橋通りを挟んで清水坂と向かい合い、清水坂下交差点から、本郷通りの湯島聖堂前交差点へと上ります。東に神田明神があります。
坂下から
1丁目8・9の間の坂
樹木谷坂の東に並行する坂です。小規模な事業所などが建ち並ぶ一角で、北に下ります。
坂上から
1丁目8・10の間の坂
樹木谷坂から東に下る坂です。事業所やマンションが並んでいます。
坂上から
順天堂医院・医科歯科大病院の間の坂
湯島1丁目5と本郷3丁目1・3の間にある一方通行の坂です。順天堂大学附属医院と東京医科歯科大学附属病院の二つの大学病院に挟まれた道で、両病院の駐車場の出入口があります。坂下は外堀通り、坂上は本郷通りです。
坂下から
湯島御霊社東の坂
湯島御霊社正面の鳥居から南に下る坂で、坂下は蔵前橋通りに出ます。2丁目6・11と7・10の間の道です。
坂下から
湯島御霊社
湯島御霊社北の坂
湯島御霊社脇を西に下る坂で、坂下は傘谷坂に出ます。2丁目11と12の間の道です。
坂下から
2丁目17・18の間の坂
霊雲寺門前の道を西に下る坂です。坂下はサッカー通りの湯島二丁目交差点です。この坂は、延享から宝暦(1744~1764)頃に出版された江戸図にも描かれていて、霊雲寺が創建された元禄4年(1691)頃に造られた道と考えられます。
坂下から
延享・宝暦頃の江戸図。左下の段々。右上に切通坂、右に中坂が同じように描かれている
御府内往還其外沿革図書 元禄4年(1691)。霊雲寺前の道ができている
妻恋坂南の階段
湯島3丁目1と千代田区外神田6丁目の間にある階段です。妻恋坂の途中から蔵前橋通りに下りていきますが、通りを挟んだ向こう正面に、神田明神の裏参道があります。
3丁目6・12の間の坂
三組坂を挟んでガイ坂と向かい合う坂で、南に下ります。西側は、かつて湯島台の崖地でしたが、現在は全国家電会館が建っています。
坂下から
一つ目、病院前北の階段
東都文京病院北の階段
東都文京病院の北には2つの階段があります。
一つは、東都文京病院の前をそのまま北に向かう道で、三組坂に下りる手前に階段があります。
もう一つは、東都文京病院の前を東に曲る道で、途中から下りの階段となります。階段下からは北に曲り、三組坂に出ます。
東都文京病院のある一画は高台で、南には古くからある、立爪坂があります。
二つ目、病院北にある階段。階段上から
階段下
坂下。向こうに階段が見える
※このページで使用している御府内往還其外沿革図書の図版は、原書房刊『御府内沿革圖書 江戸城下変遷絵図集14』から引用したものです。
(文・構成) 七会静