文京の坂道

本郷の坂道

油坂  富士見坂  建部坂  お茶の水坂  忠弥坂  壱岐坂  新壱岐坂  新坂(本郷1丁目)  東富坂  旧東富坂  見送り坂  見返り坂  本妙寺坂  炭団坂  梨木坂  鎧坂  菊坂  胸突坂  新坂(本郷5丁目) 
本郷1丁目の坂 元町公園西の坂 1丁目5・11~13の間の坂 1丁目8・10の間の坂 1丁目8・16の間の坂 1丁目10・11の間の坂 1丁目12(13)・17(16)の間の坂 1丁目25・27の間の坂
本郷3丁目の坂 順天堂医院の間の坂 3丁目12・22の間の坂
本郷4丁目の坂 清和公園東の坂 清和公園北の坂
本郷5丁目の坂 本妙寺跡の坂 5丁目1・2の間の坂 5丁目2・3の間の坂 5丁目3・4の間の坂
本郷6丁目の坂 慈愛病院脇の坂 6丁目21・22の間の坂 6丁目22・23の間の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 油坂(本郷2丁目)

坂上から。右・順天堂大学、左・附属順天堂医院。坂下に見える木立は神田川
順天堂大学と附属順天堂医院の間、本郷2丁目15と2の間を、外堀通りから北に上って行く坂です。坂上には東京都水道歴史館、東京都水道局本郷給水所があります。

新板江戸外絵図。縦の道、左から建部坂、富士見坂、油坂。下は神田川とお茶の水坂

御府内往還其外沿革図書 延宝年中(1673-81)之形。
縦の道、中央が油坂。中間大繩地が並ぶ
油坂は正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、一帯は神田川の開削により造成された屋敷地と考えられます。
江戸時代後期の『御府内備考』には、神田川河岸一帯は初め御弓同心組屋敷で、小石川大塚に移転したため、元和4年(1618)7月、跡地を三河町駿河台の中間組などが拝領したとしています。
昭和12年(1937)の『本郷区史』には、本郷2丁目にある三河稲荷神社はこの時、祀られたものだと書かれています。
油坂の名称の由来は不明で、神田川の御茶の水河岸に荷物の揚げ降ろしをする揚場があったことから、揚場坂とも呼ばれたと『御府内備考』にあります。

三河稲荷神社

坂下から
 富士見坂(本郷2丁目)

坂下から。右は順天堂大学
順天堂大学がある本郷2丁目2と3の間を、外堀通りから北に上って行く坂です。坂上には本郷給水所公苑があります。
富士見坂は正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、油坂と同様に神田川の開削により造成された屋敷地と考えられます。(「油坂」の絵図を参照)
明治40年(1907)『東京名所図会』には、「富士山の眺望に適す」と書かれていて、これが坂名の由来と考えられます。

坂上から。坂下・外堀通りと神田川
 建部坂(本郷1丁目・2丁目)

坂上から。右・元町公園、坂下・外堀通り、正面の木立は神田川
元町公園の東、本郷1丁目1と本郷2丁目3の間を、外堀通りから北に上って行く坂です。

御府内沿革図書・天保14年之形。建部坂に面して建部六右衛門の屋敷がある
建部坂は正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、一帯は神田川の開削により造成された屋敷地と考えられます。(「油坂」の絵図を参照)
明治40年(1907)『東京名所図会』は、幕士・建部氏の屋敷があったことを坂名の由来としています。
『御府内往還其外沿革図書』からは、宝永6年(1709)之形以降、建部氏の屋敷を確認することができます。文京区教育委員会によれば、建部氏は1400石の直参だったといいます。

坂下から
江戸時代後期の『御府内備考』は『改撰江戸志』を引用して、土地の人は建部六右衛門の屋敷の崖を初音の藪と呼んでいたといいます。建部坂は初音坂とも呼ばれています。
 お茶の水坂(本郷1丁目・2丁目)

坂下から。正面・都立工芸高校、右・神田川
神田川の北岸、外堀通りを水道橋からお茶の水にかけて東に上る坂です。お茶の水坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、神田川の開削により造成されたと考えられます。(「湯島の坂道 相王坂」の項を参照)

正保年中江戸絵図に描かれた高林寺(中央)

明治時代のお茶の水坂
江戸時代後期の『御府内備考』は、高林寺境内に堀(神田川)を通した際に清水が湧き、将軍家のお茶の水に献上されたことから御茶の水の高林寺と呼ばれ、それが地名となったという話を紹介しています。
高林寺は、正保年中江戸絵図から、現在の湯島聖堂の西、東京医科歯科大学付属病院付近にあったと考えられます。
舟が通るように川の拡幅工事が行われた万治年中(1658~61)には、神田川の水際に井の跡が残っていましたが、享保14年(1729)に洪水で川幅が広がった際に消滅したといいます。
お茶の水坂は、この地名に由来します。明治29年(1896)に書かれた偉人史叢『由比正雪』に、お茶の水坂の名が登場しています。また、お茶の水坂は忠彌坂とも呼ばれていました。(「忠弥坂」の項を参照)
 忠弥坂(本郷1丁目)

坂下から。右・都立工芸高校、左・宝生能楽堂
本郷1丁目3と5の間を東に上る坂です。坂の北に宝生能楽堂・桜蔭学園、南に都立工芸高校があります。

大正11年。松平邸があり、忠弥坂はまだない

昭和3年。府立工芸学校と宝生能楽堂・桜蔭高等女学校の間に忠弥坂が誕生している
江戸時代、ここには讃岐高松藩松平家の中屋敷があり、明治維新後は松平伯爵邸となっていましたが、大正12年(1923)の関東大震災後、跡地に都立工芸高校の前身、府立工芸学校と宝生能楽堂が移転、桜蔭学園の前身、桜蔭女学校が開校しました。
忠弥坂は、この時に誕生しています。
文京区教育委員会によれば、坂の上付近に丸橋忠弥の槍道場があり、慶安の変で忠弥が捕縛された場所に近いことを、坂名の由来としています。
もっとも、明治43年(1910)に出版された細川風谷の講談『由比正雪』には、「本郷御茶の水、水道橋の處から電車道に付いて上の方へ上って参ります彼の坂をば今に忠彌坂と申して居りますが、其昔し仲間組頭大岡源右衛門と云ふ人の邸が彼の坂を登った角の處にございまして、丁度其邸を借て居りました丸橋忠彌盛澄と云ふ槍術の名人がございました」とあり、現在のお茶の水坂を忠彌坂とも呼んでいたことがわかります。
現在の忠弥坂は、これを混同したか、坂名を借りて名付けたと考えられます。

坂上から
 壱岐坂(本郷1丁目)

坂上から。左側は東洋学園大学。先に見えるのは、壱岐坂通りの壱岐坂交番前交差点
壱岐坂交番前交差点で新壱岐坂と交差する道で、坂上は本郷通り、坂下は白山通りに通じています。

壱岐坂交番前交差点から坂上方向

坂下途中から。正面・白い建物が壱岐坂交番

坂下、白山通りから

昭和3年地図。現在より1本北の道に壱岐殿坂と書かれている。壱岐殿坂下は市電の停留所

新板江戸外絵図と地理院地図の合成。壱岐坂の坂下が現在より1本北の道だったことがわかる

正保年中江戸絵図。壱岐坂の南に坂名の由来となった小笠原壹岐(いき)下ヤシキがある

明治時代の壱岐坂
壱岐坂通りの北、両側に東洋学園大学校舎があるのが坂上の道で、壱岐坂交番前交差点を挟んだ壱岐坂通りの南、壱岐坂交番の角を西に下りていくのが坂下の道です。本郷1丁目15と20の間から白山通りに出ます。
もっとも、昭和3年(1928)の地図は、これより一本北にある本郷1丁目20と22の間を通る道を壱岐坂としており、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図からも、これを確認することができます。
壱岐坂は、新板江戸外絵図や正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図に描かれている古い道で、坂下に小笠原壱岐守の下屋敷があったことが坂名の由来と、『改撰江戸志』を引用して『御府内備考』は書いています。
古地図より、坂下に小笠原家の下屋敷があったのは元禄(1688~1704)の頃までと考えられますが、この間の壱岐守には、三河吉田藩小笠原家の初代藩主・小笠原忠知と第3代藩主・長祐の二人が該当します。

壱岐坂の旧坂下部分。坂上に木立がある

木立にある文京区土木部の壱岐坂銘板

旧坂下から。上ったところに木立

江府名勝志。イキトノサカと書かれている
享保18年(1733)の『江府名勝志』には、イキトノサカと記されていて、嘉永6年(1853)『小石川谷中本郷絵図』、明治16年(1883)東京図測量原図にもイキトノサカ、壱岐殿坂とあり、先の昭和3年の地図も同様に書かれていることから、この坂が壱岐殿坂とも呼ばれていたことがわかります。
 新壱岐坂(本郷1丁目)

坂上から
本郷通り・壱岐坂上交差点から、白山通り・壱岐坂下交差点まで西に下る広い道です。途中、壱岐坂交番前交差点で壱岐坂と交差します。

大正12年、帝都復興計画図。㊹と書かれた中央横の太い赤線が壱岐坂通り(新壱岐坂)

昭和3年。壱岐坂通り(新壱岐坂)が開通している
大正12年(1923)に起きた関東大震災後の帝都復興計画によって造られた道で、昭和3年(1928)の大日本職業別明細図には完成した新壱岐坂が描かれています。
坂名は、交差する古くからの坂道、壱岐坂に由来します。

坂下、壱岐坂下交差点
 新坂(本郷1丁目)

階段になっている部分
白山通りの壱岐坂下交差点から、新壱岐坂の北、本郷1丁目33と23との間の細い道を東に入った、階段のある坂です。坂上は本郷1丁目32・31と25の間になります。

階段上から

階段下の坂。奥に階段

階段上の坂。手前に階段がある

小石川谷中本郷絵図。ケキサカ(中央)の坂上に内藤外記の屋敷がある

江府名勝志。下(南)から上に、壱岐殿坂、新坂、東富坂(旧)
新坂は、明治40年(1907)『東京案内』に、「壱岐坂の北に在りて小石川春日町に下るを新坂と唱ふ」と紹介されています。
また、それより以前の嘉永6年(1853)『小石川谷中本郷絵図』には、ケキサカと記されています。これは、新坂の坂上に内藤外記の屋敷があったためで、外記坂とも呼ばれていたことがわかります。外記(げき)は官職の一つです。
新坂は江戸時代中期からあった坂で、享保18年(1733)の『江府名勝志』に存在を確認することができます。
また、古地図からは、内藤外記の屋敷があったのは、江戸時代後期と考えられます。
 東富坂(本郷1丁目・4丁目)

坂下、春日町交差点から
春日通りの真砂坂上付近から、白山通りとの春日町交差点に下る広い道です。坂上は本郷通りと交差する本郷三丁目交差点に続いています。

明治11年。左・春日町の旧東富坂から東、右下の本郷3丁目にかけては一本道になっていない

明治35年。東京市区改正条例により春日町から本郷3丁目までが一本道に

明治40年。旧東富坂と分岐する新坂(現在の東富坂)ができている

明治40年頃の東富坂。左に路面電車の軌道が敷設されている
昭和12年(1937)『本郷區史』によれば、明治21年(1888)の東京市区改正条例に基づき、現在の本郷三丁目交差点から春日町までの道が順次建設され、明治37年(1908)、東富坂が完成しました。明治41年(1908)には、この道に路面電車が開通しています。
新しく造られた坂は、江戸時代からある東富坂(現在の旧東富坂)の名を継ぎ、東富坂と呼ばれるようになります。
明治40年(1907)の『東京名所図会』では、新坂を東富坂として、「市区改正の新路を開き、電車を通ずるに至れり」と書いています。
東富坂は真砂坂とも呼ばれ、道路標識やバス停留所名など、通称として真砂坂が使われることが多くなっています。
真砂坂は明治2年(1869)から昭和40年(1965)までの旧町名、真砂町に由来します。
真砂町は真砂坂の北側にあり、江戸時代は松平伊賀守松平右京亮の大名屋敷を含む武家地で、明治になり新しい町として誕生しました。『本郷區史』は、浜の真砂のようにかぎりなき繁栄を将来に期せるという意味だろうと書いています。
真砂坂の名称は、完成から間もない昭和2年(1927)『電車事故論』、昭和7年(1932)『大東京物語』に使われています。

坂上。右の道が東富坂、正面が旧東富坂
 旧東富坂(本郷1丁目)

坂下から。左は東京メトロ丸の内線の線路
東富坂(真砂坂)の途中から、東京メトロ丸ノ内線の線路に沿って下る細い坂で、坂下は本郷1丁目35と34の間で白山通りに通じています。

新板江戸外絵図と地理院地図の合成。旧東富坂は直線ではなく、クランクになっていた
正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、明治時代に現在の新しい坂が造られるまでの東富坂であったことから、旧東富坂と呼ばれます。
江戸時代後期の『御府内備考』によれば、この坂が富坂と呼ばれるようになったのは、元禄6年(1693)、小石川餌差町が富坂町に改められたことに因ります。それまではトビ坂と呼ばれていました。
トビ坂の由来は諸説ありますが、いずれもこの辺りに鳶が多くいたことに因ります。天和2年(1683)の『紫の一本』には、「小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、ゑざし町より春日殿町へ下る坂の脇より、御弓町へ登る坂、両方ともにとび坂といふ。元は此処に鳶多くして、女わらんべの手に持たる肴などを、舞さがりてとるゆへに鴟坂と云」と書かれています。

坂上から。坂下にラクーアが見える
『紫の一本』によれば、現在の旧東富坂と富坂のどちらの坂も鳶坂と呼ばれていて、江戸時代の終わりまで続いていました。
また元禄3年(1690)の『江戸惣鹿子名所大全』は、それぞれを前富坂、向富坂、『御府内備考』は本富坂、西富坂と区別しています。
明治16年(1883)の東京測量原図には、東富坂、西富坂と記されています。
文京区教育委員会によれば、飛坂とも呼ばれたといいます。 (※「二の谷を挟む3つの富坂」もご覧ください。)

昭和26年。旧東富坂はクランクしていて坂下は現在より北にある

昭和33年。丸の内線の南に現在の直線の道ができている。もとの道は描かれていない
現在の旧東富坂は、東富坂から分岐し、東京メトロ丸の内線の軌道の南に沿って、白山通りに下っています。坂下の向かいには、白山通りを挟んで東京ドームシティ・ラクーアがあります。
しかし、本来の旧東富坂は、坂上から西に下ってから途中で北に折れ、東京メトロ丸の内線の軌道の北を西に下ります。現在、東京メトロ丸の内線の軌道の北にある行き止まりの道がそれで、坂下は白山通りを挟んだ講道館の向かいになります。
坂下が現在の道になったのは、昭和26年(1951)着工、昭和29年(1954)開業の東京メトロ丸の内線の池袋・御茶ノ水間建設によるものです。

本来の坂下。現在の旧東富坂は右にある

右に曲がって旧東富坂の坂上に繋がっていた
 見送り坂(本郷4丁目)
 見返り坂(本郷4丁目・5丁目)

見返り坂上から、別れの橋跡、見送り坂を望む。先の横断歩道が本郷三丁目交差点
本郷三丁目交差点の北、菊坂上を挟んだ本郷通りの南が見送り坂、北が見返り坂です。
菊坂上、本郷4丁目と5丁目の境付近に別れの橋跡の碑が建っていて、ここが両坂の窪み、坂下となります。見送り坂と見返り坂は、それぞれ南と北へ緩い上り坂になっています。

別れの橋跡にある案内板

別れの橋跡(坂下)から見送り坂

新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。
中央・縦の道が中山道、下が本郷三丁目交差点、菊坂との交差が別れの橋跡

明治16年・東京測量原図。菊坂の谷が左上から中山道・別れの橋跡付近まで入り込んでいる

国土地理院地図を加工したもの。青→水色→緑→黄→茶の順に標高が高くなる。
別れの橋跡に菊坂の谷が入り込んでいる
江戸時代後期の『御府内備考』によれば、室町時代の武将・太田道灌の頃、この窪みに石橋が架けられ、別れの橋と呼ばれたといいます。橋は太田道灌の領地の境目にあり、罪人などをここで追放したことが名の由来といいます。
この辺りから大きな石が掘り出されたことがあったが、今は埋もれてしまい、わからなくなったと『改撰江戸志』に書かれていたといいます。
別れの橋を境に見送り、見返ったことが坂名の由来とされ、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図にも両坂のある中山道(本郷通り)が描かれていますが、橋や窪みのようなものは確認できません。
『御府内備考』には、見おくり坂、見かへり坂の坂名が出てきますが、この一帯はなだらかな地形で、坂があるようには見えないとも書いています。
明治16年(1883)の東京測量原図を見ると、現在の菊坂に沿って坂上付近まで谷が続いているのがわかります。また、国土地理院地図を基にした標高図からも、別れの橋跡付近の本郷通りが若干窪んでいるのがわかります。
 本妙寺坂(本郷4丁目)

坂下、菊坂通りから。
文京区立本郷小学校前から北に、菊坂まで下りていく坂です。

新板江戸外絵図。本妙寺前の菊坂通りを挟んだ段々が本妙寺坂

明治41年まであった本妙寺の山門

明治16年。中央上に本妙寺、谷を挟んで本妙寺坂の文字
寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道で、江戸時代、坂の向かいに本妙寺があったことが坂名の由来と、江戸時代中期の『江戸砂子』に書かれています。
本妙寺は、現在、豊島区巣鴨5丁目にある法華宗の寺で、寛永13年(1636)から明治41年(1908)まで、本郷丸山と呼ばれたこの地にありました。
江戸時代後期の『御府内備考』は『改選江戸誌』を引いて、「本妙寺坂は丸山のうち、本妙寺のむかひの坂なればなり、これを下ればすなはち本妙寺の表門なり」と書いています。
本妙寺は明暦3年(1657)の大火、振袖火事の火元として知られ、江戸の三分の二を焼失したと『東京名所図会』に書かれています。

坂上から。谷を挟んだ正面に本妙寺があった
 炭団坂(本郷4丁目)

坂下から。坂は4つの階段からなる
文京ふるさと歴史館と区立真砂図書館の間の道を北に進むと、階段になった急坂、炭団坂があります。南に進むと、春日通りの真砂坂上交差点に出ます。

御府内往還其外沿革図書 元禄16年之形
右・本妙寺坂、左・鐙坂、左下・旧東富坂。炭団坂はまだない

御府内往還其外沿革図書 宝永元年之形
右・本妙寺坂、左・鐙坂の間に道が通り、炭団坂ができている

明治時代の炭団坂

坂上から
江戸時代後期に編纂された『御府内往還其外沿革図書』からは、この道が造られたのは元禄16年(1703)から宝永元年(1704)にかけてと推測できます。
元禄16年の図で一帯が明地(空地)となっているのは、明暦3年(1657)に続く天和2年(1683)の大火によるものです。宝永元年までに旗本の拝領地となり、その際の区画整理で炭団坂が造られたと考えられます。
享保20年(1735)の『続江戸砂子』に、炭団坂の追記があることから、坂が造られた初期に炭団坂と名付けられていたことがわかります。
江戸時代後期の『御府内備考』は、炭団坂の名称の由来について、この場所に炭団などを商う者が多かったからという『改選江戸志』と、急坂で往来の人が転び落ちて炭団のようになるからだという『文政町方書上』の二つの説を紹介しています。
この一帯が町家ではなかったことを考えれば、炭団などを商う者が多かったという説は怪しいかもしれません。
 梨木坂(本郷5丁目)

坂下、菊坂通りから
菊坂通りから本郷5丁目6と7の間を北に上がって行く坂です。坂上には鳳明館本館があります。

新板江戸外絵図。左(西)から2本目の坂。きく坂と書かれている

東京測量原図。右の道。奈須阪と書かれている
梨木坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。
新板江戸外絵図にはきく坂と記されていますが、江戸時代の地図の多くが梨木坂を菊坂としています。(詳しくは、「菊坂のルーツと遷り変り」をご覧ください)
梨木坂の呼び名は、天明2年(1682)の『紫の一本』に出てきます。「なしの木坂 本明(妙)寺の前の谷へつきて小石川へ下る右の方の坂を云、此坂より菊坂へ出る、此あたりは昔同心屋敷也」と書かれていて、現在の梨木坂を指していると思われます。
梨木坂の坂名の由来について、寛延4年(1751)の『南向茶話』は、昔、大木の梨の木があったからとしています。

坂上から
また、江戸時代後期の『御府内備考』によれば『改選江戸志』は梨木坂、『文政町方書上』は梨子坂、なし坂、菊なし坂と呼んでいて、明治16年(1883)の東京測量原図には、奈須阪と記されています。
菊なし坂は、昔、坂上にあった菊畑が、坂の辺りからなくなったためで、それがなし坂になったといいます。
 鎧坂(本郷4丁目)

坂下付近からの景色
本郷4丁目20と11・31の間を北に下る坂で、坂上は東富坂、坂下は区道892号線・菊坂下交差点付近に繋がります。

右(東)から2本目の道の段々が鐙坂
江戸時代後期に編纂された『御府内往還其外沿革図書』からは、延宝年中(1673~81)に存在していたことが確認できる古い坂です。なお、古地図では元禄(1688~1704)の頃より確認できます。
鐙坂の坂名の由来について、寛延4年(1751)の『南向茶話』は、「其形鐙の形に似たるゆへなりと申伝へたり」と書いています。鐙(あぶみ)は、乗馬の際に足を乗せる馬具です。
江戸時代後期の『御府内備考』は、この地に武蔵国で作られた武蔵鐙を最初につくった者の子孫が住んでいたからという『江戸志』を否定し、坂の形が鐙に似ていたからとする『改選江戸志』を引用しています。

坂上から
 菊坂(本郷4丁目・5丁目)

坂下付近
本郷通りから本郷4丁目と3丁目の間を北西に下り、区道892号線・菊坂下交差点に至る、緩やかで長い道が菊坂です。

新板江戸外絵図。左上から右下にかけて。本妙寺の右で途切れている

明治11年。左上が菊坂下、本妙寺から右は下水(川)が流れている

明治29年。本妙寺から中山道までの坂上部分の道ができている

昭和31年。胸突坂に菊坂と記されている
正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道ですが、本郷5丁目4番より坂上の部分は、明治22年(1889)に開通したものです。
坂名の由来について、寛延4年(1751)の『南向茶話』は、「菊坂はむかし菊作りし畑なりといふ」と書いています。
文政8~11年(1825~28)の『文政町方書上』には、昔からこの辺りには菊畑が多く、坂の名を菊坂といったと書かれています。また、坂の上を菊坂台町、坂の下を菊坂町と呼んだといいます。
江戸図からは、菊坂台町は現在の梨木坂上から本郷通りにかけて、菊坂町は本妙寺坂下から菊坂下にかけてになります。また、菊坂下は菊坂田町と呼ばれていました。
江戸時代からの多くの地図は、梨木坂を菊坂としており、胸突坂を菊坂とする明治16年(1883)『測量原図』、「本郷丸山本妙寺の前なる坂」を菊坂とする元禄3年(1690)『増補江戸惣鹿子名所大全』もあり、菊坂町にある坂はどれも菊坂と呼ばれたのかもしれません。(詳しくは、「菊坂のルーツと遷り変り」をご覧ください)
胸突坂は、昭和31年(1956)の地図にも菊坂と表記されていて、現在の菊坂の呼称が定着したのは比較的近年のことではないかと考えられます。
菊坂周辺には明治期の文人が多く住んでいて、史跡巡りで訪れる人も多くいます。

坂上から
 胸突坂(本郷5丁目)

坂上から

坂上にある明治31年からの旅館・鳳明館

坂下から
菊坂から本郷5丁目9と33の間を東に上がって行く急坂です。坂上には鳳明館本館があり、梨木坂の坂上と繋がっています。
正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。
嘉永6年(1853)『小石川谷中本郷絵図』にはムネツキザカと記されていますが、古くは享保18年(1733)の『江府名勝志』にはキクサカ、近年の明治16年(1883)東京図測量原図には菊阪、昭和31年(1956)の文京区地図にも菊坂と記されていて、長く菊坂とも呼ばれていました。
胸突坂は急坂であることから、菊坂はかつて坂上に広く菊畑があったからと伝えられています。
 新坂(本郷5丁目・6丁目)

坂上から
区道892号線・菊坂下交差点の東、本郷5丁目33と本郷6丁目11の間を東に上る急坂です。坂上は本郷通り・東大正門前交差点に通じています。

本郷湯島絵図、菊坂下周辺。江戸時代、
新坂は、岡崎藩本多家の屋敷地内だった

明治11年。右上・森川町、左上・西片町。
間の谷が現在の区道892号線で新坂はまだない

明治13-14年。谷の道と、その下(南)に
新坂の道ができている

本郷6丁目14にあった映世神社

明治時代の新坂

坂下から
明治40年(1907)『東京名所図会』には、「映世神社々東を斜に東西に通ずる一路あり、其窮(きわま)る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ、谷の口にて菊坂下、田町に通ず」と書かれています。
文京区町会連合会の『三十年の歩み』(昭和61年、1986)には、「明治以降、森川町の中心に本多平八郎忠勝を祀る映世神社を本多氏が建立し、郷社として祭り(略)と伝えられている」と書かれていることから、映世神社と新坂に通じる道は明治になってから造られたものです。
明治期の地図からは、新坂が造られたのは明治13年(1880)頃と考えられます。映世神社は本郷6丁目14にありましたが、現在はありません。
新坂の道は、江戸時代は岡崎藩本多家の屋敷地でした。明治5年(1872)、先手組屋敷とともに森川町となりましたが、本多家屋敷地は町内の4分の3を占め、すべて1番地でした。本多家邸宅のほかは貸地となり、この際に新坂の道も造られたと思われます。
貸地には500戸が建ちましたが、すべて同じ1番地だったため、(あざ)と号数で区別することになりました。その字の一つが新坂で、坂名はこの字に由来すると考えられます。
 1丁目の坂(本郷1丁目)

元町公園西の坂

本郷1丁目1と2の間にある坂です。東の坂下には元町公園、西には昭和第一高等学校があります。大正12年(1923)の関東大震災後にできた道で、小さくカーブしています。
坂の東は戦前、元町小学校だった所で、元町公園の擁壁には太平洋戦争の防空壕跡があります。

坂下から

防空壕跡

工事中の元町公園

1丁目5・11~13の間の坂

桜蔭中学校高等学校を挟んで、忠弥坂の北に並行する坂です。途中、北から上ってくる坂と合流し、東から南へと曲ります。坂上には桜蔭学園があります。坂の両側には事業所などが建ち並んでいます。
坂の南に金刀比羅宮東京分社があることから、金毘羅坂の呼び名があります。

坂上

坂の中間

金刀比羅宮東京分社

壱岐坂交番から上るもう一つの坂下

1丁目8・10の間の坂

桜蔭学園から東に下りていく坂で、坂下から壱岐坂通りに出ます。マンションなどが並んでいます。

1丁目8・16の間の坂

興安寺前から壱岐坂通りに下りていく短い坂です。坂上は建部坂から外堀通り、坂下は春日通りを跨いで炭団坂へと続く道です。

1丁目10・11の間の坂

桜蔭学園から北へ下りる坂で、坂下は壱岐坂通りです。

坂下から

1丁目12(13)・17(16)の間の坂

壱岐坂の南に並行する坂です。坂上を北に上ると壱岐坂にぶつかります。事業所などが建ち並んでいます。

坂上。手前左へ坂を下る

1丁目25・27の間の坂

壱岐坂通りの壱岐坂交番前交差点から、北に上る坂です。坂上は春日通りを挟んで鐙坂へと続く道です。マンションなどが建ち並んでいます。
 3丁目の坂(本郷3丁目)

順天堂医院の坂


新板江戸外絵図。
下・神田川、左・油坂
本郷2丁目と3丁目の間にある坂です。神田川に面した両側は順天堂医院で、坂下は外堀通り、坂上は本郷通りに繋がります。正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。

坂下。両側が順天堂医院

3丁目12・22の間の坂

サッカー通りから西に上がる坂で、坂下は傘谷坂です。周辺には飲食店や事業所が集まっています。

坂上から。坂下が傘谷坂
 4丁目の坂(本郷4丁目)

清和公園東の坂

本郷4丁目15と19の間を北に曲りながら上って行く坂です。坂上には清和公園があります。清和公園を含む一帯は、江戸時代、高崎藩大河内松平家の中屋敷があった場所で、明治維新後、その多くは官有地となり、丘陵の斜面は子供たちの遊ぶ野原となったことから、右京原(うきょうがはら)と呼ばれるようになったと、明治40年(1907)『東京名所図会』は記しています。

清和公園と右京山の案内板

坂上から。右が清和公園
これは、大河内松平家代々の藩主の官位が右京太夫、あるいは右京亮だったことに依ります。
また、見晴らしも良く風光明媚にもかかわらず空地となっているのは、崖地のために開発が難しいからで、残念なことだとも書いています。
大正11年(1922)、丘陵斜面が東京市に払い下げられ、市営住宅などが建てられますが、この時に、現在の道が造られたと考えられます。

大正12年。右京原に本郷連隊区司令部がある

昭和7年。右京原に市営住宅が造られている

清和公園北の坂

本郷4丁目21と22の間を北に下りていく坂です。坂上には清和公園があります。坂下は清和公園西の道と合流後、ヘアピンのように曲がって東に下り、鐙坂からの道と繋がります。坂下からは路地を抜けて、菊坂下方面に出ます。
清和公園周辺が、大正11年(1922)、東京市に払い下げられ、市営住宅などが建てられた際に、造られた道と考えられます。

ヘアピンカーブの坂下

坂上から
 5丁目の坂(本郷5丁目)

本妙寺跡の坂

本郷5丁目4と5の間を南に下る、菊坂の谷を挟んで本妙寺坂と向かい合う坂です。寛永13年(1636)から明治41年(1908)までは、坂上にあった本妙寺の参道でした。寛文11年(1671)の新板江戸外絵図にも描かれています。(※「本妙寺坂」の項を参照)

坂下から

5丁目1・2の間の坂

菊坂から北に上る、本郷通りと並行した坂です。

坂上から

5丁目2・3の間の坂

菊坂から北に上る、路地の坂です。坂上に金魚商店があることから、金魚坂の通称があります。

坂下から

5丁目3・4の間の坂

菊坂から北に上る、本郷通りと並行した坂です。寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。


上・新板江戸外絵図
下・国土地理院地図。菊坂の坂上部分はまだない

坂下から
 6丁目の坂(本郷6丁目)

慈愛病院脇の坂

西片1丁目との間にある区道892号線から、本郷6丁目11と12の間を東に上がる階段です。北側に慈愛病院があります。

坂下の階段

清水橋東の坂

清水橋から、本郷6丁目12と21の間を東に上がる坂です。住宅街を抜けると、本郷通りの東大正門前交差点に出ます。

坂下の清水橋から

6丁目21・22の間の坂

区道892号線・西片二丁目交差点から南東に上る坂です。坂の南側に建つ本郷館は、2011年に建て替えられたもので、それまで明治時代に建てられた木造三階建ての下宿屋として人気がありました。

坂下から

木造のときの本郷館

6丁目22・23の間の坂

鳳明館森川別館の西を北に下りていく坂です。東京大学にも近く、アパートなどが残る本郷らしさを感じる一角です。

鳳明館森川別館
※このページで使用している御府内往還其外沿革図書の図版は、建部坂を除き、原書房刊『御府内沿革圖書 江戸城下変遷絵図集14』から引用したものです。
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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