江戸名所図会

『江戸名所図会』の水道橋・湯島を歩く

<歴史散歩>『江戸名所図会』水道橋・湯島コース

 江戸時代の代表的な地誌『江戸名所図会』は、江戸を中心として名所旧跡や神社仏閣を紹介したもので、1000を超える項目が649の挿図とともに紹介されています。
 寛政年間(1789~1801)に編集が始まり、約40年かけて完成。天保5年(1834)・7年(1836)の2回に分けて刊行されました。実地調査によって書かれた記事と長谷川雪旦の精緻な画は、江戸後期の江戸の様子を知ることのできる貴重な史料となっています。
 「巻之五 玉衡之部」には、水道橋から湯島にかけての神社・寺のほか、川や橋などが紹介されています。
 レジャーの少なかった江戸時代、寺社への参詣は庶民にとっての行楽で、門前には茶屋・土産物屋が並び、有名寺社の門前町には遊女屋・芝居小屋もありました。四季折々の花見・紅葉狩り・雪見や、祭礼で大いに賑わったと伝えられています。
 『江戸名所図会』で紹介されている、江戸時代の水道橋・湯島の名所を巡り、「巻之一 天樞之部」の神田川沿いにも足を延ばします。

(絵は、嘉永6年(1853)刊行の『小石川谷中本郷絵図』です)


ま・めいぞん(坂・グルメ)

<歴史散歩>
『江戸名所図会』水道橋・湯島コース

A.三崎稲荷神社


三崎稲荷神社
 JR水道橋駅の南、千代田区三崎町2丁目に三崎稲荷神社があります。創建は定かではありませんが、建久(1190~98)より前、仁安(1166~68)あるいは寿永元年(1182)に、現在の本郷1丁目に三崎村の鎮守の社として祀られたといいます。

『江戸名所図会』三崎稲荷社

『江戸名所図会』の三崎稲荷社付近(万治2年遷座地)

弘化3年(1846)の三崎稲荷。神田川沿いにイナリとある

明治33年(1900)の三崎稲荷(赤)。水道橋に寄っている
 当時、日比谷から小石川にかけては海が入り込んでいて、本郷台はこの海に突き出た岬でした。ミサキ(三崎)という地名も、これが由来だと考えられています。岬の先には神田山があり、その山麓、海浜に面して三崎稲荷神社があったといいます。
 徳川家康が江戸に入府してすぐに日比谷入江の埋め立てが始まり、神田山が切り崩されてその土が使われました。現在の駿河台は、切り崩された神田山の跡です。
 日比谷入江には平川が流れ込んでいましたが、隅田川に流れるように流路を付け替えられ、最終的には神田山を開削して、現在の神田川となりました。
 三崎稲荷神社の最初の遷座は、日比谷入江の埋め立てが行われた慶長8年(1603)で、西に3町(約328m)、2回目の遷座は、神田川の拡幅工事のための万治2年(1659)で、東南に移されたといいます。明和9年(1772)の『再校江戸砂子』には、「水道橋の西土手にあり」と記されています。
 万延元年(1860)、幕府講武所設置のために社地は東の水道橋右岸に移ります。この時の水道橋は現在よりも下流寄りにあり、三崎稲荷神社があったのは現在の水道橋南詰になります。万治2年(1659)と万延元年(1860)の遷座地は、古地図からも確認することができます。
 『江戸名所図会』に描かれたのは、万延元年(1860)より前で、神田川が社殿の裏を流れ、水道橋は絵の右の方にありました。『江戸名所図会』には、「三崎稲荷は同じ(水道橋の)西の方、土手に傍(そひ)てあり。此社ある故、南の街(ちまた)を稲荷小路と号(なづ)く」と書かれ、昔、三崎村だったので三崎稲荷と称しているとしています。
 三崎稲荷神社が現在地に移ったのは、明治38年(1905)のことで、甲武鉄道(現在のJR中央線)建設のためでした。

三崎稲荷旧地(万延元年遷座地)

B.水道橋


『江戸名所図会』御茶の水・水道橋

現在の『江戸名所図会』御茶の水・水道橋。橋は水道橋、懸樋はない
 JR水道橋駅東口にある白山通りの大きな橋が水道橋です。現在の場所に橋が架けられたのは明治時代のことで、江戸時代は下流側にありました。
 『江戸名所図会』には、この江戸時代の水道橋が描かれていますが、手前に大きく描かれているのは水道橋ではなく、神田上水懸樋です。懸樋(かけひ)の下、橋桁の向こうに小さく描かれている太鼓橋が水道橋です。遠景に富士山が描かれていることから、東のお茶の水から西、神田川の下流から上流に向かって描いていることがわかります。川の左が駿河台、右が本郷台で、茶屋のような建物と舟遊びの小舟が何艘も描かれています。
 懸樋は、川を渡すための上水の樋(とい)、水道橋(すいどうきょう)のことです。井の頭池を水源とする神田上水は、文京区関口の大洗堰で取水されて専用水道を通り、懸樋で神田川を渡って江戸市中に給水されていました。上流の人馬の渡る橋は、曹洞宗の寺院・吉祥寺の門前にあったことから吉祥寺橋と呼ばれていましたが、近くに懸樋が架けられたことによって水道橋(すいどうばし)と呼ばれるようになりました。

もと吉祥寺橋と書かれた江戸前期の地図

水道橋駿河台(歌川広重)

水道橋の親柱のプレート

神田上水懸樋跡の碑
 お茶の水から水道橋にかけては歌川広重をはじめ、多くの絵師たちがその風景を錦絵に描いた、江戸名所中の名所です。(「文京富士見 錦絵コース」を参照)
 懸樋は、明治34年(1901)の神田上水廃止とともになくなりましたが、水道橋の北詰東、外堀通り沿いに神田川左岸(北岸)の歩道を行くと、一段下がったところに神田上水懸樋跡の碑が建っています。

駿河台


駿河台
 水道橋から神田川に沿ってお茶の水坂を上る、対岸に見える丘が駿河台です。
 「昔は神田の台といふ。此所より富士峯(ふじほう)を望むに掌上に視るが如し。故に此名ありといへり。〔一説に、昔駿府御城御在番の衆に、賜はりし地なる故に、号とすといへども、証としがたし〕と『江戸名所図会』に書かれていますが、現在は駿河国(静岡県)の富士山は、ビルの階上からしか望めません。
 駿河台は、もとは神田山と呼ばれていましたが、徳川家康の江戸入府後に日比谷入江を埋め立てるために切り崩されてしまいました。

神田川


神田川(お茶の水付近)
 神田川は、江戸時代以前は平川と呼ばれ、井の頭池を水源として、善福寺川、妙正寺川などの水を集め、小石川からは南流して、大手町まで入り込んでいた日比谷入江に注いでいました。
 徳川家康による日比谷入江埋め立て後は、現在の日本橋川を流れて隅田川に注いでいましたが、新たに駿河台を開削して流路を付け替え、現在の流れになりました。
 『江戸名所図会』には、慶長年間(1596~1615)、神田山が切り崩されて駿河台が拓けたときに、水戸藩邸前の濠を開削によって浅草川(隅田川)に繋いだもので、掘った土で土手を築いて江戸城の外濠としたと書かれています。その後、明暦から万治(1655~61)にかけて、仙台伊達藩に命じて、舟が通れるように濠を広げ、このため、仙台堀とも呼ばれたとしています。
 なお、通説では仙台堀の開削は元和年中(1615~24)、拡幅は万治年中(1658~61)とされています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

C.聖堂(湯島聖堂)


『江戸名所図会』聖堂

Google earthで再現した『江戸名所図会』聖堂

江戸初期の上野忍ヶ丘・孔子堂。左は不忍池と弁天堂

湯島聖堂・大成殿
 お茶の水から相生坂を下ると、左に湯島聖堂があります。
 湯島聖堂は、寛永7年(1630)、儒学者・林羅山が、第3代将軍・徳川家光から、上野忍ヶ丘に5,000余坪を拝領して、私塾・文庫を建てたのに由来します。寛永9年(1632)には、孔子の座像を安置した孔子堂を造立しますが、元禄3年(1690)、第5代将軍・徳川綱吉の手により、孔子廟として現在地の湯島に移されました。
 造営された孔子廟は、大成殿を中心とした壮大なもので、元禄16年(1703)、安永元年(1772)、天明6年(1786)の3度の火災に見舞われますが、寛政2年(1790)、第11代将軍・徳川家斉の寛政の改革により幕府直轄の学問所となり、寛政8年(1796)、大成殿の改築が行われて、総面積11,600坪に拡張されました。
 その威容は『江戸名所図会』の絵からも窺うことができます。絵の手前は相生坂と神田川、右が昌平坂、聖堂の左が学問所で、その後方に円満寺が描かれています。
 明治4年(1871)、学問所は廃止され、聖堂・学問所には博物館・図書館・東京師範学校・東京女子師範学校などが置かれました。博物館は東京国立博物館、師範学校はそれぞれ筑波大学・お茶の水女子大学の前身として、現在に繋がっています。
 聖堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、現在の建物は昭和10年(1935)に再建されたものです。

D.神田明神


『江戸名所図会』神田明神社

Google earthで再現した『江戸名所図会』神田明神社
 湯島聖堂の北にあるのが神田明神で知られる神田神社です。神田・日本橋などの江戸総鎮守であったことから、神田祭は都心部で行われる祭礼として盛大なものとなっています。
 社伝によれば、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村に鎮座したのが始まりとされています。創建の地は神田橋御門内で、現在の大手町1丁目の将門塚のある周辺です。
 大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったとされる社はやがて廃れますが、延慶2年(1309)、近くに芝崎道場日輪寺を開いた時宗の真教上人が、荒廃した社に平将門を合祀して再興します。
 慶長8年(1603)、江戸城拡張の際に駿河台に遷座、元和2年(1616)、再び湯島の現在地に移転します。
 この時期、日輪寺は銀町(しろがねちょう)を経て、慶長8年(1603)に浅草の現在地に移転し、神田山芝崎道場日輪寺を号しています。銀町は、現在の中央区新川にありました。
 神田橋御門内の神田明神旧地は『江戸名所図会』にも紹介され、当時9月15日の神田明神祭礼では神輿が渡御し、供物を奉る奉幣の式が大手門の橋で執り行われたと書かれています。この渡御と奉幣の儀は、現在の神田祭でも続いています。

社殿

将門塚のある神田明神旧地

神田明神旧地で行われる奉幣の儀


東都名所神田明神(歌川広重)
 『江戸名所図会』は、神田明神の名称の謂れについて、その昔、伊勢神宮に新穀を奉納するための稲田を神田(かんだ)または神田(みとしろ)、御田(みた)と称し、この地がその神田(しんでん)だったことに由来し、五穀の神である大己貴命を祭神にしたと記しています。大己貴命は、大国主(おおくにぬし)の別称で知られています。
 神田明神は、関東大震災・東京大空襲により社殿等を焼失しましたが、『江戸名所図会』の絵を見ると、境内の様子は現在とそれほど変わりません。
 『江戸名所図会』には、境内はいつも賑やかで、参詣客が絶えることがなく、崖に臨んだ茶店では遠眼鏡(とおめがね)などで風景を楽しんでいると書かれています。近年は、玉垣に桜をたくさん植えているので、弥生の頃は一番の美観だともいっています。


『江戸名所図会』神田明神祭礼(合成)。江戸市中を練り歩く山車・行列と、桟敷の大勢の見物客

『江戸名所図会』神田明神祭礼。日本橋・江戸通りを練り歩く神幸祭の行列

『江戸名所図会』神田明神祭礼(其一)。先頭の山車が大江山凱陣

神田明神祭礼の大江山凱陣を再現する神幸祭・附け祭
 『江戸名所図会』には、祭礼の様子が4枚つづりの絵に描かれています。隔年9月15日に執り行われ、町々から練物(ねりもの)・車楽(だんじり)などが繰り出し、神前に舞台をしつらえ、町中に桟敷をかけて見物すると説明されています。練物は行列・山車(だし)・踊り屋台など、車楽は山車のことです。
 神田明神の祭礼は、現在5月に行われています。

大鯰と要石

騎馬武者(相馬野馬追)

E.円満寺


『江戸名所図会』円満寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』円満寺(右側)

円満寺の入るビル
 神田明神から本郷通りを北に向かった、サッカーミュージアム入口交差点の手前右側に、萬昌山金剛幢院圓満寺の入るビルがあります。京都にある真言宗御室派仁和寺の末寺で、仁和寺の東京事務所となっています。宝永7年(1710)、木食(もくじき)上人・義高の開山と伝えられます。
 木食上人とは、五穀を絶って木の実や草だけを食べて修行する高僧のことで、円満寺は木食寺とも呼ばれ、人々の信仰を集めました。
 『江戸名所図会』には仁王門、多宝塔、本堂、護摩堂などが小さな境内に配置されている様子が描かれています。

ま・めいぞん(坂・グルメ)

F.妻恋明神社(妻恋神社)


『江戸名所図会』妻恋明神社

現在の『江戸名所図会』妻恋明神社

妻恋神社

境内にある妻恋稲荷
 蔵前橋通りに出て新妻恋坂を下り、清水坂下交差点から清水坂を上る途中を右に入ると、妻恋稲荷神社とともに妻恋神社があります。
 現在は妻恋坂の上にありますが、万治年中(1658~61)の火事で遷座したもので、それ以前は坂下にあったといいます。 昭和12年(1937)の『本郷區史』には、天神町1丁目(元妻恋)にあったものが今の地に移り、妻恋稲荷社と号したと書かれています。
 妻恋神社の祭神は、倉稲魂命(うがのみたま)、日本武尊(やまとたけのみこと)、弟橘媛命(をとたちばなひめのみこと)です。
 弟橘媛は、日本武尊とともに記紀に登場します。
 日本武尊が東征の際、相模から上総へ現在の浦賀水道を渡ろうとしたところ、暴風が起きて海を渡れなくなってしまいます。この時、妃となった弟橘媛が海神の怒りを鎮めるために入水し、日本武尊の舟は無事海を渡ることができたという神話になっています。
 妻恋神社の創建は不明ですが、社伝によれば、東国平定後、日本武尊が陣営を張った行宮(あんぐう)の跡とされ、日本武尊が「吾妻はや」と弟橘媛を偲んだ故事に因んだのが、神社名の由来とされています。
 『江戸名所図会』には、元妻恋にあった時は広い境内でしたが、たびたび兵火に遭って荒廃し、わずかに社の形だけが残っていたと書かれています。天正年中(1573~92)に徳川家康が祈願し、新たに2町四方の社地を与えたといいます。
 倉稲魂命は穀物神であることから稲荷神社の祭神とされており、穀物神が妻恋神社に合祀されて妻恋稲荷社と呼ばれるようになったのではないかといいます。 江戸から明治にかけての地図には、妻恋稲荷と記されています。

G.霊雲寺


『江戸名所図会』霊雲寺

Google earthで再現した『江戸名所図会』霊雲寺
 清水坂を上り、三組坂上交差点を左に折れると、真言宗霊雲寺派総本山・宝林山大悲心院霊雲寺があります。寺社書上では、院号は仏日院です。
 元禄4年(1691)の建立で、『江戸名所図会』に描かれるとおり、潅頂堂・大元堂・開山堂・鐘楼・惣門のほか、地蔵堂・観音堂・経蔵・学寮などを有していましたが、大正12年の関東大震災で焼失してしまいました。現在の本堂は昭和51年に再建されたものです。

山門

本堂

H.湯島天満宮(湯島天神)


『江戸名所図会』湯島天満宮

Google earthで再現した『江戸名所図会』湯島天満宮
 清水坂からの道に戻り、北に進むと湯島天満宮の鳥居が見えてきます。江戸時代には湯島天神、また明治以降は湯島神社とも呼ばれましたが、現在の正式名称は湯島天満宮です。
 天満宮は、菅原道真を祭神とする神社で、天神とも呼ばれてきました。道真が文才に秀でていたことから学問の神様とされています。
 湯島天満宮は、文和4年(1355)、郷民の霊夢により古松の下に勧請されたと伝えられています。文明10年(1478)、太田道灌がこれを再建しました。
 文明18年(1486)、湯島を訪れた僧侶・尭恵(ぎょうえ)は、『北国紀行』の中で、古松がめぐる遠く武蔵野が望める寒村の道すがら、野梅がさかんに薫っていて、そこが北野神社(天満宮)だった、と書いています。

 湯島天満宮には、菅原道真とともに天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)が祀られています。天之手力雄は、日本神話の岩戸隠れの伝説に登場する神で、天岩戸に隠れた天照大神を天鈿女(あめのうずめ)とともに、扉を開けて引き出します。
 湯島天満宮の縁起には、創建は雄略天皇2年で、この時に祀ったのが天之手力雄だと書かれています。 雄略天皇は5世紀後半の在位と考えられていますので、 9世紀の菅原道真よりも古く、湯島天満宮が祀られる以前にあった社の伝承と考えられます。
 湯島天満宮の境内には、天之手力雄命を祀る戸隠神社がありますが、『寺社書上』には、湯島天満宮の地主神で雄略天皇2年に勧請されたものだと書かれており、これが縁起にある、もとの神社ということになります。 『江戸名所図会』は、戸隠神社を湯島神社と呼んでいます。

湯島天満宮社殿

境内の梅園

境内社の戸隠神社

 『江戸名所図会』には、「表門の通り、左右に茶屋あり」と書かれています。茶屋が軒を連ねているだけでなく、楊弓場、芝居小屋も描かれていて、境内が賑わっている様子がわかります。絵の左、拝殿の奥に戸隠神社があり、稲荷神社、神楽殿、右上に別当、北野山梅園寺喜見院があります。
 手前、裏門を出たところに、切通坂を行きかう人々が描かれています。左の遠景は、不忍池・弁天堂・東叡山寛永寺です。

I.根生院


『江戸名所図会』根生院

Google earthで再現した『江戸名所図会』根生院

明治初期の地図。現在の文京区立切通公園付近に根生院がある

根生院跡付近
 切通坂を挟んだ湯島天神の向かいにあったのが、新義真言宗の金剛宝山根生院(こんじょういん)延寿寺です。
 寺伝によれば、寛永12年(1636)、第3代将軍・徳川家光の命により創建された寺院で、当初は神田白壁町にありましたが、正保2年(1645)、下谷長者町に移転。さらに元禄元年(1688)、湯島切通に移転しました。
 湯島切通は、それまで知足院があったところで、この年、知足院は、第5代将軍・徳川綱吉によって神田橋御門外へ移転し、筑波山護持院元禄寺に名を改めています。護持院は、のちに大塚・護国寺に移転し、明治維新により廃寺となり、跡地は豊島岡墓地となっています。(「江戸名所図会 大塚・雑司ヶ谷コース」護持院の項を参照)
 『江戸名所図会』には、手前に切通坂が描かれ、門前で葦簀(よしず)を立て掛けた商店や露店が描かれています。
 根生院は、明治22年(1889)、池之端七軒町に移った後、明治36年(1903)、現在の豊島区高田1丁目に移転しました。

J.麟祥院


『江戸名所図会』麟祥院

Google earthで再現した『江戸名所図会』麟祥院
 切通坂を上った北側にあるのが、臨済宗妙心寺派の寺院、天澤山麟祥院(てんたくざんりんしょういん)です。
 寛永元年(1624)、春日局の願いにより、第3代将軍・徳川家光の命により創建され、当初は報恩山天澤寺を号していましたが、寛永11年(1634)、春日局の法号・麟祥院により、天澤山麟祥院に改めました。
 『江戸名所図会』に書かれている和歌は、寛永6年(1629)、上洛して後水尾天皇に拝して春日局の号と天盃を賜った際に、烏丸光広から贈られたものです。

  いやたかき きみがめぐみのかすが山
  よもに朝日の光りそへつつ

 麟祥院は春日局の菩提寺で、境内に墓所があります。


山門

本堂

春日局の墓所

(行程:3km)

ま・めいぞん(坂・グルメ)

林羅山 (はやしらざん)

 江戸初期の儒学者。天正11年(1583)京都に生れ、13歳で建仁寺に入り、儒教と仏教を学び、朱子学に傾倒、慶長12年(1607)に徳川家康に召し抱えられました。幕府の儒官として法令の制定や文書の起草、典礼の整備に努め、朱子学が幕府の官学となる基を築きました。
 寛永7年(1630)、第3代将軍・家光から上野忍ヶ丘に土地を拝領し、私塾・文庫と孔子廟を建てますが、明暦3年(1657)の大火で焼失し、失意して4日後に病没しました。

平将門 (たいらのまさかど)

 平安時代中期の下総国の武将。承平5年(935)、同族内の領地争いから伯父・国香(くにか)を殺し、一族との抗争を招くことになりました。土豪間の紛争に介入し、武蔵・常陸・上野・下野などに勢力を広げて関東独立を図りましたが、天慶3年(940)、国香の子・平貞盛らに滅ぼされました。

菅原道真 (すがわらのみちざね)

 平安時代の学者・政治家。承和12年(845)、学者の家系に生まれ、元慶1年(877)、文章博士となりました。宇多天皇、醍醐天皇に重用され、蔵人頭などを歴任して昌泰2年(899)、右大臣に出世しましたが、廷臣たちの嫉みを買い、左大臣・藤原時平の中傷により大宰府に左遷させられ、延喜3年(903)、失意のうちに没しました。
 没後、京都に異変が続発したことから、鎮魂のために天満宮が造営されたのが天神信仰の始まりといわれ、道真の遺功から学問の神として崇められました。また、梅と牛にまつわる伝承から、梅を紋章、牛を神の使いとしています。

春日局 (かすがのつぼね)

 第3代将軍・徳川家光の乳母。天正7年(1579)、明智光秀の家老・斎藤利三の娘として生まれ、稲葉正成の妻となりますが、離縁して家光の乳母となりました。弟・忠長との世継争いで家康に直訴して、家光将軍誕生に大きな役割を果たしたことから力を得て、大奥の内外で権勢を振るいました。
 寛永20年(1643)に没し、自ら建立した麟祥院に葬られました。

烏丸光広 (からすまるみつひろ)

 安土桃山時代から江戸初期にかけての歌人。天正7年(1579)、公家として京都に生れ、宮廷に仕えましたが、狂歌・俳諧・書画にすぐれました。歌文集『黄葉和歌集』、歌論書『耳底記』、仮名草子『目覚草』などを残し、寛永15年(1638)に没しています。

(文・構成) 七会静

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