文京の坂道

関口の坂道

目白坂  目白新坂  鉄砲坂  鳥尾坂  七丁目坂  胸突坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 目白坂(関口2丁目)

坂下。首都高速5号池袋線高架下付近から
江戸川橋北詰の目白通り江戸川公園前交差点から、首都高速5号池袋線の高架下を通り、椿山荘前で再び目白通りに合流する細い道が目白坂です。途中に正八幡神社、幸神社があります。

安政4(1857)の雜司ケ谷音羽繪圖。目白不動前の道に目白坂と書かれている

坂の途中にある正八幡神社鳥居

坂上。右は関口台町小学校
この地が目白と呼ばれるようになった由来には諸説ありますが、坂の南にあった新長谷寺に不動尊があったことから、目白坂は不動坂とも呼ばれました。
新長谷寺は目白不動と親しまれましたが、その名を授けたのは第3代将軍・徳川家光ともいわれます。
新長谷寺は昭和20年(1945)に戦災で焼失し、豊島区高田の神霊山金乗院慈眼寺に合併されました。現在、目白不動尊は金乗院境内に祀られています。
目白坂は、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図にはすでに描かれていて、現在の江戸川橋北詰を起点に、清瀬市清戸を結ぶ道の一部でした。この道は清戸道と呼ばれ、農民が練馬方面から野菜などの農産物を江戸に運び、帰りには下肥を持って帰る重要な輸送路でした。
明治になって荷車が使われるようになると、目白坂には立坊(たちんぼう)と呼ばれる人たちが現れ、坂道を上る荷車を押して金銭をもらっていたと言います。

新板江戸外絵図に描かれた目白坂(左上から右中央に下がる道)。坂上クロタシナノは黒田家下屋敷(現在の椿山荘)、順に不動が目白不動、八まんが(正)八幡神社。地図の下に神田上水と江戸川(神田川)。水道水上は上水の堰
 目白新坂(関口2丁目・3丁目)

坂下の目白坂下交差点。高架は首都高速5号池袋線
目白坂下交差点から旧来の目白坂と並行に関口台を上り、椿山荘前で目白坂と合流する広い坂道が目白新坂です。
目白坂は古くからある道ですが、目白新坂はその新道として明治時代に造られました。東京都標識によれば明治20年代半ば頃といいます。
明治40年(1907)の『東京名所図会』には、この坂道を椿坂と呼んで、「近年開創する所、坂名は椿山(つばきやま)の旧跡に因むなり、俚俗(りぞく)又新坂ともいへり。道幅広く、傾斜緩(かん)なり」と記されています。

坂上からの目白新坂

目白新坂にある東京都の案内板
椿山は、この一帯がかつて椿の名所であったことからの呼び名とされています。
坂上にある椿山荘は、明治の元勲、山縣有朋の邸宅・庭園の跡地で、この屋敷が椿山に因んで椿山荘と名付けられたことに由来します。江戸時代は、上総久留里藩主・黒田家の下屋敷でした。
明治16年(1883)の地図に目白新坂はまだなく、明治29年(1896)の地図には描かれていることから、明治20年代に造られたという東京都標識の説明が裏付けられます。
左・明治16年(1883)、右・明治29年(1896)。
下から神田川、神田上水、目白坂。音羽町8丁目と9丁目の間の洞雲寺参道が、明治29年は目白新坂になっている
 鉄砲坂(関口3丁目・目白台3丁目)

坂下から。右が鉄砲坂の由来となった、江戸時代に大筒鉄炮角場があった東京音大学生寮
音羽通りに並行する首都高速5号池袋線の高架下から東京音楽大学学生寮の南を西に上る細い坂で、坂上は目白台三丁目交差点で目白通りに合流します。

坂上から坂下へ

坂の途中。手前右に分かれる坂道がある

鉄砲坂の途中から関口台公園へ分かれる坂道

御府内場末往還其外沿革圖書。桂林寺と鉄炮坂の間に、御先手 野間忠五郎組与力 依田佐助拝借 大筒角場と書かれている

雜司ヶ谷音羽繪圖。桂林寺と鉄炮サカの間に的場がある
寛政年間の『新編江戸志』に、「三丁目より西へ上る坂、大筒鉄炮角場あるゆへなり」とあり、それが坂名の由来となっています。鉄砲は鉄砲でも大筒鉄炮、大砲で、角場は射撃演習場のことです。嘉永7年(1854)の『御府内場末往還其外沿革圖書』の地図には、鉄炮坂と、その北側に大筒角場の文字があります。
また、安政4年(1857)の『雜司ヶ谷音羽繪圖』にも、鉄炮サカとその北側に的場が描かれています。的場は射撃場のことで、現在の東京音楽大学学生寮付近に大筒角場がありました。
坂道は、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図にすでに描かれていて、護国寺ができる前からある古い道です。
坂下の首都高速高架下は、かつて弦巻川が流れていたところで、『東京名所図会』には「坂路稍(やゝ)急峻にして、雨後泥濘、行歩難(なや)む」と記されています。

新板江戸外絵図。左中央の三叉路から右に伸びるのが鉄砲坂の道で、急な所に段々の線が描かれている。地図下のクロタシナノが黒田家下屋敷(現在の椿山荘)、地図右の段々が鼠坂
 鳥尾坂(関口3丁目)

坂下から。右の関口台公園付近に鳥居邸があった
音羽通りに並行する首都高速5号池袋線の高架下から関口台公園の南を西に上る坂で、坂上から東京カテドラル聖マリア大聖堂と独協中学・高等学校の間を抜けて、椿山荘前の目白通りに出ます。

昭和16年。鳥居坂はまだない

昭和22年。連光寺の北に鳥居坂が開通している
坂名の由来は、文京区教育委員会によると、関口町192番地にあった鳥尾小弥太に始まる子爵家が私財を投じて坂道を拓いたからと説明されています。
昭和15年(1940)の陸地測量部の地図には、現在の関口台公園の北に192番地と鳥居邸が記されていて、鳥尾子爵の名が坂名の由来になったことを裏付けています。
ただ、この地図を含めて昭和16年(1941)までに発行された地図には坂道が描かれてなく、昭和22年(1947)の地図に初めて登場していることから、この間に坂道が造られたと推定されます。
鳥尾小弥太子爵は明治38年(1905)に逝去しており、その後、嫡男、孫が爵位を継いでいますが、孫・敬光の夫人によりますと負債のために昭和15年(1940)頃までに土地屋敷を売って転居しています。
したがって、鳥尾邸が坂名の由来にはなっていますが、鳥尾家が私財を投じて坂道を拓いたという説明には疑問が生じます。

坂上から坂下へ
 七丁目坂(関口3丁目)

七丁目坂の階段部分の急坂
音羽通りに並行する首都高速5号池袋線の高架下から関口三丁目公園の南を西に上る坂で、途中から階段になります。坂上は再び緩やかな坂となり、北に曲がります。
かつて音羽町7丁目と8丁目の間を上る坂だったことが坂名の由来で、明治16年(1883)の地図には七丁目坂の文字が見えます。

明治16年。中央に七丁目坂の文字

①七丁目坂周辺の国土地理院地図

②七丁目坂周辺の新板江戸外絵図

①と②を重ねたもの。斜めの広い道が目白新坂。「關口の近邊」の右上、段々が七丁目坂
坂の歴史は古く、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図にはすでにこの坂道が描かれています。
住宅街の中の坂で、坂上付近には佐藤春夫の旧居跡があります。建物は和歌山県新宮市の佐藤春夫記念館に移築されています。

坂下から。中央左手に階段がある

階段を上り切った坂上の道

佐藤春夫旧居跡
 胸突坂(関口2丁目・目白台1丁目)

坂下。右にある木戸が芭蕉庵の通用口
目白通りから関口2丁目と目白台1丁目の間の道を南に進むと、神田川に向かって下る細長い坂があります。急坂のためにスロープに階段が併設されていますが、坂名の由来について「坂道極めて急峻なる故」と昭和10年発行の『小石川区史』に書かれています。

坂上から。坂下は神田川べり

坂の途中にある水神社

坂下にある胸突坂の石碑

延享・宝暦頃の江戸図。坂の右に牛込忠左エ門と書かれている
また江戸後期の『御府内備考』は、『若葉梢』を引用して、「胸突坂は牛込家の屋敷の脇なり、此坂を下れは上水のはたなり、あまりに坂のけはしくて胸をつくばかりなれは名付といふ」と書いています。
胸突坂に至る道の目白通りの入口には野間記念館があり、続いて蕉雨園和敬塾永青文庫が両側に並びます。それぞれ、明治期の田中光顕伯爵、細川護立侯爵の屋敷跡で、江戸時代には大名屋敷や武家屋敷があった場所です。
坂下には芭蕉庵水神社があり、水神社があったことから水神坂とも呼ばれました。
胸突坂は元禄10年(1697)に造られたとされ、延享から宝暦(1744~1764)頃の江戸図で確認することができます。
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

TOP