文京の坂道

千石の坂道

網干坂  氷川坂  宮坂  砂利場坂  猫又坂
1・2丁目住宅地の坂 一行院坂 明化小前の坂 2丁目4・91の間の階段 猫又坂脇の坂
3丁目住宅地の坂 3丁目12・13(15・14)の間の坂 3丁目10・12の間の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 網干坂(千石2丁目・白山3丁目)

小石川植物園の塀に沿って下る道幅の狭い網干坂
小石川植物園の北に沿った細い急坂です。
坂下の植物園には、赤い建物の東京大学の博物館があります。旧東京医学校本館だった建物で、重要文化財に指定されています。
坂上には、小石川樹木園と書かれた看板のある植物園の古い門があります。

博物館となっている旧東京医学校の建物

樹木園の看板が下がる植物園の門

坂下から。右が植物園

御府内沿革圖書・天和年中(1681-4)。赤の囲みが氷川神社

御府内沿革圖書・元禄11年(1698)。網干坂の道ができている

東都小石川絵図。氷川社の右にアミホシザカの文字
江戸時代後期の『御府内場末往還其外沿革圖書』には、元禄11年(1698)の図から網干坂が描かれています。他の江戸図からも、この時期に網干坂が造られたことが窺えます。
また、江戸時代末期の『東都小石川絵図』『東都駒込辺絵図』には「アミホシサカ」の文字が見えます。
坂の名の由来について、明治43年(1910)『礫川要覧』は、「網干坂の由来詳(つまびらか)ならざれども、想ふにこの氷川田甫が入江たる観ありし頃の名ならんか」と推測しています。
坂道ができたのが元禄年間と考えられることから、それ以降、氷川田甫が入江のようになっていて、漁網が使われていたということになります。
大正12年(1923)の『東京帝国大学理学部附属植物園案内』は、「往古此付近ノ低地、一帯ノ入江ナリシトノ伝説モ亦(また)信ズルニ足ランカ」と疑問を呈しています。
 氷川坂(千石2丁目)

坂上から。左に見える社が簸川(ひかわ)神社
簸川神社の裏手、西側にある細い急坂です。
坂の両側には住宅やマンションなどが建っています。
簸川神社は歴史が古く格式の高い神社で、江戸時代には氷川大明神と呼ばれていました。坂の名前は、この名に由来しています。

簸川神社正面

簸川神社境内からの小石川の眺め

坂下から見た氷川坂の急坂

新板江戸外絵図。中央下にヒカワ(氷川)明神。その左が氷川坂

昭和34年。氷川神社と表記されている。左が氷川坂
氷川坂は、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道ですが、明治39年(1906)『新撰東京名所図会』には、簸川神社の裏にある無名坂と書かれていて、近年に氷川坂と呼ばれるようになったことを窺わせます。
また、氷川神社が簸川神社と改名したのは大正年間とされますが、昭和30年代の地図に氷川神社と表記されていて、その後も氷川の名が通用していたことがわかります。

簸川神社の秋の祭礼

秋祭りに鳥居前に並ぶ屋台
かつて氷川坂下には小石川(千川)が流れ、しばしば氾濫を起こしていました。
1934年(昭和9年)に暗渠が完成し、千川通りとなりましたが、この時の改修記念碑が神社の石段の下にあります。
簸川神社の祭礼は9月の秋祭りで、旧久堅町の氏神様です。
 宮坂(千石3丁目)

豊島区南大塚1丁目(右)との境にある宮坂
豊島区南大塚1丁目との境にある坂道です。
住宅地の広がる千石3丁目の高台から、かつて谷端川(小石川)が流れていた谷あいの千川通りへと下りていきます。
文京ふるさと歴史館『ぶんきょうの坂道』によれば、明治時代、有栖川宮熾仁親王が一時所有した邸があったことから、それが坂の名前の由来になったとされています。
『熾仁親王日記』には、明治25~26年に小石川丸山町別邸についての記述があります。
熾仁親王は、明治28年〈1895年〉1月に薨去(こうきょ)、大正2年(1913)には有栖川宮家は嗣子が絶えています。

昭和6年・東京市小石川区地籍図の開通前の宮坂

昭和7年・一万分一東京近傍。一点鎖線下が宮坂

坂下から見た宮坂
ここに道が造られたのは昭和初期のことです。
昭和6年(1931)の東京市小石川区地籍図に、宮坂が描かれています。
破線の左が豊島町、現在の南大塚1丁目で、宅地開発の区画整理中のため、道はまだ完成していません。下の小石川(谷端川)を渡る中央の上下の白い道は、砂利場坂です。
昭和7年(1932)一万分一東京近傍には、宮坂の道が描かれており、この間に完成したことがわかります。
宅地開発をした尾張屋土地株式会社によれば、関東大震災後の大正13年(1924)に小石川丸山町で宅地分譲事業を開始しており、この土地に有栖川宮別邸が含まれていたと考えられます。
 砂利場坂(千石3丁目)

坂下から。坂上で右にカーブしている
不忍通りの北、旧小石川丸山町にある坂道です。
千石3丁目の高台から千川通りへ、住宅地の中を下りていく道で、坂下は、JR大塚駅前から始まる大塚三業通りの終点になっています。ここには氷川下町児童公園があります。
坂下の千川通り沿いは、かつて谷端川(小石川)が流れていた谷あいで、河原が広がっていました。

御府内沿革圖書・天和3-4年(1683-4)頃。砂利場坂はまだない

御府内沿革圖書・嘉永7年(1854)。平岡石見守抱屋敷の右が砂利場坂
江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』によれば、幕府が護国寺を造営するための砂利採取場となり、土地の者たちに砂利場と呼ばれました。護国寺が創建されたのは、天和元年(1681年)のことです。
採取場の跡地は開墾されて小石川新田となり、土地の名を砂利場、坂を砂利場坂と呼びました。
寛延3年(1750)前後に出版された江戸大絵図には、この坂道が描かれています。坂上一帯は武家地となっています。

氷川下町児童公園。左手が大塚三業通り

寛延3年頃の江戸大絵図。中央の小石川(谷端川)で途切れている道が、現在の砂利場坂。右の川に架かっているのが猫又橋、橋の上下の道は猫又坂と白鷺坂。赤い囲みの右上は氷川明神(簸川神社)、左下が東福寺、左上が稲荷(巣鴨大鳥神社
 猫又坂(千石2丁目・3丁目の間)

千石3丁目交差点に下る猫又坂。坂下にはかつて千川が流れていた
不忍通りを千石1丁目交差点方面から千石3丁目交差点に下る急な坂道です。
坂下で交わる千川通りには、かつて小石川(千川)が流れていました。この川に架かっていたのが猫又橋で、それが坂の名の由来になっています。

正保年中江戸絵図。中央に架かる赤い橋が猫又橋、その上が猫又坂
橋の右手が氷川神社、下手が御薬種畑(現在の護国寺)
猫又坂および猫又橋は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図に描かれています。
江戸後期の『御府内備考』は『改選江戸志』を引用して、この坂を鍋割坂と呼んでいます。鍋割坂の名の由来は、昔、巣鴨から来た者が、この場所で鍋を落として割ったからだといいます。
猫又坂の名が文献に登場するのは明治になってからで、明治6年(1873)『地名字引』に猫股坂、明治29年(1896)『新吉原百人斬』に猫又坂が出てきます。
坂名は坂下の小石川(千川)に架かる橋、猫又橋に由来すると考えられます。
寛延4年(1751)の『南向茶話』は、「猫又ばしと俗に申伝ふ」と書いていて、ほかに猫貍橋、貍橋、根子股橋、猫俣橋、子コマタ橋などの字が充てられています。
橋名の由来について、享保20年(1735)『続江戸砂子』は、この辺りに夜毎、赤い手ぬぐいを被って踊るネコマタがいた、という昔話を紹介しています。
『南向茶話』は、木の根っ子を川に渡して橋にしたことから、ネコマタ(根子股)橋と呼ばれるようになった、という農民の説を紹介しています。
江戸後期の『江戸名所図会』『小石川志料』などは、『南向茶話』の説を支持しています。

歩道にある猫又橋の親石の袖石

手前が坂下で交差する千川通り

昭和初期の猫又橋
大正7年に猫又橋は、コンクリート橋に架け替えられましたが、昭和9年に千川は暗渠となり橋は撤去されました。
猫又坂下には、橋の両端にあった親柱の左右に置かれた袖石が保存されています。
1・2丁目住宅地の坂(千石1・2丁目)

一行院坂

小石川植物園の北、一行院の門前を通る、千石1丁目14・白山4丁目37の間の緩い坂道です。坂下は白山通りです。
一行院は1626年(寛永3年)の開創で、その後、荒廃しましたが、徳本行者により1817年(文化14年)に中興されました。知恩院、増上寺を本山とする浄土宗鎮西派の寺院です。

天暁山一行院満徳寺

明化小前の坂

小石川植物園の北、千石1丁目にある緩い坂で、白山台から白山通りに下りていきます。
坂の両側には商店が並んでいて、明化小学校や住宅が混在しています。坂の周辺は迷路のような住宅街です。明化小学校は明治7年創立で、文明開化から校名が取られている歴史のある学校です。
写真の左側の先に見えるのが明化小学校の塀です。

千石緑地
明化小学校から北へ行くと猫又坂上の不忍通りに出ますが、その手前には千石緑地があります。
ここには江戸時代、一橋徳川家の下屋敷があり、千石緑地は屋敷地の一部です。

2丁目4・91の間の階段

氷川坂の途中、氷川神社の社殿下を北に入る路地の先、千石2丁目にあるコンクリートの階段です。
住宅街の中を横切る道で、坂上は迷路に入り込んだように入り組んでいます。

階段上から

猫又坂脇の坂

不忍通りの猫又坂に沿って千石2丁目側にある短い急坂です。
この一帯はマンションが建ち並んでいますが、坂上の道は住宅街に繋がっています。坂下は猫又坂に合流します。

坂上から。右に猫又坂の不忍通り
3丁目住宅地の坂(千石3丁目)

3丁目12・13(15・14)の間の坂

不忍通りの猫又坂の北に並行する坂道です。
第二次世界大戦前は川崎財閥の邸があった地で、跡地の坂上には大型マンションが立ち並んでいます。
坂下は、かつて小石川(千川)が流れていた細い道に続いています。

坂上から

3丁目10・12の間の坂

第二次世界大戦前、川崎財閥の邸があった丘から下りてくる坂道で、坂上は3丁目12・13(15・14)の間の坂に繋がります。
坂下は、かつて小石川(千川)が流れていた細い道です。

坂下から
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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