文京の坂道

千駄木の坂道

団子坂  大給坂  狸坂
1丁目の坂 日本医大北の坂 汐見小学校西の坂 1丁目8・9の間の階段 1丁目9・22の間の坂
2丁目の坂 2丁目10・18の間の坂 文京八中北の階段
3丁目の坂 須藤公園南の坂 3丁目5・10の間の坂 3丁目19・20、22の間の坂 3丁目21・22の間の坂
4丁目の坂 3丁目・4丁目の間の坂 4丁目4・10(5・8)の間の坂
 
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 団子坂(千駄木2・3丁目)

団子坂上交差点から坂下方向
観潮楼跡に建つ森鴎外記念館付近から、不忍通りに下りる坂道です。坂上には坂名を採った団子坂上交差点、坂下には団子坂下交差点があります。

坂下から見た団子坂

坂上に建つ鴎外記念館
団子坂は、千駄木坂、潮見坂(汐見坂)とも呼ばれ、文政12年(1829)の『御府内備考』の千駄木坂の項には、「里俗(りぞく)団子坂と唱ふ。此坂の傍に昔より団子を鬻(ひさ)ぐ茶店ある故の名なり」、また『駒込町方書上』には、「坂上より佃沖相見候に付、汐見坂と唱候由。然る処、坂際に団子屋多有之候に付、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由に御座候」と書かれています。
団子屋の始まりは、坂にまだ家がなかった宝永(1704~1711)頃のことで、坂際の屋台で団子、飴菓子などを売ったところ、団子が評判となり、そこに店を出したといいます。その後、団子を売る店が増えて、団子坂と呼ばれるようになりました。

明治20年の東京湾。築地までが陸で、その先は海だった

現在の東京湾。明治20年地図と同じ区域(出典:国土地理院)

江戸名所図会。左上に千駄木坂の文字、右下に七面堂が描かれている
汐見坂の由来は、坂上から東京湾の佃沖が望めたことで、当時は築地から先は海で、佃は東京湾に浮かぶ砂州でした。文政11年(1828)の『新編武蔵風土記稿』には、「坂上民家の庭前より樹間に海上見えて風景よし」と書かれています。
また、「古くは汐見坂とも呼べり」とあり、汐見坂が団子坂よりも古い呼称であったことを窺わせます。
江戸時代後期の『江戸名所図会』には、「千駄木坂、旧名を潮見坂ともいひ、又七面の宮もある故に、七面坂とも号(なづ)くるといへり」とあり、坂下に七面堂が描かれています。

新板江戸外絵図。右の段々が団子坂

東都駒込辺絵図に描かれた団子坂
安政4年(1857)の小石川谷中本郷絵図、根岸谷中日暮里豊島邊圖にはダンゴサカ、東都駒込辺絵図にはシヲミサカ・ダンゴサカの文字があります。
団子坂は、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図にすでに見ることができる、古い坂です。
新板江戸外絵図には千駄木林と書かれていて、これが千駄木坂の名称の由来となっています。千駄木の由来について、『新編武蔵風土記稿』はいくつかの説を挙げた後、「ただ木立の多きを称して唱えしならん」としています。
 大給坂(千駄木3丁目)

坂下からの大給坂
団子坂と動坂を坂上で繋ぐ本郷保健所前の通りから、不忍通りに下りていく坂道の一つです。
坂上には、坂名の由来となった大給(おぎゅう)邸跡に千駄木三丁目第二児童遊園があります。児童遊園には大給邸内にあった大銀杏が残っています。

大給邸跡にある大銀杏

坂上から坂下へ

が大給邸跡の大銀杏。右の長い道が大給坂。
上の広い道が不忍通り(出典:国土地理院)

明治40年。105番地が大給邸。
右上は崖で大給坂の道はまだない

明治44年。105番地右に大給坂が通じている

昭和3年。105番地に大給子爵邸と書かれている
大給家は、三河国大給城(愛知県豊田市)を居城とする戦国武将、松平乗元が祖である大給松平家のうち、乗元の二男・親清を初代とする親清系大給松平家の家系です。
親清系大給松平家第14代当主で、豊後国府内藩第10代藩主の松平近説が、大政奉還後の慶応4年(1868)に、松平から大給に改姓しました。
明治維新後、近説の養子、大給近道が家督を継いで子爵になりました。大給邸は現在の千駄木3丁目12になります。
昭和7年(1932)の『東京市本郷区地籍台帳』には、駒込林町105に大給近孝の名が記されています。大給近孝は近道の嫡子で、明治35年(1902)に子爵位を継いでいます。
この一帯は、明治から昭和にかけては駒込千駄木林町で、古くは千駄木山と呼ばれる雑木林だったといいます。延享3年(1746)、開拓により田圃となり、その後、人が住むようになったと、明治40年(1907)の『東京名所図会』に書かれています。
地図上に大給坂が登場するのは明治末からです。
 狸坂(千駄木3丁目)

坂下からの狸坂
大給坂の北にある、本郷保健所前の通りから不忍通りに下りていくもう一本の坂道で、坂上に駒込林町公園、通称たぬき山公園があります。
文京区教育委員会によれば、坂上一帯が狸山と呼ばれていたことが、狸坂の名称の由来とされています。

狸坂の坂上

左上が動坂。右下へ順に通称・むじな坂、通称・きつね坂、狸坂(出典:国土地理院)

明治29年。左上から右下へ動坂、むじな坂、きつね坂、狸坂。狸坂の坂上と不忍通りはまだない
明治29年(1896)東京市本郷区全図には、狸坂の道の坂部分が描かれており、安政3年(1856)根岸谷中日暮里豊島邊圖にも狸坂に相当する道があります。延享から宝暦年間(1744~1764)の江戸図に道はなく、千駄木林が開拓された延享3年(1746)以降、人が住むようになってできたと考えられます。

根岸谷中日暮里豊島邊圖。右下、服部辰次郎屋敷地の前が狸坂

宝暦年間江戸図。狸坂はまだない。右の川は谷田川(藍染川)
 1丁目の坂(千駄木1丁目)

日本医大病院北の坂

1丁目1と2・3の間、日本医科大学付属病院の北側にある階段と坂です。
日本医科大学の前身、済生学舎が本郷元町に設立されたのは明治9年(1876)のことで、明治37年(1903)の私立日本医学校設立、明治43年(1910)の付属病院の開院を経て現在に至る、歴史のある大学です。

坂上から。左が本来の坂
現在地は私立日本医学校からで、古地図からは、明治37年(1903)の開校の際に区画整理があり、坂道ができたと推定されます。
隣接して病院があり、周辺に大学院・付属施設などがありますが、医大に関連してか、解剖坂という通称があります。

坂下(右)が団子坂と動坂を結ぶ道
(出典:国土地理院)

明治40年。(東京)医学校と北の坂がある

明治35年。北の坂はまだない

汐見小学校西の坂

1丁目8・9と2丁目18の間、汐見小学校の西を下りていく坂です。
文京区教育委員会は、この坂を通って根津裏門坂から団子坂に至る道を薮下通り、薮下道と呼んでいます。

薮下通り案内板

坂下から

明治45年。中央付近に太田子爵邸の文字。上から右への道(東)が薮下道

江戸外絵図。中央が薮下道、下(東)に大田摂津(太田摂津守資次)の文字。左(北)の段々が
団子坂、右(南)の甲府宰相殿(甲府藩主徳川綱重)は今の根津神社で、根津裏門坂はまだない
明治40年(1907)の『東京名所図会』は、この「太田邸の崖下に在り千駄木坂に通ずる一路」を薮下と呼んでいます。崖上にあったのは太田子爵邸で、江戸時代は掛川藩太田家下屋敷でした。千駄木坂は団子坂の別名です。
明治43~44年(1910~11)に書かれた森鴎外の小説『青年』では、薮下の狭い道と呼んでいます。
この道は、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。
汐見小学校西の坂は、通称・汐見坂とも呼ばれていますが、本来の汐見坂は団子坂のことです。昭和12年(1937)の『本郷区史』はこの汐見坂を団子坂の本名として、汐見小学校の名はこれに由来すると書いています。

1丁目8・9の間の階段

汐見小学校の西、薮下通りから西に上がっていく階段で、住宅地の中にあります。だんだん坂という通称があります。

階段上から

1丁目9・22の間の坂

汐見小学校の西、薮下通りから西に上がっていく坂で、住宅地の中にあります。

坂上から
 2丁目の坂(千駄木2丁目)

2丁目10・18の間の坂

汐見小学校の南、日本医科大学付属病院の北にある坂で、住宅地を薮下通りから東に下りていきます。

坂下から

文京八中北の階段

文京八中の北側、2丁目19と26の間にある階段です。坂上は薮下通りで観潮楼跡の森鴎外記念館に、坂下は不忍通りに繋がっています。しろへび坂という通称があります。

階段下

観潮楼跡にある森鴎外記念館
 3丁目の坂(千駄木3丁目)

須藤公園南の坂

須藤公園の南、3丁目1と4の間にある坂です。アトリエ坂とも呼ばれています。

坂下から
須藤公園は加賀藩の支藩・大聖寺藩の下屋敷跡で、安政3年(1856)の根岸谷中日暮里豊島邊圖には松平備後守と書かれています。幕末藩主は前田利鬯で、前田家は徳川将軍家から松平姓を下賜され、松平を名乗っていました。
明治維新後は品川弥二郎を経て、実業家・須藤吉左衛門の所有となり、昭和8~9年(1933~1934)に須藤家から東京市に寄付されました。

根岸谷中日暮里豊島邊圖。左に団子坂、右(北)に松平備後守下屋敷

大正5年の須藤邸。須藤公園南の坂はまだない

3丁目5・10の間の坂

大給坂の南、住宅地の中にある坂です。坂下には芳林閣、坂上は旧安田楠雄邸庭園のある、団子坂から動坂への道に繋がっています。

坂下にある芳林閣

動坂道の旧安田楠雄邸庭園

坂下から

3丁目19・20、22の間の坂

狸坂から北に下って再び上る坂で、中央の駒込保育園付近が凹部になっています。住宅地にあります。

坂の北から。坂の先は狸坂

3丁目21・22の間の坂

狸坂の北にある坂で、西から東に下って北に曲り、坂下は不忍通りに出ます。住宅地にあり、坂上には駒込保育園があります。

坂上から
 4丁目の坂(千駄木4丁目)

3丁目・4丁目の間の坂

不忍通りの千駄木小学校入口交差点から西に上っていく長い坂で、3丁目17~19、22と4丁目1~4の間を曲りくねっています。
坂上は団子坂と動坂を結ぶ道で、千駄木小学校があります。きつね坂という通称があります。

中間のクランク

中間から坂下への道

坂下

4丁目4・10(5・8)の間の坂

動坂の南に並行する坂です。坂下は不忍通りの千駄木四丁目交差点、坂上は団子坂から動坂にやってくる道です。

坂下
狢(むじな)坂という通称があります。
この坂は、団子坂と動坂を結ぶ動坂道とともに、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。

①江戸外絵図。左上・動坂、右下・団子坂

②現在の地図(出典:国土地理院)

①と②を合成したもの
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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