文京の坂道

小日向の坂道

荒木坂  浅利坂  庚申坂  切支丹坂  藤坂  釈迦坂  蛙坂  茗荷坂  薬罐坂  横町坂  服部坂  大日坂  鷺坂  八幡坂  鼠坂
1丁目住宅地の坂 薬罐坂下の坂 1丁目10・18の間の坂 1丁目11・18の間の坂 元清華寮前の坂
2丁目住宅地の坂 こひなた保育園横の坂 2丁目5・3丁目5の間の坂 2丁目22・23の間の坂
3丁目住宅地の坂 3丁目7・9の間の坂 3丁目4・9の間の坂 拓大北の坂
ま・めいぞん(坂・グルメ)
 荒木坂(小日向1丁目)

坂下に見える通りが、かつて神田上水だった巻石通り
茗荷谷のすぐ西にある、小日向台から巻石通りに下る坂です。巻石通りには、かつて神田上水が流れていました。
江戸時代、坂上に旗本の荒木志摩守の屋敷があったのが、名前の由来だといわれています。
 浅利坂(小日向1丁目)

住居表示板にある浅利坂。昔の浅利坂はもっと右だった
切支丹坂の南、小石川台から茗荷谷に下る坂です。
昔の浅利坂は、住居表示板に書かれたものより北にあったといわれています。
しかし、宅地開発によって、住宅街の中に消滅してしまいました。 (※「地図から消えた坂道」もご覧ください。)

昔の浅利坂があった辺り
 庚申坂(小日向4丁目・春日2丁目の間)

右の石段が庚申坂。坂の上には茗台中学校がある
小石川台、春日通りの茗台中学校前交差点から茗荷谷に下りていく坂です。途中からは石段になっています。
昔、坂の下に庚申の碑があったことから庚申坂と呼ばれました。
庚申の日に眠ると体内にいる三尸(さんし)の虫が抜け出て天帝に罪過を告げて、早死にさせるという信仰がありました。そのため、人々は徹夜で夜明かしをしたそうです。


庚申坂の枝垂れ桜(初代)
明治時代、この坂は切支丹坂と呼ばれていましたが、本来の切支丹坂は向かいの坂をいうそうです。
庚申坂の上は、江戸時代には同心屋敷がありました。そのために庚申坂上のこの辺り一帯は同心町と呼ばれていました。
 切支丹坂(小日向1丁目)

坂の左に、かつて切支丹屋敷があった。坂下のガードを潜った向こうが庚申坂
庚申坂を下りて、丸ノ内線のガードを潜ると、途中から小日向台への上り坂になります。
明治時代には庚申坂が切支丹坂と呼ばれていましたが、もともとはこの上り坂が切支丹坂だったと考えられています。
江戸時代、この坂の上に、切支丹を牢屋に投獄した切支丹屋敷がありました。
この坂は、幽霊坂とも呼ばれています。 (※「キリシタン坂の今昔」もご覧ください。)

路傍に建つ切支丹屋敷跡の碑

坂下で切支丹坂と交差する、別の坂

丸ノ内線ガード下。出口の先が切支丹坂
 藤坂(小日向4丁目)

藤坂の急坂を上ると、春日通りの小石川5丁目交差点に出る
小石川台、播磨坂上から谷に下る急坂があります。これが藤坂で、坂下の伝明寺が藤寺と親しまれたことから、そう呼ばれました。
三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に藤寺と名付けたと伝えられています。
坂上から富士山を望めたことから富士坂とも、また清水谷と呼ばれた谷の湿地に河童がいたので、禿(かむろ)坂とも呼ばれたといいます。禿は昔、子どものおかっぱの髪形を言いました。


坂上から清水谷と呼ばれた谷に下りる

坂下にある藤寺の名で親しまれる伝明寺

昔の清水谷、伝明寺の観音水
 釈迦坂(小日向4丁目)

S字カーブの急な坂。右手の石垣が、釈迦の石像があったという徳雲寺
茗荷谷駅近くの春日通りから脇道に入って崖沿いに行くと釈迦坂があります。
小石川台から徳雲寺の脇を谷に下るくねくねした急坂で、坂下で丸ノ内線のガードを潜ります。
この坂から徳雲寺に並んだいくつもの釈迦の石像が見えたことから、この名がついたといいます。

徳雲寺の入口は春日通り側にある

徳雲寺境内の小石川七福神・男弁財天

釈迦坂の坂上から。左が徳雲寺
蛙坂(小日向1丁目)

貞静学園短期大学の校門前からキャンパスに沿って登る急坂
釈迦坂下、丸ノ内線の高架脇の細い道を入っていくと貞静学園短期大学があります。この前の小日向台に上る坂が蛙坂です。
坂の東、丸ノ内線の高架がある谷が昔は湿地になっていて、蛙がたくさんいました。
向かいの馬場六之助の抱屋敷には古池がありました。双方の蛙がこの坂で合戦をしたという話から、蛙坂の名がついたそうです。
蛙坂は、復坂(かえるざか)とも書きます。

貞静学園短大前を右にカーブして登る蛙坂

蛙坂(坂下・正面)と交わるもう1本の急坂

蛙坂下には小さな稲荷神社がある
 茗荷坂(小日向4丁目・3丁目・大塚1丁目の間)

拓殖大学と深光寺に挟まれた坂下
茗荷谷は、東の小石川台と西の小日向台の間の谷で、現在は東京メトロの小石川車両基地が谷を覆っています。
谷の入口は神田上水跡の巻石通りです。そこから下は、神田川の流れる大きな谷に合流しています。
逆に谷を遡った一番奥が、茗荷坂になります。
茗荷坂は、茗荷谷駅から細い坂道を下り、林泉寺の門前を抜け、深光寺の下に至ります。
坂下には、拓殖大学の東門があります。
拓殖大学の敷地は、江戸時代には大名・戸田淡路守の下屋敷でした。

茗荷谷駅を出てすぐの茗荷坂の坂上

坂の途中、縛られ地蔵の林泉寺

林泉寺境内にある縛られ地蔵

坂の途中にある林泉寺には、境内に石仏があり、江戸時代から縛られ地蔵として知られています。
また坂下の深光寺には、滝沢馬琴の墓やキリシタン燈籠があり、小石川七福神の一つ恵比寿天が祀られています。
拓大東門からさらに南に行くと上り坂があります。こちらが本来の茗荷坂だという説もあります。

茗荷坂下から登る深光寺参道の坂

恵比寿天が祀られている深光寺

深光寺にある滝沢馬琴の墓

茗荷坂の名の由来は、付近に茗荷の畑があったからだといわれますが、播磨坂近くにある、ま・めいぞん小石川の敷地にも茗荷が自生しています。
茗荷谷だけでなく、小石川台一帯には昔から茗荷が自生していたのかもしれません。
 薬罐坂(小日向1丁目)

小日向公園の脇にある細い坂道。昔、野狐が出たのもうなずける静けさ
住宅地の中を小日向台に上っていく坂で、小日向1丁目10番と11番の間の道です。
江戸末期の古地図を見ると、1丁目10・18の間の坂にヤカンサカという表記があるので、ここまでが薬罐坂だったのかもしれません。
昔、野狐のことをやかん(野干)といい、人を化かすと信じられていました。この坂に野狐が出ることから、やかん坂と呼んだのではないかといいます。
やがて同じ読みの湯沸かしの薬罐の字があてられて、薬罐坂となりました。
住宅街の中を通る、緑の多い静かな坂道に、野狐が出たというかつての面影が忍ばれます。

坂上から南に下る薬罐坂

薬罐坂下。右手に小日向公園

薬罐坂の東の高台にある小日向公園
 横町坂(小日向1丁目)

坂上は服部坂の途中。ここから東に向かって下りていく細い道が横町坂
この坂の西端に服部坂がありますが、江戸時代、そこに武家屋敷がありました。また坂の東は水道町の町屋で、それを結ぶ狭い横町の道でした。
それでこの坂に横町坂という名がつきました。

横町坂の坂下
 服部坂(小日向1丁目・2丁目の間)

小日向台から神田川に下りる坂。右が小日向神社、坂の途中左に横町坂がある
小日向台を南に下る坂の一つで、坂下はかつて神田上水だった巻石通りです。
江戸時代、坂の上の西に旗本・服部与兵衛門の抱え屋敷がありました。それが坂の名の由来となっています。
服部屋敷跡は、今は小日向神社となっています。
また坂の北には、新渡戸稲造旧居跡のプレートがあります。

服部屋敷があった場所に建つ小日向神社

坂下には巻石通りが通っている

坂上の右手は小日向神社に降りる階段
 大日坂(小日向2丁目)

小日向台の住宅街の中を上っていく大日坂。狭くて急な坂が長く続く
小日向台を南に下りる坂の一つで、坂下は巻石通り、さらに南には神田川が流れています。
大日坂の名は、坂の途中に大日如来を祀る大日堂のある妙足院(みょうそくいん)があることに由来します。

かつて神田上水が流れていた巻石通り

華水橋付近を流れる神田川

大日如来を祀る妙足院の大日堂


坂上付近には住宅街が広がっている

氷川神社があった1丁目にある日輪寺
江戸時代、坂の上に田中八幡神社があったことから、この坂は八幡坂とも呼ばれていました。田中八幡神社は、音羽にある現在の今宮神社の場所にありました。
明治2年、田中八幡神社は日輪寺にあった氷川神社と合祀し、旗本・服部屋敷跡に遷座して、小日向神社となりました。
小日向神社は服部坂の西、日輪寺は小日向1丁目、水道端図書館の向かいにあります。
 鷺坂(小日向2丁目)

急坂・鷺坂の上には、かつて久世大和守の下屋敷があった
小日向台から西の音羽通りに下る、もっとも南寄りの坂です。
江戸時代、坂の上は久世大和守の下屋敷でした。それで人々はこの丘を久世山と呼んでいました。
大正時代、近くに住んでいた詩人の堀口大学三好達治佐藤春夫らが、これを万葉集に歌われた山城国(京都府)の久世の鷺坂と結びつけて、鷺坂と呼んだことから坂の名になりました。

鷺坂の碑と案内プレート
1932年(昭和7年)に坂の途中に建てられた鷺坂の碑に、万葉集の「山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌りつつ 秋は散りけり」の歌が刻まれています。

鷺坂ジグザグの続き。坂の上部分
鷺坂をジグザグに上り切った丘の上、かつての久世山は住宅街となっています。
 八幡坂(小日向2丁目・音羽1丁目の間)

今宮神社の北側にある八幡坂の登り口
小日向台から今宮神社の脇を抜けて、音羽通り方面に下りていく石段の坂です。
江戸時代、今宮神社には田中八幡神社がありました。それが、坂の名の由来です。
明治2年、田中八幡神社は日輪寺にあった氷川神社と合祀されて小日向神社となり、服部坂西に遷座しました。
明治6年、今度は田中八幡神社の跡に、護国寺にあった今宮神社が遷座しました。
八幡神社が移り、今宮神社となっても坂の名は変わらずに残っています。
八幡坂には、石川啄木が単身上京した最初の下宿がありました。坂の上に、説明のプレートがあります。

途中から坂は北に折れる

階段の急坂を上った坂上

階段上からさらに続く上り坂

階段上から東、大日坂への道

八幡坂上にある石川啄木下宿跡のプレート

田中八幡神社跡に建てられた今宮神社
 鼠坂(小日向3丁目・音羽1丁目の間)

階段とスロープのついた鼠坂には住宅が並んでいる。小日向台でも一番の急坂
音羽通りから小日向台に上る急坂で、細長い石段が一直線に続いています。
このような細い道を鼠穴といったことから鼠坂の名がついたといわれています。
江戸時代、このあたり一帯は武家屋敷地でした。昔、この辺りを鼠ヶ谷村といい、武家屋敷になってからも鼠谷と呼んだそうです。それで鼠谷に下りる坂を鼠坂と呼んだともいいます。
明治の文豪・森鴎外は、違う説を立てています。小説『鼠坂』の中で、鼠でなくては上がり降りが出来ない急坂なので、この名がついたと説明しています。

坂上から見下ろす谷底はかつての音羽谷

鼠坂付近にある階段の坂
音羽通りはかつて音羽谷で、弦巻川が流れていました。坂上から川が眺められたことから水見坂とも呼ばれていたそうです。
1丁目住宅地の坂(小日向1丁目)

薬罐坂下の坂

小日向台から薬罐坂を下りていくと、この坂道の途中に出ます。
道は坂上の住宅街を1周し、再び坂の中間に戻ります。坂下は巻石通りになります。
この坂の西には服部坂があり、坂下付近で横町坂で繋がっています。

住宅街を1周して手前の坂に戻る

坂上から。左に薬罐坂の坂下

1丁目10・18の間の坂

薬罐坂上から西に上る坂です。江戸末期の古地図にはヤカンサカと書かれています。

1丁目11・18の間の坂

1丁目10・18の間の坂から続く、薬罐坂上から東に下る坂です。

元清華寮前の坂

拓大東門から南に上る坂です。
本来はこちらが茗荷坂だったという説もあります。
この坂の東には台湾総督府の学生寮として1927年に建てられた清華寮がありましたが、2007年に火災で焼失。現在は跡地に老人施設が建っています。

塀の向こうが清華寮(2011年2月撮影)

左に老人施設が建つ前。坂下から
2丁目住宅地の坂(小日向2丁目)
拓殖大学の西と南の住宅街は、細い坂道が入り組んで迷路のようになっています。
また小日向台は起伏が多いために、坂道の間を繋いでいる短い階段があります。
これらの坂道や階段には、通勤・通学・買い物のために住宅街の人々が行き交う生活の道となっています。

こひなた保育園横の坂

拓殖大学の南に延びる、1丁目19・21と2丁目3・4の間の坂です。

2丁目5・3丁目5の間の坂

拓殖大学の南にある坂で、坂下はこひなた保育園です。坂の途中には南の高台に上がる階段があります。

2丁目4・5の間にある階段

2丁目22・23の間の坂

鷺坂の坂上から、さらに上り坂となって続きます。坂上は大日坂の坂上に繋がっています。
写真の左の下り坂は鼠坂です。右の上り坂が、2丁目22・23の間の坂です。
3丁目住宅地の坂(小日向3丁目)

3丁目7・9の間の坂

拓殖大学の西70mにある坂になった路地です。家々の軒下を通ります。

3丁目4・9の間の坂

拓殖大学西の塀に沿った細い急坂です。左の壁が拓殖大学です。

拓大北の坂

拓殖大学の北にある坂道です。
林泉寺前の茗荷坂の途中から分かれる坂で、坂の上は拓殖大学・東門前になります。
写真は、坂の右が拓殖大学。坂下に縛られ地蔵の林泉寺が見えます。

茗荷坂と交わる坂下
(文・構成) 七会静
ま・めいぞん(坂・グルメ)

TOP