文京の坂道

春日の坂道

富坂  牛坂  安藤坂  金剛寺坂  新坂
2丁目住宅地の坂 2丁目14・15の間の坂 2丁目15・16(15・13)の間の坂 2丁目13・16の間の階段 東京メトロの坂 2丁目5・6の間の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
富坂(春日1丁目・小石川2丁目)

富坂上から坂下を望む。白山通りを越えた向こうは東富坂の上り坂
文京シビックセンター前の春日通りを中央大学理工学部付近に上る広い坂です。
坂の上と下はそれぞれ富坂上、富坂下の交差点になっています。

新板江戸外絵図。伝通院(左上)から水戸藩邸の北への道。段々が坂下

明治時代の富坂
富坂は、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、もとは鳶坂(とびさか)と呼ばれていました。鳶が多くいたからだといわれています。鳶坂が転じて富坂となりました。
また、文京区教育委員会によれば、白山通りの春日町交差点の谷を挟んで東西に上り坂があることから飛坂ともいわれたといいます。
現在の富坂は向富坂・西富坂、本郷に上る旧東富坂は前富坂・東富坂とも呼ばれていました。 (※詳しくは、「二の谷を挟む3つの富坂」をご覧ください。)

人気のレジャー施設、東京ドームシティ

礫川公園のサトウハチローのハゼの木

東京都戦没者霊苑。向こうは中央大学

講道館前に立つ嘉納治五郎像

水戸藩邸庭園だった小石川後楽園
富坂下には、礫川(れきせん)公園、小石川後楽園、東京ドームシティなどがあります。
礫川の名は「こいしかわ」に由来します。
「こいしかわ」の名の由来は、この地に小石の多い小川が幾筋も流れていたからといわれます。礫は小石のことで、礫川は「こいしかわ」に当てた漢字です。
通常は小石川と書かれ、礫川の文字は富坂下の礫川公園と富坂上の区立礫川小学校などにその名を残すのみです。
礫川公園には、詩人のサトウハチローが「ちいさい秋みつけた」を作詩したきっかけとなったハゼの木があります。
また、礫川公園に隣接して東京都戦没者霊苑、文京シビックセンターに隣接して柔道の講道館があります。
富坂の南側一帯、中央大学理工学部から東京ドームシティにかけては、江戸時代に徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の上屋敷があったところです。
小石川後楽園は、水戸藩邸の庭園で、特別史跡・特別名勝に指定されています。
庭園には神田上水の分流が引かれていて、現在も小石川後楽園にその一部が残っています。

小石川後楽園の満開の藤

小石川後楽園の池に来る野鳥

小石川後楽園の神田上水跡
牛坂(春日1丁目)

右が牛坂、左は北野神社(牛天神)。ここから急坂が始まり、神社を巻くように参道下に下りる
北野神社(牛天神)の北、裏手にある急坂で、坂下は、北野神社参道の階段の入口になります。
かつて、坂の途中に牛石と呼ばれた石がありました。それが坂の名の由来だと、文政12年(1829)『御府内備考』に書かれています。

古地図には坂の左手前に牛石

牛天神参道の急な階段

明治時代の牛天神参道
牛石の由来については、その昔、この地で、北野神社の祭神である菅原道真が、牛に乗って夢に現れたからだとしています。
寛延4年(1751)『南向茶話』は、夢を見たのは源頼朝で、その時に腰掛けていた石が、牛石だと書いています。
また、文政10~11年(1827~8)『寺社書上』には、寿永元年(1182)、源頼朝が坂東平定の際に入江の松に舟を繋ぎ、凪を待つ間にこの夢を見たとしています。その時、牛と見えたのが牛石でした。
当時、この辺りは、平川(神田川)の河口付近の大きな池だったと考えられています。そのため、牛坂は蛎殻坂、鮫干坂とも呼ばれていました。
これに対し、享保17年(1732)『江戸砂子』は、夢を見たのは戦国大名の北条氏康(1515~71)で、関東発向の時だとしています。
牛坂は、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図にも描かれている古い道です。


東都小石川絵図に描かれた牛坂の牛石

境内に置かれた、願いの叶うという牛石

梅の花がきれいな牛天神・北野神社

沿革図書延宝(1673-81)之形。
龍門寺(牛天神)の下が牛坂

沿革図書当時(1850頃?)之形。
牛坂下に水野藤次郎屋敷
牛石があったのは坂下で、嘉永7年(1854)『東都小石川絵図』に、田村四郎兵衛屋敷の前に牛石が描かれています。
『寺社書上』によれば、この場所は、古くは金杉天満宮(北野神社)の社地の中で、徳川家康の江戸入府後、水野家が武家屋敷を拝領しました。『南向茶話』等に、水野藤次郎門前に牛石があると書かれており、江戸時代末期『御府内往還其外沿革図書』で、水野家屋敷を確認することができます。
明治43年(1910)『礫川要覧』には、「その石今は移されて、牛天神の裏門、即ち坂をのぼりつめて、右に牛天神境内に入る左方に安置しあり」とあり、明治年間に坂上に移されますが、再度移転され、現在は北野神社の社殿前にあります。
牛石をなでると願いが叶うといわれています。
『寺社書上』は、入り江が消えて草地となったのは暦応(1338~42)の頃とし、蛎殻坂を古跡と呼んでいることから、蛎殻坂・鮫干坂は古名で、後に牛坂と呼ばれるようになったと考えられます。
また、明和9年(1772)『再校江戸砂子』は、社地は水戸屋敷内から現在地に遷されたもので、時期は寛文(1661~73)の頃ではないかと書いています。
文政11年(1828)『水戸紀年』によれば、初代水戸藩主・徳川頼房が、この地に屋敷地を拝領したのは、寛永6年(1629)のことです。
『再校江戸砂子』の説を採れば、寛文の頃、北野神社が現在地に遷った後に、祭神の菅原道真に因んで、境内北にある道を牛坂、その坂下にある石を牛石、と呼ぶようになったとも考えられます。
なお、文政3年(1820)の『小石川志料』は、北野神社の北を東から西に下る坂を牛坂とし、北野神社の脇、水野屋敷前を鮫干坂としています。牛坂に続く北野神社の西を神田上水(巻石通り)に下りる道を指していると思われ、蛎殻坂・鮫干坂は牛坂上から神田上水までを言ったのかもしれません。
安藤坂(春日1丁目・2丁目の間)

大きくカーブする安藤坂。カーブから下は明治期に市電のために造られた
小石川台を春日通り・伝通院前交差点から飯田橋方面、神田川に向かって下る広い道です。

1883年。安藤坂(中央、左右の道)は右(伝通院前)から左に突き当
たって、牛天神(下)に曲っている

1896年。安藤坂からの突き当りを巻石通り(上から左下)に直線に抜
ける道ができている

1907年。黒い点線が市電が通る計画の道

1910年。市電(赤線)の道が開通している
現在の安藤坂は、旧神田上水路・巻石通りの手前で大きく西にカーブしています。
このカーブは、昭和10年(1935)『小石川区史』によれば、明治42年(1909)に市電を通すために新しく造られた道で、それ以前はカーブのところで突き当っていました。

新板江戸外絵図。伝通院前から火消屋敷の下を通り、牛天神、神田上水にクランクしている
そこからは、左に曲がって牛天神前、牛坂下を右に曲がり、神田上水路に下りていました。
伝通院から神田上水路に至るこの道は、寛文11年(1671)の『新板江戸外絵図』に、牛坂と共に描かれている古い道です。

御府内沿革図書・元禄年中(1688~1704)。中央・左右の道(安藤坂)の上方に火消屋敷

御府内沿革図書・享保10年。道の上方、火消屋敷が安藤屋敷に代っている

東都小石川絵図。安藤坂と書かれている
江戸時代、坂の西には紀伊田辺藩安藤家の上屋敷がありました。これが、坂の名の由来になったと、明治39年(1906)『新撰東京名所図会』は書いています。
安藤家の屋敷は、江戸時代末期『御府内往還其外沿革図書』の享保10年(1725)之形以降の図から確認することができます。元禄年中之形以前は、定火消屋敷でした。
文政12年(1829)『御府内備考』は、ここに定火消屋敷が置かれたのは万治元年(1658)のことで、享保10年、火災により小川町に移転したと『江戸志』を引用しています。
また、「網干坂は伝通院前より上水の端へ下る坂なり、今安藤坂と云り」と書いていて、以前は網干坂と呼ばれていたことがわかります。
寛延4年(1751)『南向茶話』にも、牛天神裏門の外の坂を網干坂と呼んでいると書かれています。

網干坂のいわれについて『御府内備考』は、坂下が入り江だった頃に漁網を干したからという説と、『再校江戸砂子』の鷹狩役人が鳥網を干したからという説を紹介し、近年まで船宿があって漁網を干したからという『改選江戸志』の説を支持しています。
一方、『小石川志料』『新撰東京名所図会』などは、古く入り江だった頃に漁網を干したからという『南向茶話』の説を採用しています。

坂上から。巻石通りを経て神田川へ
安藤坂の名が登場するのは、文政10年(1827)『江戸名所花暦』、文政12年(1829)『御府内備考』、嘉永7年(1854)『東都小石川絵図』などです。
寛政年間(1789~1801)『新編江戸志』、文政3年(1820)『小石川志料』などは、網干坂としていることから、安藤坂の呼称が定着したのは、江戸時代後期と考えられます。

明治後期。市電が通る前の安藤坂

昭和初期の安藤坂。市電が通っている
金剛寺坂(春日2丁目)

金剛寺坂上。住宅地を通りながら丸ノ内線の跨線橋を渡り、巻石通りに下りていく
小石川台から、かつて神田上水が流れていた巻石通りに下りる坂の一つで、坂上を進むと、都立竹早高校付近の春日通りに出ます。

新板江戸外絵図。上方、神田上水の右に町と書かれた下の道の段々が金剛寺坂

正徳江戸図。新板江戸外絵図と同じ道の上にコンコウシ坂の文字がある
江戸時代、坂の西側に金剛寺という禅寺があり、それが坂の名となったと、文政12年(1829)『御府内備考』は記しています。
金剛寺の歴史は古く、寺伝によれば開創は建長2年(1250)。相模国から江戸に移った後、文明年中(1469~1487)に太田道灌が再興したと、『寺社書上』(文政10~11年、1827~8)などに書かれています。
金剛寺坂は、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に見ることができ、正徳江戸図に「コンコウシ坂」の文字があることから、少なくとも正徳(1711~16)年間まで、坂名を遡ることができます。

金剛寺は、近年までこの地にありました。
昭和26年(1951)、地下鉄丸ノ内線が金剛寺境内を通ることになり、中野区に移転したと、小石川仏教会編『小石川の寺院』に書かれています。
金剛寺坂の東には、永井荷風の生育地があります。

明治時代の金剛寺坂。左の石垣が金剛寺

明治時代の金剛寺。手前に巻石通り

巻石通りから見た金剛寺坂下

金剛寺坂と交わる2丁目20・21の間の坂

荷風生育地付近、2丁目20・23の間の坂
新坂(春日2丁目)

新坂上は小石川台。丸ノ内線の跨線橋を渡り、坂下は神田上水跡の巻石通り
小石川台から旧神田上水路・巻石通りに下りる坂の一つで、坂上は学芸大附属竹早小中学校付近の春日通りに通じています。
金剛寺坂の西にあり、正徳年間(1711~16)に新たに開かれた坂なので、新坂と呼ばれたのだろうと、『御府内備考』(文政12年、1829)は、『改選江戸志』を引用して書いています。
これは、江戸時代末期『御府内往還其外沿革図書』からも確かめることができ、正徳5年より享保元年迄(1715~6)之形に新坂が描かれています。元禄年中(1688~1704)之形にはありません。

御府内往還其外沿革図書・元禄年中

御府内往還其外沿革図書・正徳5年~享保元年。松平対馬守の左が新坂

この坂は今井坂とも呼ばれています。
享保20年(1735)『続江戸砂子』によれば、坂の上、蜂谷孫十郎屋敷に兼平桜という名の大木があり、これが今井坂の名の由来だとしています。
兼平は平安末期の武将・今井四郎兼平のことで、兼平が植えた桜なので兼平桜と呼ばれているといいます。
寛政年間(1789~1801)『新編江戸志』は、今井兼平の居城は赤坂(東京都港区)にあり、戦国時代、ここに屋敷地のあった豊前四郎山城守を、今井四郎兼平と誤ったものだとしています。
豊前山城守から贈られた桜への北条氏康の礼状が現存しており、豊前山城守の屋敷地には桜の木が多くあったと推測しています。その後、本多飛騨守の屋敷地となり、『御府内往還其外沿革図書』延宝年中之形で確認することができます。

最後の将軍・徳川慶喜終焉の地

坂下。右・金富小、左・仏教大学院大
『新編江戸志』には、新坂の北にある庚申坂も、今井坂と呼ばれていたと書かれています。今井何某の屋敷があったからといいます。
新坂と庚申坂は、江戸時代、坂上で繋がっていたことから、混同されていたのかもしれません。
新坂の西側は江戸時代後期、大久保長門守の下屋敷で、明治34年になって徳川慶喜がこの地に住み、大正2年に没しています。(昭和10年、1935『小石川区史』)
現在は、仏教大学院大学となっていて、坂下の入口に「徳川慶喜公屋敷跡」の碑、坂の途中に「徳川慶喜終焉の地」のプレートがあります。またプレートの近くには、徳川慶喜の屋敷にあった大銀杏の木が残っています。 (※「キリシタン坂の今昔」もご覧ください。)

徳川慶喜の屋敷跡の大銀杏の木
2丁目住宅地の坂(春日2丁目)
金剛寺坂と新坂に挟まれた春日2丁目の住宅街には、小さな細い坂が集っています。
行きかうのも近くの住人だけ。心が通い合う和むような一角です。
一部は東京メトロの私道となっていますが、丸ノ内線の跨線橋を渡って巻石通りに下りていく階段と坂道があります。

2丁目14・15の間の坂

春日通りと並行しています。突き当りを右に曲がると、春日2丁目の信号です。

2丁目15・16の間の坂

2丁目14・15の間の坂と並行しています。坂下は2丁目13・15の間です。

2丁目15・13の間の坂

2丁目15・16の間の坂から続きます。正面に見えるのはトッパン小石川ビルです。

2丁目13・16の間の階段

2丁目15・16の間の坂から丸ノ内線の跨線橋に下りる階段です。私道を通ります。

東京メトロの坂

2丁目13・16の間の階段、丸ノ内線の跨線橋から下る坂です。私道を通ります。

2丁目5・6の間の坂

東京メトロの坂から続く坂です。坂下は神田上水跡の巻石通りです。
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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