西片の坂道
S字にカーブする石坂(中間部)
西片の高台から本郷4丁目に向かって、S字にカーブしながら下る坂道です。
坂下はかつての本郷田町で、明治後期の『新撰東京名所図会』の駒込西片町の項に「町内より南の方本郷田町に下る坂あり、石坂と呼ぶ」という説明があります。
かつての本郷田町の坂下
福山藩中屋敷があった坂上
石坂に合流する1丁目3・8の間の坂
明治2年。下が本郷田町から菊坂下
明治9年。直線的に描かれている石坂
明治29年。ほぼ現在と同じ形の石坂
西片には
福山藩主・阿部主計頭の中屋敷があり、明治初期の地図からは本郷田町より丘にかけては、福山藩の屋敷地だったことがわかります。
中屋敷の跡地に道が通るようになるのは明治維新後で、本郷田町に下りる坂道ができるのは明治以降のことと考えられます。1896年(明治29年)の『東京市本郷区全図』には、現在の坂道が描かれています。
それより以前、明治9年(1876)の地図には、中屋敷跡地の高台から本郷田町に直線的に下りる道が描かれていて、明治16年(1883)の陸軍部測量の精細な地図で、現在の石坂付近に直線的な急坂があったのを確認することができます。
坂名の由来についてはわかっていませんが、あるいはこの急坂が敷石か石段になっていたのでしょうか。
坂上は住宅街で、屋敷地だった往時を偲ばせます。本郷田町だった坂下は下町の雰囲気を残す商店街になっています。
明治16年。直線的な石坂だったことがわかる精細図
坂上から坂下への眺め。中央電柱脇に小さく見えるのが新坂の案内板
西片の高台から白山1丁目に向かって、カーブしながら下る坂道です。坂下は、二つに道が分かれますが、南の西片1丁目17に下る道がもとの新坂です。
案内板付近から坂下。左が本来の坂道
本来の坂下
昭和初期に新しくできた坂下
明治16年。新坂はまだできていない
明治29年。ジグザグの新坂が通っている。左の白いところが小石川掃除町
昭和15年。坂下が二股に分かれて現在と同じになった
明治16年(1883)の陸軍部測量図では、まだ新坂はありませんが、明治29年(1896)の『東京市本郷区全図』には、もとの坂道が描かれています。
現在の形になるのは昭和初期のことで、昭和15年(1940)の地図には二股に分かれる現在の新坂が描かれています。
明治後期の『新撰東京名所図会』の駒込西片町の項に「町内より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」と書かれていますが、したがって二股に分かれる前の新坂のことをいっています。
新坂は福山坂とも呼ばれましたが、坂上に
福山藩主・阿部主計頭の中屋敷があったのに由来します。坂下は明治5年(1872)から昭和39年(1964)まで、丸山福山町でした。
坂上は住宅地、坂下は事業所や商店、住宅などが混在する地域です。
階段状になっている曙坂の坂下。坂上を左手に誠之小学校
文京区立誠之小学校の南、西片の高台から指ヶ谷に下る階段状の坂道です。
明治16年(1883)の陸軍部測量図では、まだ曙坂はありませんが、1896年(明治29年)の『東京市本郷区全図』で確認できることから、この間に坂道が開通したと考えられます。
明治16年。曙坂はまだできていない
明治29年。崖の中央が曙坂。上が誠之小学校
文京区教育委員会の標識によれば、白山坂上の本駒込1・2丁目に相当する一画が、明治2年(1869)から昭和41年(1966)まで、駒込曙町と呼ばれていたことから、その名を借りて、縁起の良い名称を坂名としたのであろうと説明されています。
坂上は住宅街で、かつて
福山藩主・阿部主計頭の中屋敷がありました。坂の北にある文京区立誠之小学校は、この藩邸跡の一部に建っていて、校名はこの地にあった藩校「
誠之館」から採られています。
坂上から。坂下は白山1丁目
坂下にある曙坂の石碑
学生寮・誠之舎前の福山藩中屋敷跡の案内板
1丁目3の階段
石坂の東、住宅街にある小さな階段です。坂上、坂下ともに石坂への道に繋がっています。
階段上から
清水橋西の坂(1丁目4・2丁目1の間の坂)
言問通りから続く区道892号線に架かる陸橋・清水橋に下りる坂道です。住宅街にあり、坂上は西片公園に続きます。清水橋の手前には、区道892号線に下りる階段があります。
清水橋を渡ると本郷6丁目です。
清水橋手前の階段
坂下(清水橋)から
清水橋下の坂(西片2丁目・本郷6丁目の間の坂)
言問通りから続く区道892号線にある坂道です。坂上は西片二丁目交差点から、本郷弥生交差点で本郷通りに出ます。
坂下は清水橋を潜ると緩やかな下りとなって菊坂下まで続き、西片交差点で白山通りに出ます。
清水橋下から坂上
清水橋の案内板
明治時代の清水橋
清水橋が架けられたのは明治13年(1880)頃のことで、当時はまだ橋の下に道はなく、一筋の清水が流れる谷でした。明治16年(1883)の陸軍部測量図には、この谷にまだ道はなく、明治29年(1896)の『東京市本郷区全図』では道があることから、この間に道が通ったことがわかります。
江戸時代、谷の西側は
福山藩主・阿部主計頭の中屋敷、東側は
岡崎藩主・本多中務大輔の下屋敷でした。
明治16年。右上が谷に下りる清水橋西の坂
明治29年。谷に道が通っている。右側の道が中山道(本郷通り)
本郷絵図(1857)。本多屋敷と阿部屋敷の境が谷。右側の道が中山道(本郷通り)
2丁目14・15の間の坂
住宅街にある坂道で、坂下は胸突坂(白山1丁目・西片2丁目の間)に繋がっています。坂上は誠之小学校に続いています。
坂上から。坂下が胸突坂
2丁目10・22の間の坂
住宅街にある坂道で、坂下は西片二丁目交差点です。坂上は文京区立誠之小学校に繋がっています。坂下から上がると、すぐに西片公園方面に曲るもう一つの坂道(2丁目2・10の間)があります。
江戸時代、この一帯は
福山藩主・阿部主計頭の中屋敷でした。誠之小学校は、この藩邸跡の一部に建っていて、校名は藩校「誠之館」から採られています。
西片公園方面の坂上から
坂下から。左が西片公園に曲る坂
(文・構成) 七会静