文京の坂道

白山の坂道

胸突坂  中坂  浄心寺坂  薬師坂  伊賀坂  蓮華寺坂  逸見坂  暗闇坂  御殿坂  鍋割坂
1丁目住宅地の坂 白山1丁目・西片2丁目の間の坂
2丁目住宅地の坂 2丁目1・25の間の坂 2丁目1・2の間の坂 2丁目4・5の間の坂 2丁目22・35の間の坂 2丁目31・32の間の坂
4丁目住宅地の坂 4丁目30・31の間の坂 4丁目31・32の間の坂 本念寺前の坂 4丁目35・36の間の坂 4丁目36・37の間の坂
5丁目住宅地の坂 妙清寺北の坂 白山5丁目30・31の間の坂 白山5丁目11の階段 白山5丁目15・21の間の坂 白山5丁目16・15の間の坂 白山5丁目17・16の間の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 胸突坂(白山1丁目・西片2丁目)

坂上から。右側が白山1丁目、左側が西片2丁目。坂下は白山1丁目で、建物の奥は白山通り
中山道の西、本郷台から指ヶ谷に下る住宅街の中にある坂道です。北側が白山1丁目、南側が西片2丁目です。道が急峻なためにこの名が付いたと、明治後期の『新撰東京名所図会』に由来が書かれています。


江府名勝志。サスカヤ丁の下の横の道が浄心寺坂。
その下、浄心寺坂から下に伸びるクランクの道から右に伸びるのが、下から胸突坂、中坂
胸突坂は享保18年(1733)『江府名勝志』、延享から宝暦(1744~1764)頃の江戸大絵図に描かれています。
江戸時代後期の『御府内備考』では新道坂とも呼ばれていて、丸山新町の裏通りを新道と呼んだことが由来だとしています。
丸山新町は胸突坂と浄心寺坂に挟まれた区域で、新道坂の名から、江戸時代に新しく造られた道であることがわかります。
また、明治6年(1873)『地名字引』には、峯月坂の別名が記されています。胸突坂の音、ムナツキに峯月を当てたものと考えられます。

坂下から。右に福山藩中屋敷があった。
坂上は中山道に繋がる
坂上から坂下にかけては武家屋敷が集まり、坂の南には福山藩中屋敷がありました。坂の南にある文京区立誠之小学校は、この藩邸跡の一部に建っていて、校名は藩校「誠之館」から採られています。
 中坂(白山1丁目)

坂上から。左に胸突坂、右に浄心寺坂がある。坂下は指ヶ谷
胸突坂の北、同じ本郷台から指ヶ谷に下る住宅街の中にある坂道です。明治後期の『新撰東京名所図会』には、「胸突坂と浄心寺坂との間に坂あり、中坂(なかざか)といふ。」と書かれています。
胸突坂は中坂から南に約80メートル、浄心寺坂は北に約120メートルのところにあり、江戸時代後期の『御府内備考』にも、新道坂(胸突坂)と浄心寺坂の中程にある坂なので、そう呼ばれたと記されています。

宝暦頃の江戸大絵図。
右下から上に、胸突坂、中坂、浄心寺坂。左は蓮華寺坂
中坂は、胸突坂と同じく享保18年(1733)『江府名勝志』、延享から宝暦(1744~1764)頃の江戸大絵図に描かれています。坂の両側には武家屋敷が並び、坂下は小役人の住居、坂上は中山道に面した町家になっています。

坂下から
 浄心寺坂(白山1丁目)

坂上から。右にかつて浄心寺があったが、今はマンションが立っている
旧白山通りの白山下交差点から、中山道の白山1丁目交差点に上る細い坂道で、かつて坂の北側に浄心寺があったことから、浄心寺坂と呼ばれて来ました。
文政3年(1820)の『小石川志料』には、「坂上に浄心寺といへる法華宗の寺ある故に名とせり」と書かれています。

『新板江戸外絵図』。左上が白山上で、右への道が浄心寺坂。
坂の途中に上心寺、右上の日光御成街道に乗シン寺の文字がある

『御府内場末往還其外沿革圖書』(延宝年中)。中下が白山下、右への道が浄心寺坂。
坂下に円乗寺、坂上に浄心寺がある
浄心寺坂は、寛文11~13年(1671~73)の『新板江戸外絵図』に描かれている古い道で、坂の上に上心寺が記されています。
浄心寺は法華宗(日蓮宗)の寺で、嘉永7年(1854)に作製された『御府内場末往還其外沿革圖書』には、延宝年中(1673~81)以降、円乗寺の隣に浄心寺が描かれており、『新板江戸外絵図』の上心寺が『小石川志料』にいう浄心寺であったことがわかります。
浄心寺は昭和初期まで、地図上でその存在を確認することができます。
浄心寺坂の東、本郷通り沿いに同名の浄心寺がありますが、こちらは浄土宗の寺で、『新板江戸外絵図』には乗シン寺と記されています。
現在、浄心寺坂に浄心寺はありませんが、日蓮宗の寺院一覧には白山1丁目36番11号に浄心寺が掲載されています。

浄心寺坂の一帯は古くからの寺町で、坂の途中にある円乗寺に八百屋お七の墓があることから、於七坂とも呼ばれています。明治6年(1873)『地名字引』には、於七坂の別名が記されています。

浄心寺坂下から

円乗寺にあるお七の墓
 薬師坂(白山1丁目・5丁目)

坂下から。都営三田線白山駅前の道で、人や車の往来が多い
白山通りから中山道へと本郷台を上っていく坂道で、坂下は白山下交差点で浄心寺坂と合流します。坂上は白山上交差点です。
江戸時代後期の『御府内備考』には、妙清寺に薬師堂があることから、薬師坂と呼ばれていると書かれています。妙清寺は坂上にある曹洞宗の寺で、境内に薬師如来堂がありました。

『新板江戸外絵図』に描かれた薬師坂。坂上(左)に「薬師 メウセウシ」の文字がある。
坂の途中に「シンカウシ」(心光寺)、「上ウンシ」(浄雲寺)がある
妙清寺は慶長11年(1606)の創建で、明暦3年(1657)の大火により現在地に移転したと伝えられます。
寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図には、メウセイジ(妙清寺)の横に薬師と併記されていて、薬師堂ないしは薬師如来があったことがわかります。
また坂下に浄雲寺があったことから浄雲寺坂、あるいは白山坂とも呼ばれました。
浄運寺坂は、文化11年(1814)、小川顕道の随筆『塵塚談(ちりづかだん)』の「火見櫓を井楼といふ事」の中に出てきます。
浄雲寺は隣の心光寺が類焼したために、明治43年(1910)に合併、現在は浄雲院心光寺を名乗っています。

薬師堂のあった妙清寺

浄雲院心光寺

薬師坂上。右に妙清寺がある
白山坂は、明治43年(1910)の路面電車の開通以降、停留所名として白山坂上、白山坂下が文献に登場するようになります。
江戸時代、薬師坂に沿って白山前町がありました。『御府内備考』によれば、町名の由来は白山神社前にあるからで、坂上の駒込片町は、上ノ町とも呼ばれていたといいます。
白山の名は白山神社または白山前町に由来しますが、路面電車の停留所名によって坂名となったのかもしれません。
 伊賀坂(白山2丁目)

指ヶ谷小学校前の伊賀坂。道の先には「防火」と書かれた提灯が下がっている
白山台から指ヶ谷に下る細い坂で、指ヶ谷小学校の正門前をくねりながら下りて行きます。坂下は白山通りです。
坂上からは西の住宅街への道と、北の蓮華寺坂の坂上への道に分かれます。

御府内沿革図書・延宝年中。蓮華寺(赤地)下
のジグザグが伊賀坂。左下に松平備前守屋鋪

元禄10年・分間江戸図。レンゲジの上は蓮華寺坂。
左上方向に白山御殿がある
坂の名の由来について、江戸時代後期の『御府内備考』には、伊賀同心衆の組屋敷があったという説と、真田伊賀守の屋敷があったという二つの説が載っています。
伊賀坂は、『御府内往還其外沿革図書』の延宝年中(1673~81)之形や元禄10年(1697)分間江戸図に存在を確認できます。
真田伊賀守には、明暦4年(1658)に上野沼田藩主となった真田信利がいますが、当時の伊賀坂近くの絵図等に松平備前守の屋敷はありますが、信利の屋敷は確認できません。
『御府内備考』には、『改選江戸志』を引用して、「むかし真田伊賀守屋敷ここにありしかばかくいへり、其後松平備前守にたまへりといふ、いささかの坂なり」と書かれています。
当時の備前守は相模玉縄藩主・松平正信で、慶安元年(1648)に家督を相続しています。
『御府内備考』には、原町名主の文書に万治三年(1660)に真田伊賀守に土地を渡したと記されており、これが延宝年中までに松平備前守の屋敷地となったのかもしれません。
文政3年(1820)『小石川志料』の著者・松崎純庸は、松平備前守の屋敷地に以前、真田伊賀守信利の屋敷があったので、伊賀坂の名が付いたとしています。

伊賀坂下。手前に白山通りが通っている
 蓮華寺坂(白山2丁目・4丁目の間)

御殿坂から来た道を北に下りていく蓮華寺坂。坂下は白山通り
蓮華寺坂は、御殿坂から白山台を越えて、指ヶ谷に下る坂です。坂下には白山通りが通っています。

新板江戸外絵図と国土地理院地図の合成。左から右へ御殿坂、蓮華寺坂
坂の南には天正15年(1587)開山の蓮華寺があり、江戸時代には蓮花寺とも書かれました。
江戸時代後期の『御府内備考』は、『改選江戸志』を引用してこの坂を蓮華寺坂、あるいは蓮花寺坂と記しています。これが坂の名の由来です。
蓮華寺坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図に描かれている古い坂です。

坂下から。手前は白山通り
 逸見坂(白山4丁目)

坂上から。白山台の白山御殿町から下る坂で、坂下は白山通り
小石川植物園の裏手、白山台から指ヶ谷に下る坂で、蓮華寺坂よりも北にあります。坂下は白山通りです。
かつて坂の上は白山御殿町と呼ばれ、江戸時代には旗本屋敷がありました。その中に逸見(へんみ)某という武家の屋敷があったことから、逸見坂と呼ばれるようになったと言われています。

御府内沿革図書・元禄11年。横の道が逸見坂。左に逸見弥右衛門屋敷
『御府内往還其外沿革図書』の延宝年中(1673~81)之形や元禄10年(1697)分間江戸図に存在を確認できます。
の元禄11年(1698)以降の図に、坂上の屋敷に逸見弥右衛門と逸見東馬の名が見えます。安政4年(1857)の『東都駒込辺絵図』には、ヘンミサカの名が登場しています。
逸見坂は、江戸時代前期の江戸図には描かれていません。江戸時代中期の江戸図や『御府内往還其外沿革図書』元禄11年(1698)之形に登場することから、上野館林藩主・徳川綱吉が5代将軍となった延宝8年(1680)以降、下屋敷だった白山御殿が廃され、一部が武家地となった際に、造成された道と考えられます。

東都駒込辺絵図。ヘンミサカと記されている

坂下
 暗闇坂(白山5丁目)

住宅街にある細い坂道で、白山通りに下っていく
東洋大学白山キャンパスの西、白山5丁目10と11の間の住宅街にある細い急坂です。
中山道から白山5丁目29・33の間の坂を下りて東洋大学南を回り、白山通りを越えて白山4丁目24に至る暗闇坂を含む細道を、かつて間(あい)の道と呼んだと、明治39年(1906)の『新撰東京名所図会』に書かれています。
間の道は暗闇坂の上で二つに分岐し、もう一つは5丁目11番で右に折れ白山5丁目21と22の間を抜けて中山道に戻ります。

暗闇坂下

駒込絵図に描かれた間の道

暗闇坂周辺の新板江戸外絵図(①)

暗闇坂周辺の国土地理院地図(②)

①と②を重ねたもの。(一部調整)中山道から下りる間道は暗闇坂とほぼ一致する
この分岐した中山道への道と暗闇坂から白山4丁目に下る道は、寛文11~13年(1671~73)の新板江戸外絵図に描かれていて、古くからの間道であったことがわかります。
『新撰東京名所図会』には「細き、闇(くら)き、坂路」とあり、それが暗闇坂の名前の由来と思われます。
暗闇坂を含む間の道は、嘉永7年(1854)の駒込絵図でも確認することができます。
 御殿坂(白山2丁目・3丁目の間)

坂上から。右に見える塀と樹木が、小石川植物園
小石川植物園の正門の近くにある細い急坂です。植物園の東に沿って登ると、坂上は住宅地で、東洋大学付属の中学高等学校があります。
江戸時代初期、植物園の場所には白山神社がありました。

歩道を拡幅する前の御殿坂・坂上(2011年1月撮影)

正保年中江戸絵図。蓮花寺左の縦の道、上が蓮華寺坂、下が御殿坂

明治時代の御殿坂。左が植物園
江戸時代後期の『御府内備考』によれば、徳川綱吉が上野館林藩初代藩主となり、この地に初めて屋敷を得たのは承応元年(1652)のことです。その後も屋敷地を広げ、白山御殿と呼ばれるようになりました。
坂を上った左・白山4丁目1のパークハウス白山御殿町の敷地からは、白山御殿の遺構が発見されています。
御殿坂の名は、白山御殿の表門の坂だったことに由来すると、文政3年(1820)『小石川志料』は書いています。 『御府内備考』は、それより以前は御殿坂は大坂と呼ばれていたと、『改選江戸志』を引用しています。また、江戸中期には坂上から富士山が望めたことから、富士見坂とも呼ばれました。
御殿坂は、正保元年(1644)頃の図とされる正保年中江戸絵図、寛文11年(1671)の新板江戸外絵図に描かれている古い道です。
綱吉が第5代将軍になると、白山御殿の屋敷地は幕府の薬草園となり、現在は東京大学付属の小石川植物園となっています。

小石川植物園の入口

坂下から。左側が小石川植物園

歩道拡幅前の坂下(2011年1月撮影)
 * 鍋割坂(白山3丁目)

震災記念碑から下りる急な坂。古地図を見ると、ここに鍋割坂があったのかもしれない
小石川植物園が徳川幕府の薬草園だった時代、園内を横切る道がありました。この道は鍋割坂と呼ばれていましたが、現在はありません。
嘉永7年(1854)に作製された『御府内場末往還其外沿革図書』からは、白山御殿廃止後の江戸時代中期に、鍋割坂が誕生したと考えられます。(※「地図から消えた坂道」もご覧ください。)
この道は全体には平坦ですが、植物園内の白山台から小石川に下りる斜面が急坂となっています。坂上には樹木林、坂下には池が広がっています。

スズカケノキ付近が鍋割坂上だった?

池のこの辺りを鍋割坂が通っていたかも

小石川養生所の井戸が残っている

当時と同じ薬草を栽培している薬園保存園

植物園にある世界一大きな花、
ショクダイオオコンニャク
江戸時代、坂の上に小石川養生所があったことから、この坂は病人坂とも呼ばれました。
小石川養生所は、山本周五郎の小説「赤ひげ」の舞台としても知られていますが、現在は植物園内に井戸だけが残っています。
植物園内には薬草園や標本園、樹木林、温室などがあり、世界でも珍しい植物が栽培されています。

絵図に描かれた鍋割坂。上・東都駒込辺絵図、下・東都小石川絵図
江戸時代後期の『御府内備考』は、『改選江戸志』を引用して、もとは無名の坂だったが、養生所ができて病人坂の名が付いたと書いています。
また、『武江年表』享保七年の項には、もとは鍋割坂といったが、享保7年に養生所ができてから、病人坂と呼ばれるようになったと書かれています。
江戸時代末期の『東都小石川絵図』『東都駒込辺絵図』にはナベワリサカの坂名が記されています。
明治40年の『東京名所図会』には、「今や小石川植物園構内へ囲ゐ込まれて、坂路杜絶せり」と書かれていて、この時までに鍋割坂が消滅していたことがわかります。
1丁目住宅地の坂(白山1丁目)

白山1丁目・西片2丁目の間の坂

本郷台の裾を巻くようにして胸突坂、中坂に上っていく、誠之小学校西にある坂道です。坂下は白山1丁目3・4の間になります。
途中、西の指ヶ谷に下りる小さな坂や階段がいくつかあります。

坂の途中にあるポンプ

白山1丁目9・10の間の階段

白山1丁目4・9の間の坂

白山1丁目15・23の間の坂
2丁目住宅地の坂(白山2丁目)
白山2丁目の南、白山台の裾は小高い丘になっていて小さな坂が集っています。
とりわけ西の裾は崖になっていて、途中からは家々の間の狭い路地や階段となっています。これらの多くは私道です。

2丁目1・25の間の坂

白山台の南東の裾。坂上は伊賀坂、坂下は白山通りです。

2丁目1・2の間の坂

白山台の南の裾を日立製作所の白山閣に沿って下りていきます。

坂上から坂下方向を見る

2丁目4・5の間の坂

白山台の西の裾。坂上は階段で路地に続きます。

2丁目22・35の間の坂

伊賀坂上から住宅街を白山の高台へと続いています。

2丁目31・32の間の坂

伊賀坂上から蓮花寺坂の坂上へと続いています。
4丁目住宅地の坂(白山4丁目)
小石川植物園の裏、かつての白山御殿町から白山通りへは、蓮華寺坂、逸見坂のほかにいくつかの坂があります。
どれも住宅街の小さな坂ですが、江戸末期の古地図にもある道です。
これらの坂の途中にある本念寺には、江戸後期の狂歌師・戯作者、大田南畝の墓があります。

4丁目30・31の間の坂

蓮華寺坂のすぐ北にある狭い坂です。

4丁目31・32の間の坂

逸見坂のすぐ南にある坂です。

本念寺前の坂

4丁目34と35の間の坂です。坂下は白山通りになります。

本念寺前の坂の上にある階段

大田南畝の墓のある本念寺

4丁目35・36の間の坂

本念寺前の坂の北にある狭い急坂です。

4丁目36・37の間の坂

寂圓寺の南にある坂です。
5丁目住宅地の坂(白山5丁目)

妙清寺北の坂

中山道から妙清寺の北、白山5丁目29・33の間を、東洋大学白山キャンパスに向かって下りていく坂道です。江戸時代の間(あい)の道の入口です。

坂上から坂下方向

白山5丁目30・31の間の坂

妙清寺北の坂の続きで、蓮久寺と最乗寺の間から、東洋大学白山キャンパスに向かって坂を上がっていきます。江戸時代の間(あい)の道の一部です。

坂下から坂上方向

白山5丁目11の階段

東洋大学白山キャンパスの西、京華中学・高等学校の北の道に下りていく階段です。

階段上

白山5丁目15・21の間の坂

京華女子中学・高等学校の北、住宅街の中にある坂道です。

坂下から

白山5丁目16・15の間の坂

中山道から白山通りに下りていく住宅と商業ビルが混在する一角にある坂道です。

坂下

白山5丁目17・16の間の坂

中山道と白山通りが合流する手前にある坂道です。道の両側には住宅と商業ビルが混在しています。

坂下から坂上方向
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

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